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死にゆくセミ

 僕がはじめて博士さんと出会ったころ。

 まだ六歳だった僕の前に、たびたび彼はやってきていた。

 会う間隔は三日だったりひと月だったり、とにかく不定期ではあるが、不思議な雰囲気のその青年は家に時おりやってくるといろんな話をしていった。

 たいてい僕は庭先に面した縁側で絵を描いていて、博士さんはその横に座ることが多かった。

「うまく描けてるね」

 夏の終わりの夕方のことだった。

 博士さんはやってくるなり縁側へ座り込み、僕の描く絵を感嘆の目でそう称した。

「心くんの絵は、まるで本当にある現実の場所みたいだ」

 その言葉に、びくりとクレヨンを動かす手がとまる。

 おずおずと顔を上げれば、彼は優しく微笑んでいた。

 その笑顔はまるで神さまか何かみたいに美しく清浄に見えた。

「ねぇ、いつもどこの絵を描いてるの?」

 僕は描いていた画用紙へ視線を落とした。

 これがどこかなんて知らない。

 絵に描かれているのは台所のような場所、に見えた。四角い机と揃いの椅子がふたつ、灰色の洗い場の奥に小さな格子窓がある。

 そして部屋の真ん中には、白い花が落ちていた。

 ぽつりと不自然にも描かれたその花がユリなのだと、なぜか博士さんは知っていた。

「心くんは、ここに行ったことがあるの?」

 僕は首を振る。

 ただ夢で見た場所を思い出しながら描いているだけだ。

 これがどこかもわからないまま、心に溜まった澱を吐き出すように外へ逃がし続けている。

 僕が拙いながらもそう答えたのをうけて、博士さんは「ふうん」と首をひねる。

「夢で見た場所ね。たとえばだけど、その夢で君はなにを見たの?」

 僕は描いたばかりの絵に視線を落としていた。

 思い出されるのは誰かの甲高い悲鳴だ。くぐもった音ともにそれはすぐに消え、大きな物が倒れるにぶい音、そして静寂が真夜中に響きわたる――夢のなかで、元々うす暗かった視界はますます焦点が合わなくなり、そして。

 ぶるりと震えたのを押し殺すようにして、僕は赤いクレヨンを手に取り絵を塗りつぶした。

 赤、赤、あふれ出す赤、床も絨毯も、染まりゆく赤いろに世界を変えていく。

 ふと、赤く塗りこめていた手を止められた。

 博士さんが優しく僕の指から赤いクレヨンを取りあげた。

「大丈夫、怖がらなくてもいいよ。君には関係のないことなんだから」

 ぼんやりと顔を上げると、博士さんの顔の輪郭は涙でぼやけていた。いつの間に自分は泣いていたのだろう。呆然としている僕の頭を、あやすように博士さんが撫ぜてくる。優しい指の感触、あたたかい。彼は笑っている。その目はなぜか哀れむような色をしていた。

「君は夢を見ただけだ。そしてその夢に君は関係ない。だから安心して……なにも気にしなくていい」

 関係ないことだと彼は言った。

 僕が見る夢も、その中で倒れた誰かも僕とは関係がない――だから考えなくていいのだと。

「心くんは、なんのために絵を描いてるの?」

 僕はぽかんとしてしまった。

 べつに意味なんてない、ただ見てしまったイメージを外へ吐き出したかっただけだ。

 誰とも共有できない夢の残像を、そのまま抱えていることなんておそろしくてできない。

(こうでもしないと、怖くて眠れないから)

「そう……夢で人の姿は見えないの?」

 僕が首を振れば、なぜか博士さんはほっとした顔になる。

 どうしてそんなことを聞くのか。

 そう口を開きかけたとき、家の中でなにかが割れる音がした。両親が喧嘩しているようだ。

 僕らが座る縁側と屋内は板戸でしきられていて、中の様子はわからない。けれど見なくてもどうなっているのかくらいは想像がつく。

 金切声のように喚く声は母のもので、ビリビリ響く大音量で怒鳴っているのは父だ。何かが割れる音が立て続けにして、どしんどすんともつれあうような音が聞こえる。

「心くん」

 呼ばれて見れば博士さんは笑っていた。

 僕はいつか言われたことを思い出していた。

 あの日から、博士さんと初めて会った日からずっと、そのことについて考えていたのだ。

 考えてみてほしいと言われたこと。いつか見た蝉の亡骸。

 足を丸め空を眺める虫の死骸の空虚な瞳と、いずれ自分もそうなるのではという確信めいた予言について。

 博士さんの黒い両目はこちらの意志を問うていた。

 その勇気があるのか、決断できるか。僕が歴然とした意志を表せば、彼は叶えてくれるのだろうか。

『きみは、お父さんとお母さんを殺したい?』

 僕は頷く。

 しっかりと、すぐそこにある神さまの瞳に祈りをこめ肯定の意を伝えた。

 博士さんはにっこりと微笑んだ。それはやはり悪いものには見えなくて、天使とか神さまとか、とにかく誰かを救ってくれるなにかだと思った。

「わかった。これからは僕と一緒に暮らそう」

 その時、真横のついたてが勢いよく開いた。

 顔に青あざを作った母が乱れた髪と充血した瞳で外を見て、すぐそばにいる僕と博士さんを見つけた。一瞬にして母の顔がなぜか引きつった。

「ひっ、ひろひとっ!? あんた、なんで――っ」

「姉さん」

 久しぶりと、笑顔で立ち上がった博士さんを母は化け物を見るように凝視していた。

 のど奥で言葉にならない呻きをあげ、固まってしまっている。

「心くん。ちょっと外で待っていて」

 博士さんは爽やかな笑顔で僕の頭をぽんと撫で、引き戸の入り口へ手をかけた。

「なっ……ア、アンタに話すことなんか、なにもっ――!」

「ひどいなぁ。ずいぶん僕、探したんですよ?」

 怯えたように後じさる母の手前で、博士さんが中から引き戸を静かに閉めた。

 ぱたん、といつもより数段静かに閉められた扉の奥からは、不気味なほどに音がしない。

 僕はこわくなり庭の方へ降りていった。

 あたりはとっぷり日が暮れて、田舎の美しい夜空が広がっている。

 星々のかしましい光が庭の池に映っていた。

 小さな畑やヒマワリの畝、池、縁側――この場所から離れられるかもしれない、博士さんがなんとかしてくれるかも。その考えに不思議と胸が高鳴った。

 全身に寒気に似た緊張感と期待が走る。

(もしも望みがかなうなら)

 博士さんがそれを叶えてくれたら、どんなに素敵だろう。けれどそんなこと起こりうるのだろうか。

 どれくらいの間そうして待ったのか、引き戸が開き博士さんが笑顔で僕を呼んだ。

「おいで。君に見せたいものがある」

 家の中へ入ると、父母が血を流し倒れていた。

 折り重なるようにしてふたりは目を見開き、微動だにしない。その周囲に僕が夢で見たことのある赤色がじわじわ広がり続けていた。

 博士さんは笑顔でそこに立っていた。

「どうだろう、心くん。これで君は自由だ」

 僕はゆっくりと床の赤色から、博士さんが片手に握っている白ユリへと視線をうつしていった。彼はそれを死体の上にそっと置いた。

「殺したらこうするようにしているんだ」

「どうして?」

 博士さんはきょとんとした顔で、僕をもっと近くまで呼びよせる。

 おずおず近づけば、鉄っぽい匂いが鼻をつんとさした。

 足元に転がる父母の表情がよく見える距離だ。彼らは動かない――いつか見た蝉の死体みたいに意思の光は消え、死んでいる。不思議なくらいにそれを見ても感慨がなかった。ただこれでもう、殴られたり殺されそうになることはないと思った。

 博士さんは両手をあわせ黙とうしていた。

「きみもご飯を食べたら感謝するだろう? 僕はこうして『ごめんなさい』をしておくんだ」

 殺してごめんなさい。

 そう謝るのだと言う割には、博士さんの顔に後悔はみられない。

 よし、と爽やかな笑顔で黙とうを終えると、彼は真剣な顔で聞いてきた。

「僕が怖い?」

 言われた意味がわからなくて、まじまじと顔を見てしまった。

 天使のようにふんわり笑う彼のどこが恐ろしいというのだろう。

 片膝を立てた上に大きな手のひらがあったので、それをそっと手に取ってみる。

 爪の中まで赤く汚れた指はごつごつとして力が強そうだ。

 僕はそれに父の手を思い出し重ねた。殴りつけてくる父のこぶし、風の唸りが耳元にまだ残っている。

 この手を父のように僕に振り下ろすのだろうか。

「僕を、なぐる?」

 博士さんは一瞬だけぽかんとして、吹き出した。

「しないよ」

「僕を、ける?」

「蹴らない。ただ君と一緒に暮らそうかと思っている」

「どうして」

「『どうして』? うーん、そうだねぇ……」

 博士さんは少しだけ考えるそぶりをした。

「たぶん、すこしだけ似た者同士だからかな。僕はもうずっとひとりだったし、誰かにそばにいてほしくなったのかも。それにほら、君は怖くないんだろう?」

 博士さんはちらりと倒れた死体をさし示して言った。僕もつられて倒れた両親を見ながら、掴んでいた彼の指を両手でぎゅっと握っていた。

 博士さんを怖いとは思わない。

(彼は僕を助けてくれたんだ)

 それから後、博士さんは家に油をたくさん撒くと火をつけた。

 燃えさかる炎を少し離れた場所からしばらく眺めていた。

「あ、そうか」

 博士さんが手を打った。

「さっきの話だけど。たぶん僕、家族がほしかったんだ。君は中々面白そうだし、心くんとならうまくやっていけるんじゃないかってたぶんそう、思ったのかな」

 家族。かぞく、かぞく。僕には馴染みのない言葉だ。

「これからよろしくね」

 そう微笑む博士さんはやはり天使みたいに優しげで、つないだ手はおそろしいくらいに暖かい。これが「家族」というものなのだろうと、僕はそのぬくもりをかみしめていた。

 


 僕がしてきたこと、博士さんに対して抱いた感情が間違いだったとは思えない。

 倫理観はどうあれ、彼が僕の命を救ってくれたのは事実なのだ。

 まともな「人」としての扱いすらしてくれなかった両親に比べれば、博士さんは当たり前の衣食住から基本的な教育、資金の援助、なにより血の通った暖かい関係をくれた。

 僕は博士さんを家族だと思っていたし、彼もたぶんそうだと思う。

 だけど中学生になったとき、三鷹で起きた殺人事件の絵を描いてふと思ったのだ。

 これでいいのだろうか。

 博士さんはずっとこのままでいいのだろうか。

 田舎の生家を離れ、各地を転々とした後で、僕たちは三鷹の町に落ち着いていた。

 その間、かわらずに僕は不思議な「人が殺される夢」を見続けていたし、それを吐き出すようにして絵を描き続けていた。

 博士さんはそれを知っていたけれど、特になにも言わなかった。

 たぶん、そうするのが僕の気がまぎれて楽なのだと知っていたからだと思う。

 僕も描いた絵について彼に尋ねることはなかった。

 たとえそこにユリの花があり、その殺人事件の犯人が博士さんだと分かっても。

 だけどふと疑問に思うようになったのは、僕がずいぶんと成長したからだろう。

 中学生にもなると善悪や日本の法を理解できるようになっていたし、博士さんがやっていることが何でありどういうことなのか、正しくわかるようになった。

 むしろそれまで目をそらし続けてきたことが不自然だったのだろう。

 だから椎乙刑事とはじめて会った日に、僕は絵を持って三鷹の火事の現場へ向かったのだ。

 今までそんなことしなかったのに、あの朝にかぎりそこへ足を運んでいた。

 燃えて跡形もなくなった家の前に、うっすら人だかりができていたのを覚えている。

 警察の車、マスコミのカメラ、周囲にはプラスチックをいぶした有害な匂いが漂っていた。

 僕は現場をぼんやりと眺め、博士さんがまた誰かを助けたのかもしれないと思った。

(僕みたいに誰かが救われたのかもしれない)

 だけどそう信じ切ることは無理だった。

 僕を助けたのは博士さんの気まぐれで、そちらの方が異常だったのだ。人を殺したあと、まるで食事でも済ませたみたいに合掌する彼の姿が、今でもはっきり目に焼きついていた。

 椎乙刑事に声をかけられ慌てて逃げたのは、そういう理由からだった。

 博士さんは間違いなく人殺しだ。彼は理由もなく、他人の痛みをつゆとも感じずに命を奪える人間なのだ。

 僕が急ぐあまりに絵を落としてしまって、椎乙刑事が家に来たときには本当に焦った。偶然にも博士さんと椎乙刑事が鉢合わせてしまったときにも。

 博士さんは刑事を見て察しただろう。

 今まで描いた絵をけっして外に持ち出さなかったのに、それを刑事が落とし物として運んできたことに、僕の内心の変化に気づいていたに違いない。

 だから彼は消えてしまったのだ。

 あの日、僕がどんな釈明や会話をするのも許さずに、日常の続きのようにあっさりと姿を消してしまった。

 ずっとそのことを後悔してきた。僕の軽率な行動と、彼が消えた意味について今日まで考え続けてきた。

 けれど肝心な問題については目をそらしたままだったのだ。

 博士さんが人を殺すことについて、僕は考えることを放置してきたのだから。



 夕方、僕は三鷹第二中学校へ電話をかける。

 博士さんを呼び出してもらい、電話の向こうの彼へ告げた。

「話があります」

 もう逃げるのはやめにしよう。きちんと伝えるべき時がきたのだ。


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