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Blood Red  作者: 井村六郎
Episode19
38/40

後編

 真子は緊張しながら、帰り道を歩いていた。もうすぐ、あの蜘蛛が巣を張っていた所に差し掛かる。


 もしアルケニーだったらどうしようと、不安になる真子。助けを求めようにも、そこはちょうど人通りの少ない通路なのだ。


 ついに、あの場所に来た真子。恐る恐る、蜘蛛の巣が張られていた場所を見る。


「……?」


 蜘蛛の巣は、なかった。一日で蜘蛛の巣がなくなるというのはよく考えてみればかなり奇妙な話なのだが、今はそこまで頭が回らず、とにかく蜘蛛がいなくてよかったという事しか思っていなかった。


(これで安心して帰れるわ)


 そう思いながら、帰宅を再開する真子。


 その時だった。


「足元注意」


「えっ?」


 突然声が聞こえたのだ。


 その直後。


 ねちゃっ!


 足元から粘着質な音が聞こえて、右足が全く動かなくなってしまった。


 見てみると、真子の右足は白い何かを踏んでしまっていた。


 それは、アスファルトの上に網状に張り巡らされた、太さ三センチくらいの糸だった。いつの間にこんなものがあったのか、糸は広範囲に敷き詰められており、右足だけでなく、左足もその上にあった。


「何これ!? 糸!?」


 ねちゃっ、ねちゃっ!


 驚いた真子は右足を上げようとするが、糸はとてもねばねばとしていて、黒いストラップシューズの底に貼り付き、ゴムのような弾力で引き戻してしまう。


「くぅーーーーー!」


 ねばぁ~~~~!


 真子は右足を両手で掴み、力一杯引っ張る。


「むぅーーーーーー!!」


 ねちゃぁ~~~~~!


 顔を真っ赤にして引っ張るが、それでも五センチくらいしか足が持ち上がらない。当然、糸は貼り付いたままで全く取れず、弾力は真子の足を引き戻そうとする。


「うっ!」


 べちゃあっ!


 手が滑って太ももを放してしまい、糸を踏みつけた靴底が汚らしい音を立てる。


 ねばぁ~~!


「取れない! 何なのよこれ!?」


 持つ足を左に変えてもう一度やったら、今度は真子の力が限界に達して、また同じように糸を踏みつけてしまう。この糸は何なのか、どうしてこんなものがあるのか、真子にはわからなかった。


「取れるわけないよ。それは私が人間を捕まえる時に使う糸で、大の大人が五人で引っ張っても引き剥がせないの。あなたみたいな弱そうな女の子の力じゃ、絶対に取れないよ」


 疑問に答えたのは、先程聞こえたあの声だった。そして、真子の目の前に、ミニスカのチャイナドレスを着用した、真子と同じくらいの背丈の美少女が現れたのである。


「助かる方法は、最初から触らない事だけ。だから足元注意って、教えてあげたのに。そんなに捕まりたかった?」


「そんなわけないじゃない!」


「ま、そうだよね。絶対によけられないように結界の中に引きずり込んだんだもん」


 おかしいとは思っていたが、やはりここは結界の中らしい。そうでもなければ、真子に全く気付かれずにこれだけ大きな糸の罠を用意など出来ない。


「……待って。今あなた、人間を捕まえる糸って……」


 真子の中で嫌な予想が膨れ上がる。


「私はナフレ。アルケニーっていう蜘蛛の怪物」


 少女は両手を後ろで組み、蠱惑的な笑みを浮かべた。


 やはりだ。このナフレという少女は、アルケニーである。


「今朝、私を見て逃げたよね? 人を見かけで判断して逃げちゃうような失礼な子は、糸で足をくっつけて逃げられなくしちゃおうって思ったの。それだけしっかり踏んでたら、絶対に逃げられないよ」


 そして、今朝見た不気味な蜘蛛の正体だ。


「じゃあ目的は果たしたわけよね? 私の足はくっついてて、糸は全然取れない」


 ねちゃねちゃにちゃにちゃ


 真子は軽く足踏みし、自分が糸に捕らえられていて脱出不可能な事をアピールする。


「動けないの逃げられないのどうしようもないの! あなたの望んだ通りの結果になったの! だからもう逃がして! お願いだから食べないで殺さないでお願いします!」


 途中から完全にパニックになり、命乞いをする真子。その有様は必死そのものだ。当然である。蜘蛛の巣に捕らえられた者がどうなるか、知らない者はいない。自分もそうなるとわかったら、絶対に今の真子のようになる。


「すっごく焦ってるみたいだね。気持ちはよくわかるよ」


 ナフレは余裕だった。捕食する側に立っているのだから、余裕でないと逆におかしいのだが。


「私の言う通りにしてくれたら、食べないであげる」


「ほ、ほんと!?」


 ナフレはまだ腹が太いのか、条件付きではあるものの、真子を見逃すと言ってきた。ここぞとばかりに食い付く真子。さっきからずっと瑠阿に呼び掛けているが、どう考えても瑠阿の到着は絶対に間に合わない。ならこの場は、自力で切り抜けるしかないのだ。僅かなチャンスがあれば、どんな事でも利用する。これは瑠阿から学んだ姿勢だ。


「どうすればいいの!?」


 早速、助かる方法を聞き出そうとする真子。それに対するナフレの条件は、こうだった。


「私を愉しませて」


「……へ?」


 彼女を愉しませ、喜ばせる事。


「た、愉しませるって、どうやって?」


「簡単だよ。そのままもがいてくれればいいの」


「そ、それでいいの?」


 もがくのは簡単だ。しかし、それで喜ぶ理由がわからない。


「蜘蛛の生態って知ってる? 蜘蛛はもがいてる獲物を見ると興奮するの。だからお姉ちゃんがもがいてくれたら、私はすごく愉しくなっちゃう」


 それは興奮するというだけで、愉しいとはまたちょっと違う気がするのだが。


「……わかった。その代わり満足したら、私を逃がしてよ!?」


「うん。あ、ちょっと後ろを見て」


 ナフレに言われて、真子は振り向く。すると、ここから六、七メートルほど先に、光の塊が現れた。


「さっきも言ったように、ここは私が作った結界の中。で、あれはこの世界の出口。少しでもあれに触れたら、すぐここから出られるよ。無理だとは思うけど、逃げられたらそのまま逃がしてあげる。そうしたら、もう二度とお姉ちゃんを捕まえたりしないって約束してあげるよ」


 それを聞いて、真子は思った。


(この子……私で遊んでるんだ……)


 これは一種のゲームである。といっても、勝ち目などない。ナフレは真子が絶対に勝てないとわかっていて、こんな条件を出してきたのだ。魔族と人間にどれだけ力の差があるか、改めて認識した。


「くっ!」


 ねちゃ! にちゃ!


 しかし、逃げ出せるチャンスである事に変わりはない。右足に力を入れて、懸命に糸から引き離そうとする。


「うぅっ!」


 べちゃべちゃ!


 が、いくら引っ張っても足は引き戻される。左足も同じ事で、真子は卑猥な音を立てながら、したくもない足踏みを強制されていた。


「このぉ~~!」


 ぐちゃぐちゃぐちゃ! にちゃにちゃくちゃくちゃ!


 右足、左足と交互に足を左右にこすりつけ、糸をこすり取ろうとする。どんなにこすっても、いやらしい音が響くだけで、糸は少しも離れてくれない。


「な、なんか、粘着力が上がってない……?」


 すり足がだんだん出来なくなってきた事に気付く真子。ナフレはニマニマしながら答えた。


「よく気付いたね。私の糸はかき混ぜればかき混ぜるほど、粘着力が上がって離れなくなるんだよ」


「先に言いなさいよそんなの!」


 足踏みしたりこすったりして、かなりかき混ぜてしまっている。試しに引っ張ってみると、明らかに持ち上げられる高さが下がっていた。


(靴を脱いで飛べば……)


 ストラップシューズは、もう離れない。こうなったらもう、靴を捨てるしかないのだが、辺り一面蜘蛛の糸だらけで足の踏み場もなく、脱いだら今度は白のニーソックスが絡め取られてしまう。それを犠牲にしても、出口までは遠すぎる。素足までくっついてしまったら、もう完全に脱出不可能だ。


「くぅ!」


 ぐちょ! ぐちょ!


 せめて方向転換出来れば……そう思って身体をねじり、その勢いで後ろを向こうとするが、しつこく靴底に絡みついている糸はそれすら許さず、後ろを向けない。


「んん~~~~!!」


 ぐちゃぐちゃぐちゃ! べちゃべちゃ!


 足踏みしたり、引っ張ったり、こすったりねじったり、無茶苦茶に暴れる真子。


「やだ! ネバネバ、やだぁっ!」


 顔が赤くなり、汗が飛び散り、息継ぎが荒くなる。真子は以前魔道スライムに襲われた事で、ネバネバしたものが大嫌いになってしまった。嫌悪感に任せて、ひたすらにもがき続ける。


(だめ! 取れない!)


 抜け出せない。逃げられない。持ち上がらない。こすり取れない。方向転換すら出来ない。真子の両足は、恐ろしい粘着力を誇る糸に絡め取られ、全く動かせなかった。捕らえられているのは足だけなのに、真子は全ての行動を封じられているのだった。


 こうなったら、ナフレの気分に任せるしかない。これだけ激しくもがいたのだから、いい加減満足してくれるだろう。逃がしてくれるだろう。そう思って、ナフレに解放を要求する。


「もういいでしょ! これ以上動けないわ! ここから帰して――」


 最後まで言う前に、ナフレが真子のすぐ目と鼻の先まで移動し、その頭を片手で掴んで、軽く押した。


「きゃっ!?」


 予期せぬ衝撃を与えられ、仰向けに倒れそうになる真子。だが、彼女の背中は何かに、べちゃりと受け止められ、倒れなかった。


「こ、これ……!」


 いつの間にか真子の背後に巨大な蜘蛛の巣が張り巡らされており、真子はそれに貼り付けられてしまった。


「ごめんね。お姉ちゃん、すっごくいいもがきっぷりだったんだけど……」


 ナフレは両手を真子の両頬の横の蜘蛛の巣に付け、顔を近付ける。


「お姉ちゃんの事襲いたくなっちゃった。だから逃がすのはナシね」


「え……」


 抗議しそうになった真子だが、今さらながら思い出した。ナフレが話した蜘蛛の生態には、まだ続きがあったのだ。


 もがいている獲物を見ると興奮し、積極的に襲うようになる。


 つまり真子は、ナフレが襲いやすくなるよう、刺激していただけだったのだ。というかそもそも、一度この糸の上に足を置いてしまった時点で、真子の生殺与奪権はナフレに握られている。全てがナフレの気分次第であり、約束するのも、それを反故にするのも、彼女の自由なのだ。


「お、お願い、待って……!」


「もしかして、お友達を呼んでるのかな?」


 あっと声を上げる間もなく、ナフレは真子のスカートのポケットに手を突っ込んで、魔道具を取り出した。


「これ使って助けを呼んでたの、知ってるんだから。でもね、結界の隠蔽技術には自信があるんだ~。たぶんお友達はお姉ちゃんが助けを呼んでるのに気付いてないよ」


「なっ……!」


 実際、真子のSOSサインは、瑠阿に届いていなかった。魔力の繋がりは、この結界によって断ち切られ、瑠阿は真子が今まさに食われそうになっている事に気付いていない。


「時間稼ぎしても、む~だ。残念でした」


 魔道具を投げ捨てるナフレ。足だけでなく背中や手までも糸に拘束され、先程以上に行動を制限されてしまった。瑠阿も助けに来ない。希望は、たった今潰えた。


「助けて……」


 真子に出来るのは、涙を流して命乞いをする事だけだった。声が震えて、涙が溢れる。蜘蛛に捕らえられた獲物は、糸で全身をぐるぐる巻きにされて噛みつかれ、消化液を注入されて、内側から生きたまま溶かされる。体液のジュースを残らず啜られ、皮だけにされて捨てられる。それは一体、どれだけの苦痛を伴うのか想像出来なかったししたくもなかった。


 しかし、想像するまでもなく、今から体感させられるのだ。命と引き換えに。そう思うと、命乞いをせずにはいられなかった。


「無理だよ。こんなに可愛い女の子、これ以上我慢出来ない」


 獲物がもがく姿を散々見せられ、極限まで興奮していたナフレは、もう待ったが効かない状態だった。


「食べるね」


 あっさりと下された、死刑判決。執行猶予も、減刑もない。


「やだ……嫌……助けて……死にたくない……死にたくないよぉ……!!」


 命乞いを続ける真子。そんな彼女の耳元に口を寄せて、ナフレは囁きかけた。


「大丈夫。お姉ちゃんは死なない。すごく気持ち良くなってもらうだけ」


「……え?」


 真子はナフレの顔を見た。


「実は私、普通のアルケニーじゃないの。アルケニーの細胞とサキュバスの細胞を掛け合わせて造られた、人工生物なんだよ」


「じ、人工……」


「私はアルケニーみたいに、虫や人の肉も食べるけど、サキュバスみたいに精気も食べるの。私としては、肉よりも精気の方が好き」


 だからナフレは真子の血肉ではなく、精気を頂く。今朝の蝶も、実は食ってはおらず、精気を吸ってから逃がしてやった。


「サキュバスは本来、男の人の精気を食べるんだけど、私は昔、女の人に助けてもらった事があって、それ以来女の人の精気しか受け付けなくなっちゃった」


 そう言いながら、ナフレは真子の太ももを撫でる。


 今の真子の姿は、さながら可憐な蝶が蜘蛛の巣に囚われてしまったかのようだった。


「お姉ちゃん。あなたの名前を、教えて?」


「綺羅坂……真子……」


 真子の口から勝手に名前が飛び出す。


「真子お姉ちゃん。もう逃げられないからね」


 蠱惑的な笑みを浮かべたナフレは、真子にキスをした。



 ☆




(瑠阿も、こんな気持ちだったのかな……)


 瑠阿は毎晩メアリーの夜の相手をさせられているという。彼女がどんな気分を味わっているのか、今やっとわかった気がした。


 潤んだ瞳でナフレを見つめる真子。きっと彼女は、これで満足してくれただろう。やっと放してもらえる。


 そう思っていた時、ナフレは突然泣き出し、真子の胸に顔を埋めた。


「ごめんなさい。私、寂しかったの。生まれた研究所を異端狩りに追い出されて、やっと辿り着いた上海でも、エルクロスっていう異端狩りにたくさん仲間を殺されて、寂しかったの……」


真子は驚いた。


「あなた、エルクロスを知ってるの!?」


「うん。真子お姉ちゃんも?」


 意外すぎる相手から予想もしない名前を聞いてしまった。知っているもなにも、先日エルクロスの邪悪な計画に付き合わされたばかりである。


「そっか……エルクロスに……安心して。あなたのお友達の仇は、私の友達が取ってくれたわ」


「本当に!? よかった……」


「ねえナフレ。今すぐ放してくれない? あなたの事、相談したい相手がいるから」


「……わかった」


 ナフレは名残惜しそうにしながらも、真子を蜘蛛の巣から解放した。それから魔道具を拾ってもらって、結界から出してもらい、瑠阿とメアリーを呼び出した。


「エルクロスのやつ……ジャスティスクルセイダーズから抜けたくせに、異端狩りの仕事はきっちりこなしてたってわけだ」


 メアリーは愚痴る。まぁエルクロスは自分の目的を果たす為にジャスティスクルセイダーズを抜けたのであって、魔族を憎む気持ちは変わっていなかった。


「瑠阿、メアリーさん、この子どうしたらいいと思う?」


「魔界には、行き場を失った魔族を保護する施設があるって聞いた事があるけど……」


 瑠阿は考える。順当に考えるなら、ナフレはその施設で保護してもらうべきだ。


 が、ナフレは真子の後ろに隠れた。


「私、真子お姉ちゃんの事気に入った。だから、真子お姉ちゃんと一緒にいたい」


「……真子。君さえよければ、その子を引き取ってあげてくれないかな?」


 メアリーは交渉に入った。アルケニーは凶暴な魔族だが、ナフレは特別な個体だ。今のところ誰にも危害を加える気配はないし、真子に懐いているようだから、それなら真子と一緒にいる方がいい。


「わかりました。この子、私が引き取ります」


「やったぁ! ありがとう真子お姉ちゃん!」


 こうして、アルケニーとサキュバスのキメラ、ナフレは真子に引き取られる事になった。



 ☆



 真子には両親がいるので、ナフレの事をどう紹介しようかと悩んだが、彼女は平常時は結界の中にいるらしく、緊急時以外ずっとここに隠れていれば、誰にも迷惑を掛ける事はない。


「なるほど、こういう事も出来るわけか」


 夜。真子は再び、蜘蛛の巣に拘束されていた。


 風呂から上がって就寝しようという時、ベッドの上に寝転んだ真子は、そのままナフレの結界の中に引き込まれた。ベッドの上には大きな蜘蛛の巣が張り巡らされていて、あっという間に動けなくなってしまった。


「ここなら誰の邪魔も入らない。私と真子お姉ちゃんの、二人だけの時間だよ」


「んっ……」


 ナフレは真子に口づけした。


蜘蛛ってあんまり好きじゃないというか、むしろ嫌いなんですが、蜘蛛の巣に女性が拘束されるというのはなかなかにそそるシチュでして、足フェチと合わせて書かせてもらいました。

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