僕には関係ない
刑事というのは、いつも無粋だ。
先ほどの女刑事――前野といったか、その座っていた辺りを眺めながら、日瑠葉はぼんやりとそう思った。
テーブルの上には美しいフルーツケーキが出されたままだ。
カットされたイチゴ、オレンジ、メロン、マンゴーが彩りも美しく、絶妙なバランスでのせられている。
椎乙刑事が持たせたという見目麗しいこれに似たケーキを、五反田に頼まれて以前にも何度かミニチュアにしたことがある。今までそうと気づかなかったが、あれも椎乙刑事が持ってきた物だったのだろう。だとすると、彼は随分と足しげくこの工房へ通っていたことになる。
(五反田くんにも困ったものだ)
彼に悪気はないし、純真な助手は心底ミニチュアが好きなだけで、悪いのは自分だとはわかっている。
すでに日は暮れはじめ、前野刑事が帰ってから数時間がたっていた。
なぜミニチュアを作るのかと彼女は聞いた。
それは事件の犯人を告発するためなのではないのか、とも。
(無関心は犯罪か)
たしかにそうかもしれない。
けれどそれでも良いと、かつて自分に言ってくれた人がいたのだ。その記憶と思い出だけを抱きしめ大切にして、今までひとりで生き、ミニチュアを作り続けてきた。
「どうしてミニチュアを作るのか」という前野の質問には答えられなかったが、自分が今日、休みなのに工房へ来たのには理由があった。
「制作室」の扉を開けると、乾燥した木の香りと接着剤の独特な化学臭につつまれる。一番ほっとする落ち着ける香りだ。ここにいると許されている気分になれる。何に、とは言いたくないが。
無骨な木の作業台の上に手早く道具をそろえていく。
カッター、ピンセット、接着剤に各種絵の具、粘土、紙やすり。
夢に見たばかりのイメージは、この段階ではうすくぼやけた影のように全体像がとらえられない。ピントの合わない映像の中から、ひとつずつ浮かんだ小物に焦点をあわせて形にしていくのが僕のスタイルだ。
だから基本的に、全体としてミニチュアが完成するまでは、自分でさえもその部屋で何があったのか、それがどういう部屋かは分からない。
だからこそ細やかに、すべてを再現しようと思ったともいえる。
ミニチュアはそのためにも有効な手段だったのだ。
結局のところ、ドールハウスを作るに至ったきっかけでさえ、そういうことだ。
(そこに彼がいるかもしれないから)
もうずっと欠片を探し集めて、いざ会った時の言葉も用意できないままだ。
部屋は少しだけ蒸し暑い。じきに本格的な夏に入るだろう。
(もう十年になる)
博士さんが消えてから。
僕の大嫌いな、十回目の夏がまた巡りくる。
思い出すのはあの人の笑顔ばかりで、僕は記憶の中で彼に理由を問い続けてばかりいた。
どうして、どうして、どうしてと。
ふとした折に思いだすのも彼のことばかりだ。
(博士さんに初めて会ったのも、こんな風に蒸し暑い初夏だった――)
****
博士さんと初めて会ったとき、一番最初に感じたことは「うるさい」だった。
それはもう二十年以上も前のことになる。
当時六歳だった僕は、実家の縁側でひとり絵を描いていた。
空はいまにも雷が鳴り出しそうな不穏さで、虫や鳥たちも息をひそめていた。
湿気をはらむ重たい風が気だるげに頬にあたり、警告するように雨の香りを運んできていた。
僕の座りこむ縁側は広い庭に面していた。
実家は田舎だったので、咲きかけのヒマワリや、ネギ・ナスを植えた家庭菜園など、とにかく余った敷地を活かす形で自然にあふれていた。
そこへ博士さんはひどく突然に現れたのだ。
「なにしてるの?」
見知らぬ人の声にびっくりして顔を上げると、優しげな笑みを浮かべた青年が立っていた。白シャツにジーンズ、ふんわりと笑うその面立ちは誰かに似ている気がしたが、よく分からない。
僕は一瞬だけぽかんとして、また絵を描く作業に戻った。単純に彼に興味がなかったのだと思う。
「それ、なに描いてるの?」
無視する僕に、博士さんは近づいてくる。
僕はそのとき、スケッチブックに白い花を描いていた。花弁は大きく、一輪だけどこかに落ちている白い切り花だ。それが何の花かなんてわからない。ただ夢に見たものを絵にしていただけなのだ。
「ユリの花だね」
すると彼は絵を見てそう言った。かってに近寄ってきて縁側に許可なく座っている。
僕がなおも無視し絵を描き続けていると、ふと彼の口調が変わった。
「ねぇ、その花、どこにあったものを描いてるのかな?」
僕は顔も上げなかった。うるさく質問されたことに苛々して、彼が興味をもっている白い花を赤いクレヨンで塗りつぶしていく。なにも苛立ってそうしたのではない。今朝見た夢の中で、ユリの花は赤色にまみれていたのだ。
彼はかすかに吐息で笑い、言葉をつづけた。
「僕の名前はひろひと。日瑠葉……心くんだよね。僕は、君の実のおじさんだよ」
僕は赤色を塗り続けた。こってりとした色が層になり、その上に塗り込めるようにさらに赤を足す。彼は僕が聞いていなくても構わないという風だった。あるいは、知らないそぶりで僕がしっかり聞いていることに気づいていたのかもしれない。
「心くん。君がお父さんとお母さんから虐待を受けているのは、わかっている。だから今日は、君の様子を見にきたんだ」
『ぎゃくたい』の意味が僕にはわからない。ただしゃべり続ける相手をうるさい人だと思っただけだ。
「その手」と彼は言った。
「手首のあざ、あと首も。お父さんにされたのかな――それとも、お母さん?」
僕はそこでようやく手を止めた。クレヨンを握る自分の右手には、紫色の殴られた痕がある。おそらく首にも、同様の痕があるはずだ。けれどいずれそれは黄土色になり、痛くなくなるはずだ。問題がないことをすでに経験から知っていた。
顔を上げると、博士さんは不思議な笑みを浮かべていた。その瞳は僕の頭をつき抜け、遠くの空間を見つめているようだった。
「ねぇ、心くん。お父さんとお母さんのこと、好き?」
僕は口をしっかりとつぐんでいた。
好きとか嫌いとか、そういった気持ちをわざわざ掘り起こそうとするのがうっとうしい。
だから黙っているのに、彼は一方的にしゃべり続けた。
「じゃぁ、お父さんとお母さんのこと、殺したい?」
僕はぴくりと身じろいだ。
遠くで雨が降りはじめていた。
縁側の先で庭に落ちる雨がさらさらと優しく木々を濡らし、しだいにポタポタ、バタバタと葉を揺らす音へ変わっていく。かすかな雷鳴が聞こえて、僕はそちらへ視線を向けた。
遠くの空は夜のように暗くなり、庭先の土は水に濡れ色を濃く変えている。
雨はいまや豪雨へ変わりつつあった。
「降ってきちゃったね」
気軽に呟いた彼は庭を見ていた。
雨を見ているのだと思ったら、その視線は地面に転がる蝉の死骸へ向けられていた。
ひっくり返り、手足を丸めて天を向き、雨を一身に浴びながらぴくりともしない死んだ虫だ。
仰向けになっているので、空を見つめながら死んだのかもしれない。
蝉が最後に見たのが澄みきった青空だったなら、それはそれでよかったのかもしれないと、僕はそう思いすこしだけほっとしていた。
いずれ自分が死ぬときにも、青空を見上げていられるだろうか。
なぜかひどく近くに感じる死に対して、憧れと同時に恐怖も抱いていた。
生き物はみんな死ぬ、人だってそうだ――自分も遠くない未来、地面に横たわるあの蝉の死骸みたいになるのかもしれない。
それをひどく身近に感じることが、恐ろしくてしかたなかった。
「君もこのままだと、死んでしまうよ」
奇しくも彼がそう言った。
僕の心が読めるのかもしれない。
僕が封じきれずに、時おりのぞかせてしまう気持ちや感情を、この人は掬い出そうとしてくるようだ。
声を出そうとしたが、掠れて出なかった。
握っていた赤のクレヨンが手からぽとりと落ち、縁側の下へ転がっていく。
ひゅぅひゅうなる喉で出せない声と意志を視線にこめ、彼の目をすがるように見た。
青年は笑っていた。
弧を描く黒い瞳がとてもおそろしいものに見えて、身が震えた。
ギトリとしたぬめり気のある笑みや雰囲気は、自分に暴力をふるう母にとてもよく似ていたのだ。
そして自分にも。
写し鏡の奥に時おりのぞく、それは見てはいけない何かだ。
僕がすべてを粉々にしたいと思ったときや、張りつめた恨みが一点に集まるその焦点を、この人はつねにもっているようだ。
博士さんは悪戯でもたくらむように笑っていた。
「望むなら、僕は君を自由にしてあげられるよ。考えてみてほしい」
それは悪魔か、あるいは天使のささやきに似ていた。
僕は頷かなかったが、彼は満足そうに「また来る」と、僕の絵を一枚だけ持ち去った。
白い大輪のユリの花。
僕がそのとき描いていたそれは、考えてみれば博士さんのものだったのだ。
****
「僕には、関係ない――」
パズルのピースをはめるように、「制作室」で僕はそのミニチュアを完成させた。
小さな木箱の中に再現された部屋。
作り上げられたそれは学校の教室だった。
机、黒板、積み上げられた机と椅子。
木目タイルの床――そこにようやく最後のひとピースをそえる。
白いユリの花がたしかに一輪、床に落ちている。
震える手をミニチュアから離し、僕はようやく深く息を吸い込んだ。
夢の中で、僕はこの部屋を見た。
おそらくここで殺人が行われたことだろう……これは三鷹市内のどこかだ、たぶんそれは昨日のこと。
そうして誰かがこの部屋に一輪のユリをそえたのだ。
それは誰か。
目を閉じれば、思い出すのは昼に会った女刑事の視線だった。鋭く責めたてるような美しい相貌が、僕を暗闇の中から見すえて言う。
『あなたの無関心は、いっそ犯罪です』
それなら、関心があった場合には。
知っていて、隠そうとして、探し続けていた場合には?
僕は知っていたのだ。
博士さんがやってきたことも、だから彼を探すためだけに夢に見た風景を、今までミニチュアにしてきたのだから。
彼女はきっと僕を非難するだろう、けれど目の前のミニチュアを見て、僕は力が抜けるほどに安堵し、心がじんわりと温まるのを感じていた。
博士さんとなにを話せばいいか分からぬままなのに、ようやく見つけたこの手がかりに喜んでいる。
「僕には――」
関係ないとはもう言えないだろう。
その夜、椎乙刑事から電話があった。
「お前の親戚。数年前に行方不明になってた、ほらあの人だけど――今日、見かけた」
どこで、と場所を聞けばやはりこの近辺だった。
「三鷹、第二中学校……?」
「そうだ。やつはそこで働いてる」
「どうも」
返事もきかずに通話を切った。
たったいま作り上げたばかりのミニチュアは教室の風景だった。
そこに博士さんがいる。




