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彼とカサブランカ

「大きくなったね、しん

 校舎の中を外へと歩きながら、博士(ひろひと)さんは微笑みちらりと振り返ってくる。

 その笑顔は何年経っても変わらない――様子も態度も、まるで昨日別れたばかりみたいだ。

 僕はその変わらぬ笑みを見ながら、なんと言葉をかえしたものか考えていた。

(どうして。なぜ僕のことをおいてあの日……それとも謝るべきだろうか)

 校舎の外へ出ると、博士さんは校門とは別の方角へ歩いていく。

 その背を逃さぬようしっかとついていけば、校舎の裏手へ出た。

 小ぢんまりとした畑と庭園があって、野菜や季節の花が植えられてある。

 博士さんは畑の前で立ち止まり空を見上げた。見つめる先には校舎と屋上があり、亡くなった生徒はそこから飛び降りたのだという。ちょうどこの近辺で息絶えたのだと、さっき耳にしたばかりだ。いま博士さんが立っている、畑と庭園の前で誰かが死んだ。

 僕はそこにユリの花が咲いているのを見つけた。

 耕された畝のすぐ脇に、今を盛りと咲きほこるユリの庭園があったのだ。

 黄色、オレンジ、ピンク――中には支柱で支えるほどに大きなサイズのものもある。

 いちだんと目を引くのは白いカサブランカだ。

「心配、……してました」

 自然と口から零れたのは、思い巡らせてきたどの言葉でもなかった。

 博士さんはきょとんとした顔で僕を見た。まるで何のことだかわからないといった表情だ。どうしてそんな顔をするのだろう。けれどこの人なら当然そんな反応なのだろうと、僕は納得し唇をかみしめた。

(博士さんはいつも、なんにも分かっちゃいないんだ)

「この十年、ずっと心配してたんです。なにかあったんじゃないかって」

 僕は噛んで含めるようにもう一度言った。

 あの日、博士さんが忽然と消えてから、当時学生だった僕がどんな思いで今日まで過ごしてきたか、この人には微塵もわからないのだろう。

(なぜ、どうしてと繰り返し、ひたすらに手がかりを探す日々だったのに)

「ごめんね」

 振り返ってきた博士さんはあっさりと謝った。

 そのままユリの花壇に歩いていき、重たげな花弁の様子を指でたしかめている。

 僕は次に話す言葉を決めかねた。伝えたいこと、聞きたいことは山ほどある。けれど十年間で積みあがったそれらが濁流のように思考をかき乱し、ひとつあやまてば口から罵り声が飛び出しそうだ。

 博士さんは白いユリの花びらを愛でるように撫で、笑みを含む口調で言った。

「君の言いたいことは分かるよ。もう、心には分かってるんだろ?」

 ゆるりと笑む黒い瞳は三日月の形に歪んでいる。そこに見える無邪気な黒い意志。

 奇跡のように整った彼の姿・顔の造形は、記憶のとおりで以前と微塵も変わらない。

 まだ幼い僕がはじめて会ったときに思ったように、博士さんは悪魔か天使に見えた。

「あなたが、殺したんですね」

 飛び降り自殺した生徒は、自殺じゃないと僕には分かっていた。

 僕は夢を見た。それを形にした教室のミニチュアと、そこに置かれたユリの花を目にしてきた。

 おそらく学内の教室で博士さんは生徒を殺したのだ。

 目の前の彼は白ユリを愛おしげに眺めていて、僕はその花を睨みつけた。

 あそこに咲いている花を使ったのだろうか。あの花が全部なくなれば、博士さんはこれからは思いとどまってくれるだろうか。

(あんなユリの花があるから――)

 花のせいにしても仕方ないのに、すべての元凶がそこにあるような気がした。

 博士さんはふと顔を上げ、校舎の方へ視線をやる。

 休み時間になったのだろう、校舎の窓からこちらへ親しげに手を振る女子生徒の姿が見える。楽しげに何か言っているが、遠くて内容までは聞き取れない。

 博士さんはそれに笑顔で手を振りかえす。

 明るい笑みを浮かべ、教室の窓を見たままで僕に言った。

「僕はこういう人間なんだよ。無理に理解しようとしなくていい。そんなことで悩まなくてもいいよ。君にはぜんぶ、関係ないことなんだから」

「関係、ない……?」

 がくり、と世界が揺らいだ気がした。

 その通りだと思っている自分と、相反する鬱屈した思いがある。

 記憶の中で、あの女刑事が責めたてるように僕を睨みつけていた。彼女の言葉と博士さんの主張、それに僕の気持ちが混じり合い、吸い込む酸素を徐々に奪っていく。

 博士さんは優しく諭すように微笑んでいた。

「昔から言ってきただろう? 心には関係ないことだって。君が見る夢のことで、いちいち傷つく必要はないんだ。この世界のどこで何が起こったって、君にはどうしようもないんだから」

 そうだ、博士さんはいつもそうやって僕を慰めてくれた。

 幼い頃から不思議な夢を見て、そのことに僕がどうしようもなくなったとき。

 夢の中で誰かが死に、それが終わった瞬間にしかわからない、そんな状態に僕が悩んでいたとき、博士さんはいつも優しくそう言ってくれたのだ。

『大丈夫、心には関係ない。なにも気にすることはない』

 それがどれだけ救いになったことだろう。

 だからずっとそうだと信じてきた。僕には関係ないことだと、博士さんの言葉を信じてきたのだ。

 僕が夢をみるときに、すでにその殺人は行われた後で、それを防ぐことも殺された人を助けることだってできないのだから。

(けれど……)

 それで良いのか、本当に関係ないのか。

『あなたの無関心は犯罪だ』と、あの女刑事が僕にはじめてそう言った。

 もし彼女の言葉が正しくて、僕が信じてきたことが間違っていたのだとしたら。

 博士さんは笑っている。

 すべてを見透かした笑顔で僕を見ている。

 戸惑う内心も、僕が迷っていることも彼には全部わかっているのだろう。

 理解しているくせに、僕の気持ちだけはいつだって置いてけぼりだ。

 博士さんがそれを些末と考える限り、彼は僕を理解しても望みをかなえてくれないだろう。


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