第八十八話「口座を作る方が、買うより先に面倒だった」
翌日の午後、俺は自室から残り二社分の資料を持って居間へ下りた。
食卓へ広げようとしたところで、母さんに見つかった。
「またそこでやるの?」
「今日はご飯の時間までに片づける」
「昨日も同じこと言ってなかった?」
「言ってない。たぶん」
「たぶんなのね」
母さんは呆れた顔をしたが、追い出されはしなかった。
父さんが持ってきた座布団へ座り、三社の資料を順番に並べる。俺が春休みに作った比較表も横へ置いた。
「それで、どこがいいんだ」
「今のところは、昨日届いたところ」
「理由は?」
「未成年口座があって、一株ずつ買える取引もある。手数料はこっちより少し高いけど、買いたい会社を選びやすいと思う」
父さんは資料と比較表を見比べた。
単元未満株の欄には付箋を貼ってある。ただ、詳しい条件まではまだ分からない。注文の仕方も普通の株と違うらしく、資料には小さな字で注意書きが並んでいた。
「一株ずつ買えるなら、安く済むってことか?」
「たぶん。でも、手数料で損することもありそう」
「そこが、まだ分からないんだな」
「うん」
分からない部分を誤魔化すと、あとで絶対に突っ込まれる。
会社の会議なら、資料の隅へ小さく書いて流したくなるところだ。父さんには通じそうにない。
「父さんは、どう思う?」
「三社とも名前は聞いたことがある。だが、父さんも証券会社の良し悪しなんて分からん」
「じゃあ、これでいい?」
「お前が調べた理由は分かった。あとは、実際に口座を作る父さんが規約を読む」
父さんが最後に届いた封筒を手元へ引いた。
これで決まりらしい。俺より慎重なくせに、決める時は早い。
「まずは父さんの口座からだな」
「俺のは、そのあと?」
「そう書いてある。今日はこっちだけやるぞ」
父さんは自分名義の申込書を広げた。
氏名や住所、生年月日を書き、勤務先の欄で一度手を止める。俺は横から眺めていたが、だんだん暇になってきた。
「ここ、電話番号もいるみたい」
「見れば分かる」
「銀行口座は?」
「今出す」
「印鑑も」
「……悠真、少し黙ってろ」
手伝っているつもりだったのだが、邪魔だったらしい。
俺が口を閉じると、母さんが棚から父さんの通帳と印鑑を持ってきた。
「こっちの印鑑でいいの?」
「申込書に使うのは、たしかそれだ」
「たしかで押さないでよ。あとで違ったら、また書き直しでしょう」
母さんに言われ、父さんが印鑑を持ったまま止まった。
結局、申込案内の細かい文字を最初から読み直すことになった。
未来の株価を知っていたところで、印鑑が違えば申込書は戻ってくる。——もちろんその未来の株価も、確定しているわけでは無いのだが。
何とも締まらない話である。
「こっちで合ってる」
「最初から確認してよ」
「だから今、確認しただろ」
父さんが印鑑を押す。
朱肉が少し濃かったのか、丸い跡の端がにじんだ。俺と母さんが黙って見ていると、父さんは申込書を持ち上げた。
「これくらいなら大丈夫だ」
「本当に?」
「たぶん」
昨日から、うちでは大事な話ほど最後がたぶんになる。
本人確認書類の写しと銀行口座の情報を揃え、父さんは申込書を返信用封筒へ入れた。念のため、封をする前に母さんが中身をもう一度確認する。
「悠真の書類は入れなくていいの?」
「父さんの口座ができてからだって」
「二度手間ね」
「俺もそう思う」
「口座を作る前に面倒だと分かってよかっただろ。買ったあとで面倒になるよりはましだ」
父さんはそう言って、封筒の剥離紙をはがした。
夕方、俺は父さんと近所の郵便ポストまで歩き、一通目の封筒を投函した。
◇ ◇ ◇
父さんの口座開設を知らせる書類が届いたのは、それから十日ほど経った土曜日だった。
簡易書留を受け取った母さんが、封筒を父さんへ渡す。父さんは説明を読み、パソコンで最初の設定だけ済ませた。
「これで、俺の方を申し込める?」
「急かすな。お前のは書類が多いんだ」
父さんが出した未成年口座の申込書には、俺の名前だけでなく、親権者が記入する欄もあった。続柄を確認するための書類まで必要になるらしい。
「役所の書類は、平日に取ってくるわ」
母さんが申込案内を見ながら言った。
「悪い。お願いします」
「はい。じゃあ、その前に確認するものがあるわね」
母さんは寝室へ行き、見覚えのある通帳を持って戻ってきた。
表紙には俺の名前がある。以前、自室で残高を確認した通帳だった。
「正月に預かった分も、ここへ入れてあるから」
開かれたページには、年明けの日付と八千円の入金が記帳されていた。
残高は三万九千六百円。
「ちゃんと入ってる」
「入れるって言ったでしょう」
「いや、疑ってたわけじゃないけど」
「今の言い方は、少し疑ってた人の言い方ね」
母さんが通帳を自分の方へ引いた。
前の人生では、この口座にいくら入っていたのかも、いつ使ったのかも覚えていない。母さんに任せたまま、聞こうともしなかった気がする。
「この中から、いくら使うつもりなんだ」
父さんが聞いた。
「最初は二万円くらい。全部を一度に使うつもりはない」
「なら、上限は二万円だ」
「上限?」
「口座へ入れていいのは、まず二万円まで。勝手に追加しない」
半分近くは残る。
もっと使えれば買えるものも増えるが、ここで金額を上げようとして話ごと止められる方が困る。俺は黙って頷いた。
「ほかにも決めておくぞ」
父さんが、俺の進路ノートとは別の大学ノートを開いた。
「信用取引はしない。先物も為替もやらない。借りた金で買うのもなし」
「現物の株だけでいい」
「最初の注文は父さんと一緒にやる。何を買うにしても、先に理由を見せろ」
「会社ノートに書く」
「買ったあとの値段と、売った時の結果もだ」
俺は父さんの言葉をノートへ書いていった。
横で聞いていた母さんが、通帳を閉じる。
「成績が下がったら、いったん止めること」
「どれくらい?」
「今より明らかに下がったら」
「それだと判断する人によって変わらない?」
「じゃあ、定期テストの順位が二回続けて下がったら」
「一回ならいいの?」
「そういう抜け道を探すなら、一回でも止めるわよ」
「探してない」
危ない。会社の規則みたいに条件を詰めようとしたら、母さんの裁量が広がった。
これ以上口を出すと不利になる。俺は書いた行の最後に、『勉強を疎かにしない』と足した。
「それから、利益が出ても勝手に全部使わないこと」
「まだ一円も増えてないよ」
「増えてから言ったら、聞かなそうだもの」
そこまで信用がないだろうか。
いや、パソコンを欲しがっていた頃の俺を思い出すと、母さんの警戒も分からなくはない。
父さんがノートをこちらへ向けた。
「今書いたことを守れるなら、申し込んでいい」
「守る」
「返事だけは早いな」
「ここまで書かせて、やっぱり駄目って言われたら困るだろ」
「駄目とは言ってない。お前の金だから、雑に使うなと言ってる」
父さんは俺の通帳へ一度目を向け、それから申込書を指した。
「ただし、お前はまだ十四歳だ。口座の管理も、注文の確認も父さんがする。それはいいな」
「うん」
自由に触れないのは少し面倒だったが、十四歳の息子へ二万円を渡し、好きに株を買えと言う親の方がたぶんおかしい。
中身が三十二歳だと説明できない以上、このくらいは仕方がない。
俺は申込書へ名前と住所を書いた。
印鑑を押そうとすると、父さんが横から手首をつかむ。
「そこじゃない」
「え?」
「そこは親権者の欄だ」
危うく父さんの名前の横へ、俺の印鑑を押すところだった。
偉そうに比較表まで作ったのに、申込書一枚でこれである。父さんが印鑑を置く場所を指で押さえ、俺は今度こそ自分の欄へ押した。
母さんが取ってきた書類と通帳の写しを揃え、三人で不足がないか確認する。父さんが一度、母さんがもう一度、最後に俺が見た。
「同じ紙を三回も見たんだから、大丈夫だろ」
「この前の印鑑みたいなこともあるからな」
「あれは大丈夫だっただろ」
「たぶんね」
母さんに言われ、父さんが封筒を閉じた。
◇ ◇ ◇
夕方、また父さんと同じ郵便ポストまで歩いた。
今度は俺が封筒を持ち、投函口へ入れる。厚みがあったせいで途中で少し引っかかり、指で奥へ押した。
「これで、通ったら買えるんだよな」
「通ったとしても、買っていいとはまだ言ってないからな」
「ここまでやって?」
「口座ができたら、次は買う会社の説明だ」
肩から力が抜けた。
父さんはそんな俺を置いて、帰り道のスーパーへ入っていく。
「悠真、牛乳二本持て」
「重いんだけど」
「これくらいで文句を言うな」
牛乳を一本ずつ両手に提げ、俺は父さんの後を追った。さっきポストへ押し込んだ書類より、こっちの方がだいぶ重かった。
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▼登場人物まとめ
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