ケンタウロスのロンダル
ルチルが森の中の小屋に戻った時には、もう夕暮れが近い時間でした。
なんとなく沈んだ心地のルチルでしたが、しょんぼりしている時間はありません。
家の仕事は沢山あるのです。怠けて母さんに迷惑をかけるわけにはいかないのです。ルチルはそっと寝ている母さんの邪魔にならないようにそっと小屋の中に入りました。
水瓶は、朝に補充してあります。
床はちょっと埃っぽいですが、母さんが出かけてから掃除することにします。
ルチル自身は、エミリさんに食べさせて貰ったお昼ごはんで、まだお腹がすいていませんでしたが、母さんの食事を作っておいた方が良さそうです。
ちらりと扉の中のお友達を見て、ただいまのつもりでちょっとだけ手を振りました。話しかけて眠りが浅くなった母さんに聞こえたら、母さんの気に障るでしょう。
あとでね、と口を動かして伝えると、黒パンを切ります。黒玉ネギと黒い実のスープを作って、黒豚の肉を焼きました。母さんはいつも同じメニューを好むのです。立派な魔女ですから、食事のことより色々と用事があるのです。
いつものように食卓を整えると、小屋の空気がゆらりと揺れました。
母さんが起きたのです。
『母さん、食事の支度が出来ました』
ふらりと身を起こして、母さんはルチルを見ました。
『役立たず。使いはできたのかい』
母さんの鋭い目にルチルは身がすくむようでした。
『はい。代金と次の注文は貰いました。トマスさんはまだ腰が痛いそうです』
ふん、と母さんは鼻を鳴らしました。
『あたしがなんでも屋なんかの容態を知りたいって言ったかい。』
そうでした。母さんはつまらない商人の心配なんて、しないのでした。
ごめんなさい、と言おうとして、でも、ルチルは黙りました。
トマスもエミリも、ルチルに良くしてくれたのです。なんだか、母さんに謝るのも違う気がしました。
母さんは不機嫌なままで食事を終え、夜空へと消えました。
ルチルは母さんに命じられた新しい薬を作り、夜に採らなければいけない薬草を採りました。
胸の奥が、なんとなく痛いような重いような不思議な感じがしました。
『扉の中のお友達。どうしてかしら。私、なんだか胸の奥がおかしいの…』
小屋で薬草の整理をしながら、扉の中のお友達に話しかけます。扉の中のお友達も立ったままで何か作業をしているようです。扉の中のお友達にも、色々な家仕事があるのでしょう。
『今日はね、薬も早く作れたし、薬草も早く見つかったの。実験をする時間もあるかもなんだけども…』
いいことも沢山あった、とルチルは思い出しました。
お使いはちゃんと出来ました。コーマンチキン夫人とも礼儀正しく話せました。トマスとエミリは優しくしてくれたし、エミリのチョコレートケーキはとっても濃厚でするりと胃の中に滑り落ちたのでした。
こんな良いことがあった日の実験は、妖精を呼べるのかもしれません。
『やっぱり、実験してみよう。いい日だったんだものね』
ルチルは、大鍋にたっぷりと水を入れ、火にかけました。
水面が揺れるたび、薪の火の赤い光が反射して、ゆらゆらと揺れます。
角砂糖を一つ、月に掲げました。
呪文を唱えると、そおっと、窓辺に角砂糖を置きます。
大鍋の前に戻りオレンジの花のオイルを慎重に二滴だけ入れて、ちょっと考えてから満月の夜に採った月見草を加えました。大鍋の上で指をパッチンと鳴らします。女の子は3回だけ指を鳴らしました。
大鍋の中の水面が、ぱしゃ、と音を立てて揺れます。
ふわっと小屋の中に一瞬、風が吹いたようでした。
そして、大鍋の中には・・・
堂々とした老齢の、ケンタウロスが写っていたのです。
『…ほう…?』
ケンタウロスが息を吐きました。
『まだ若い。自分が何か分かっていない娘っ子か』
ケンタウロスの声は低く、齢を示すようにしゃがれていました。
『こんばんは。ケンタウロスさん。私はルチルです』
ルチルは礼儀正しく言いました。
『うむ、わしはケンタウロスのロンダルだ。黒い森の子だな』
驚いたことにロンダルはルチルを知っていました。
『ロンダルさんは私を知っているんですか』
びっくりしてルチルは聞きました。ロンダルの目は霞んでいて、ルチルが見えているか怪しいほどの老齢でした。
『私はお前さんの母親と親しかった。お前さんが産まれた時には祝いに行ったのだ』
これは驚きでした。ルチルは母さんの友達に会ったことはないと思っていました。
『そうなんですか。ありがとうございます。』
『哀れな子だ。火星がついているからであろうな。その代わり、彗星が横切っておるからな…。今宵の金星は燃えておるわ』
もぐもぐと口を動かしてロンダルは言いました。なんのことでしょうと聞いて良いものか、ルチルはちょっと考えました。
ロンダルはルチルに興味を失くしたように見えました。
『今宵の金星は燃えておるわ』
繰り返して言うと、ふーっと息を吐きます。
『じゃが、金星の行く末を知るにはわしは齢を取りすぎたわ…』
よく見ると、ロンダルはずいぶんやせ衰えているようでした。髪も鬣も白くなり、顔のしわは深くなっています。ロンダルはふーっと長い息を吐きました。
その息は、まるで冬の風のように弱々しく、大鍋の水面をほんの少しだけ揺らしました。
ルチルは胸の奥がきゅっと締めつけられるような気持ちになりました。
ロンダルは母さんの友人だったのです。
自分が生まれた時に祝いに来てくれたのです。
『ロンダルさん……大丈夫ですか』
思わず声が漏れました。ロンダルの目はもうルチルを見てはいませんでした。
『今宵の金星は燃えておるわ』
空を見て繰り返すと、ぐにゃりと水面が揺れました。そして、ルチルは水面に映る自分を見つめていました。




