前編
「ダニエル!」
「えっ……」
ダニエルは自分を呼ぶ声で、我に返った。
自分は今、家の前にいる。そしてその前に、母がいた。
「おいで!」
「母さん!!」
ダニエルは泣きじゃくりながら駆け寄り、その胸に飛びついた。
「母、さん……」
やがて、ダニエルは目を覚ました。そして、思い出す。母は既に、無慈悲な村人達に殺されたという事を。
そして気付く。目の前に、美しい寝顔がある事に。
彼女の名はマリアージュ。ダニエルは忠誠と愛称を込めて、マリーと呼んでいる。自分の名前を知っていればそれでいいと思っているのか、マリーは特に訂正はしない。
いや、今はそんな事はどうでもいいのだ。問題なのは、自分がマリーに抱き締められているという事だ。昨夜は離れて眠ったはずなのに、いつの間にかこんな事になっていた。
ダニエルに対してだけは態度が多少柔らかいのだが、人間嫌いなダンピールの彼女が自分からダニエルを抱くという事は考えにくい。つまり、ダニエルがマリーの腕の中に潜り込んだという事だ。
(お、起こさないように離れないと……)
もしこの状況が知られれば、殺される。そう思い、ゆっくり抜け出そうとするダニエル。
「う、ん……」
と、マリーが呻き、ダニエルを抱き寄せた。ダンピールの力は人間よりも遙かに強く、ダニエルはあっという間に押さえつけられてしまった。しかもマリーは、自身の豊満な胸をダニエルの幼い顔に押しつけてきたのだ。ジャケットの上からでも、その大きさと柔らかさがよくわかる。
「ま、まりーさん……」
顔が赤くなる。起こしてはいけないのに、思わず声が出てしまう。
予想通り、マリーは起きた。起きた瞬間に、ダニエルから素早く離れた。離れて、ベッドから落ちた。
「ふがっ! な、何じゃ!?」
「ん~?」
ボブとジーナも起きる。ダニエルは二人の目を気にしながらも、マリーに謝った。
「ご、ごめんなさい! まさか潜り込んじゃうなんて思わなくて……」
そこで、ジーナが口を挟む。
「ああ、君は悪くないよ。マリーさんが抱いて寝てたから」
それを聞いて、マリーがジーナを睨む。
ジーナは少し寝付きが悪いタイプのようで、就寝時もすぐには寝られない。ダニエルが合流してくる前も、大体マリーやボブが寝た後、彼女だけがしばらく起きていた。で、離れていた所で寝ていたダニエルをマリーが抱き上げ、ベッドの中に連れ込んで一緒に寝ていたのを見ていたのだ。
「たぶんマリーさんのダンピールとしての本能なんじゃないかな? ダニエル君の血があんまり美味しいから、独占しようとして無意識にあだだだだだ!!」
構わず話し続けるジーナだったが、突然姿の見えない何者かに髪を思いっ切り引っ張られ、中断させられた。
引っ張ったのはもちろんマリーである。物体浮遊の魔法をジーナの髪だけに作用させ、引っ張ったのだ。
「余計な事を言うな」
いくらジーナに対して寛大なマリーでも、過ぎれば怒る。
「くくくっ! いい気味じゃわい!」
ボブは笑った。いつもジーナに好き放題言われているので、少し溜飲が下がった感じだ。
「でも、マリーさんに抱っこしてもらうと、すごく安心しました。まるでお母さんに抱っこしてもらってるみたいで」
マリー達は基本的に宿を取りはしない。魔道具で簡易的な休息所を造りはするが、実際は野宿だ。寝心地はあまり良いとは言えない。しかし、ダニエルはマリーに抱き締められて寝ていると、とても安心して眠る事が出来た。恥ずかしい事は恥ずかしいのだが。
「母が大事か」
と、マリーから訊かれた。ダニエルはおずおずとしながらも、答える。
「はい。お母さんはいつも優しくて、何かあっても抱っこして頭を撫でてもらったら、すぐ忘れられました。もう死んじゃいましたけど」
ジーナはそれを聞いて思う。彼は年端もいかない少年だ。そんな彼から両親を奪うなど、異端狩りは本当に罪な事をした。
「私は」
マリーは口を開く。
「母をあまり想った事がない。物心ついた時から、既に父上しか見えていなかった」
「……それだけお父さんが大切だったんですね」
「ああ。父上は私の誇りで、憧れで、目標で」
そこで一旦、言葉を止める。そして、続けた。
「超えるべき壁だった」
全てにおいてメアリーよりも優れていたマリーは、幼いながら父、アグレオンの力と偉大さに気付いていた。ならば、自分はそれを目指そう。それを超えようと、そう思っていた。それを、愚かな異端狩りがむざむざ死なせてしまった。
「お前にこんな事を言っても仕方ない。さっさと行くぞ」
「は、はい!」
マリーに促され、ダニエルは食料保管庫の扉を開けて、入っていたパンとミルクを摂る。ボブとジーナもそれに倣った。
ここはマリー自作の魔道具、ミニチュアコテージの中だ。宿を作り出す魔道具だが、出した宿に設置してあるのはベッド二、三台と食料保管庫だけで、長期の滞在には向かない。せいぜい、寝泊まりに使う程度の簡素な宿だ。だがそれでも、寝床が欲しい者にとってはありがたいし、自作しなくてもその道の関係者が売っている為、簡単に手に入る。しかも、気配遮断や透明化の機能も備わっているので、それらを考慮すると人気の高い魔道具だった。
マリーのものは最初はベッド一台しかなかったが、ボブとジーナの加入後、二人の事を考えてベッドと食料庫を増やした。ダニエルは、自分は床で寝るからいいと言ったのだが、この有様だ。
「マリー様」
朝食を終えたダニエルは少し顔を赤くしながら、少しだけ服を脱ぎ、首筋を差し出す。マリーは無表情で近付き、ダニエルの首筋を舐め始めた。
これから彼女も朝食を摂るわけだが、その前に唾液を塗る作業に入る。理由は、吸血鬼の唾液には止血のほかにも麻酔の効果があり、噛んだ時に痛くないようにする為だ。
「んっ!」
これはマリーの配慮だとわかっているのだが、それでも恥ずかしいしくすぐったい。赤かった顔が、さらに赤くなってしまう。それがわかったのか、マリーは間もなくして噛みついた。
「んん……」
感覚が鈍くなっているはずなのに、わかる。マリーの牙が首筋に突き刺さり、自分の血が彼女の口の中に流れ込んでいっているのが。
20秒くらいそうしていただろうか。吸血を終えたマリーは再びダニエルの首筋を舐め上げ、流れ出る血を止めた。ダニエルは遙か昔に人界に現れた吸血鬼が、遺伝子に品種改良を施して創り出した食料人類、ヴラディリアンの末裔。常人より回復力が高く、吸血直後からの復帰も早い。
「ふあ……ふああ……」
それでも十秒程度は、全身から力が抜けて動けなくなってしまう。でもそれは決して不快な気分ではなくて、むしろもっと長く味わっていたいくらい気持ち良かった。
「しっかりせんか。お前にはマリアージュ様の体調をお守りするという、重大極まる役目があるのじゃぞ」
だが、ボブに叱責されて、元に戻る。
「まったく、なぜわしではなくこのような小童がその役割を……わしじゃってもっともっとマリアージュ様のお役に立ちたいというのにあいだっ!」
「うるさい」
ブツブツと恨み言を呟くボブの脳天に、マリーがげんこつを叩き込んだ。
「マリーさんに血を吸われたいって? 鏡見てもの言いなよ。そんで歳を考えなよ。誰が得すんのさそんなの」
「うぐ……!」
先程笑われた仕返しをするかのように、ジーナが指摘する。
「茶番はそれぐらいにしておけ」
そろそろ出発しようと、マリーが右手を高く掲げ、指を鳴らす。すると、ミニチュアコテージが消えて、マリーの右手に小さな宝石が出現した。これが、ミニチュアコテージの本体だ。マリーはそれを送還し、歩き出す。
「マリー様。僕達どこに向かってるんですか?」
「黙ってついてこい」
ダニエルの問い掛けに、素っ気ない返事をする。ダニエルは、少し落ち込んだ。そんな彼に、ジーナが囁きかける。
「気にしないで」
「でも、僕もっとマリー様と仲良くなりたいです」
「うーん、仲良くなるってのは、ちょっと難しいかな」
ダニエルの気持ちは理解出来る。ジーナも、ボブだって、マリーともっと心を通わせたい。だが、強さと人類の根絶のみを望む彼女は、他者を寄せ付けようとしないのだ。せいぜい、付いてくるなら勝手にしろ、といったところだろうか。
「けど、ダニエル君は気に入られてるよ。だってここのところ、マリーさんすごく機嫌いいもん」
「え、あれでですか!?」
いつも不機嫌でいるようにしか見えないが、ジーナから見ると機嫌がいいらしい。
「いつも美味しい血が飲めるから、身体の調子がいいんだろうね。飢えてるって感じがしない。それに、口数も増えたし」
「口数?」
「マリーさんはね、ご家族に対して思っていた事を、あんまり話したりしないの。でも、ダニエル君には話してくれたでしょ? それだけダニエル君を気に入っているって事」
言われてみれば、家族を殺された事はマリーにとって忌むべき事象のはずだ。しかし、ダニエルに対しては積極的に話してくる。それに、ダンピールでありながら吸血行為を忌避する彼女が、ダニエルの血だけは普通に吸ってくる。そう考えれば、気に入られているとは言えるのかもしれない。
(うーむ。まさか本当に気に入られたというのか? 子供とはいえ人間を……?)
ボブとしては、信じられない現象だった。確かにダニエルは子供だが、だからといって手心を加えるほど、マリーは甘くない。人間であるならば特別な事情でも無い限り、老若男女問わず見つけた瞬間皆殺しだ。ダニエルの村を焼き払ったのが、その証拠である。それだけ彼女が人間に対して抱いている憎悪は強く、深い。
「マリアージュ様」
ボブは訊いてみる事にした。なぜダニエルを殺さないのか、いつまで連れ回すつもりなのかを。
「あの小僧は人間ですぞ? あなたにとって忌むべき存在。殺されたとしても、文句を言えない存在なのです」
「それがどうした」
「……へっ?」
逆に訊かれてしまった。マリーは続ける。
「私はダニエルに、好きにしろと言った。その結果として、奴は付いてきている」
そう。ダニエルは自分の進む道を、自分で選んだのである。それがどれだけ過酷な道なのかを知りながら。ならばもう、マリーから言うべき事は何もない。これから先の道も、自分で選ばせる。それが、マリーと共に歩むという事だ。
「で、ですが!」
「何だ。お前も己の意思で、私に付き従っているのだろう? それとも私の家臣になると誓った者が、私の決定に逆らうというのか? 私の判断が、間違っているとでも?」
なおも食い下がろうとするボブに、マリーは睨みを利かせて訊ねる。
「い、いえ……」
そう威圧されてしまっては、何も言えない。ボブはすごすごと引き下がった。
「なら黙ってついてこい」
うるさい奴がようやく黙ったという感じで、マリーは止めていた足をもう一度動かす。
「マリーさんが大丈夫だって言うんだから大丈夫だって」
ジーナは他人事のように、ボブの肩を叩く。
「……ダニエル」
「はい?」
「マリアージュ様の事、頼んだぞ」
「え!?」
ボブは突然、ダニエルに言った。
「ダンピールの吸血衝動を抑える事が出来るのは、人間の血液のみ。わしやジーナの血では、駄目なのじゃ。お前がマリアージュ様のお命を握っていると言っても過言ではない」
「そ、そんな、命を握っているだなんて……」
ダニエルは恐縮しているが、マリーが他の人間の血を吸いたがらない以上、そう言われても仕方がない。
「じゃからこそ、お前にはマリアージュ様のお命を頼むと言っておるのじゃ」
本当は自分が誰よりもマリーを守りたいと願っているのに、それが出来ない。だからこそ、出来る者に頼む。当然の事である。
「もしマリアージュ様を裏切ったら、わしはお前を殺すぞ。わかっておるな?」
そして、脅しを掛ける。小さいと言ってもボブは鬼である為、その顔はとても怖い。
「はい!」
だがダニエルはそれを恐れず、はっきりと返事をした。
☆
「昨日は大変だったわ」
翌日。登校した瑠阿は、真子に昨日メアリーにされた事を愚痴った。
「私も。瑠阿の気持ちがわかった気がする。もうあんたの事笑えないよ……」
「「……はぁ……」」
二人は溜め息を吐く。このままでは、どちらも死ぬまでレズ魔族の玩具にされてしまう。それが嫌だというわけではないのだが、されるがままというのは何というか、癪だ。
「あら、お二人とも朝から気分が優れないようですね」
そんな時に、ティルアが話し掛けてきた。何度も協力してくれたおかげで、瑠阿も真子も彼女だけは異端狩りの中でも例外的に心を許している。許していたので、昨日された事を話してみた。
「愛されているならいいじゃありませんか。たっぷり愛されてあげれば」
「そうは言うけどさ、ちょっと積極的すぎるんだよね」
「羨ましい限りです。ジンにも少しは見習って欲しいですね。彼ったらいつも魔族を狩る事しか考えていなくて……」
遠い目をするティルア。彼女とジンは一応付き合っているのだが、ジンがあの性格なせいで恋人らしい事が何一つ出来ていない。
「もう数十年経つんですよ? どう思います?」
「……そういえばティルアさんって、手術で若返ってるんだっけ」
「ええ。お互い若い気持ちに戻って、人生をやり直している気分なのですが、ジンは全然変わりません」
真子はティルアの話を聞いて思った。それって、ジンは若い頃から全く精神年齢が変わっていないという事ではないのかと。
「それはそうと、今日はお二人に忠告があったのです」
ティルアは自分が話し掛けた理由を思い出した。話に夢中になって、危うく忘れるところだったそうだ。
「今朝オルベイソルの魔界観測班から連絡がありました。この町行きの魔界のゲートが開き、強魔六婦人の一人が向かったそうです」
魔界観測班とはその名の通り、魔界から強力な魔族が出てこないかどうかを監視しているグループの事である。魔族が出てくればその地点に異端狩りを派遣し、撃破させる。本当は魔界から出てくる魔族全てを撃破したいところだが、流石に人員が足りなすぎるので、強力な魔族のみに留めている。今回は魔族が出てきた地点にもうティルアがいたので、彼女に連絡が回ってきたのだ。
「強魔六婦人が!? 誰かわかる?」
「データの検索結果、現れたのは女食いのラッサムとの事です」
「強魔六婦人って、確か魔界で勢力争いをしてる六人のものすごく強い魔女、だっけ? この前一人来て、メアリーさんが倒したって言ってたよね?」
強魔六婦人に会った事などないが、真子は話を聞いている。今彼女が言った通り、先日メアリーがその内の一人、魔宝庫のエリザベートを倒した。
「……瑠阿?」
見ると、瑠阿が何やら頭を抱えている。
「もしかして、あんたラッサムとかいう魔女に会った事があるの?」
「会った事はないけど、どういう人かは知ってる。レズよ」
「え!?」
ラッサム・アッシュリー。強魔六婦人の一人であり、容姿の良い女性のみを愛する事から、女食いのラッサムという二つ名が付けられた、真性のレズビアンである。
「人間、もしくは人間タイプの魔族を好む傾向にある魔女でして、気に入った女性は自分の配下、もしくはメイドとして引き込みます。それから魔法を使った延命、容姿や服装の変更など、自分好みの女性として徹底的な調整を行うそうです」
「だからラッサムの陣営には女しかいないわ。おまけにビューティフルナイツっていう親衛隊を引き連れてるんだって」
ティルアと瑠阿から補足説明を聞いて、真子はなぜ瑠阿が悩んでいるのか気付いた。ただでさえレズ魔族の存在に悩まされているというのに、さらなるレズ魔族の投入で本格的に頭痛がしたのだ。
「本当なら私とジンでラッサムの撃破に当たりたいところですが、強魔六婦人の一人ともなれば簡単にもいかず、攻めあぐねています」
エリザベートの時は魅惑の宝靴のおかげであっさり勝てたが、メアリーは、彼女は自分と同等の実力者である為、まともにぶつかったらどうなるかわからないと言っていた。本来強魔六婦人とは、それだけ強力な存在なのである。
「特にラッサムは、六婦人の中でも最も強い魔力の持ち主だと言われています」
白服であっても、容易には手が出せない。そんな強大で危険な存在がなぜこちら側に現れたのかは定かではないが、どうせろくでもない理由だ。まだ未熟である瑠阿や、魔族と深い関わりを持ってしまっている真子が接触しないよう、ティルアは注意を促しているのである。
「お二人とも可愛らしい方ですから、ラッサムの奴隷として取り込まれないか心配なのです」
「御忠告どうも。メアリーにも伝えておくわ」
可愛いと言われた事は無視して、瑠阿は忠告を受け止める事にする。
それにしても、どうして自分の周りにはレズが集まるのだろうかと、瑠阿は思った。
(女難の相でも出てるのかしら?)




