第三十四話「帰り道は、思ったより短い」
花火が終わると、境内の空気が少しだけ緩んだ。
さっきまで空を見上げていた人たちが、屋台の方へ戻ったり、鳥居の方へ流れたりする。
小さな子供が眠そうに親の腕にぶら下がっていて、どこかの父親が「もう帰るぞ」と何度も言っていた。
祭りの終わり際は、昼間の学校とは違う疲れ方をしている。
楽しいのに、少し寂しい。
いや、俺が勝手にそう感じているだけかもしれない。
隣で、白石が巾着の紐を握り直した。
「さて、戻るか」
「うん」
俺たちは鳥居の近くへ向かった。
人の流れはまだ多いが、花火の前ほど詰まってはいない。
それでも、白石の歩幅は少し小さい。
浴衣というのは見ている分には涼しげだが、歩く本人はたぶん大変だ。
俺は自然に、というより、自然に見えるように気をつけながら歩幅を落とした。
こういうところに気を使っている自分が、なかなか面倒くさい。
鳥居の横では、田端が射的の参加賞をまだ手に持っていた。
小さな飴一つで、よくここまで誇れるものだ。
「遅いぞ、佐伯」
「人が多かった」
「澪、大丈夫だった?」
小野がすぐ白石に声をかける。
白石は頷いた。
「うん。端の方にいたから」
「よかった」
小野はほっとしたように笑った。
その顔を見て、白石も少し笑う。
小野がいると、白石の表情が柔らかくなることが増えた。
いいことだ。
いいことなのに、ほんの少しだけ置いていかれたような気分になる。
何を張り合っているんだ、俺は。
田端が飴を口に放り込みながら言った。
「じゃ、帰るか。俺、明日朝から親戚んち行かされるし」
「また親戚か」
「夏休みってそういうもんだろ」
杉浦が欠伸をかみ殺しながら、田端の横に並ぶ。
「俺もそっち方面」
「じゃあお前、途中まで一緒な」
「はいはい」
小野は携帯を開いて、画面を確認した。
「私はお母さんが近くまで来てるって。商店街の方で待ってるみたい」
「迎え?」
「うん。浴衣だから、帰りだけは来るって言われてて」
それなら安心だ。
問題は白石だった。
「白石は?」
俺が聞くと、白石は少しだけ巾着を持ち直した。
「私は、歩き。家、こっちとは反対の方だから」
白石が指した方向は、俺たちが来た道から少し外れていた。
人通りはあるが、神社から離れると住宅街に入る道だ。
昼間なら何でもない。
だが、今は夜で、祭り帰りの人もだんだん減っていく。
その時、家を出る前の父さんの声が頭に戻ってきた。
帰りは暗い。誰か一人で帰らせるな。
妙なところで、父さんの言葉は効いてくる。
パソコンの履歴確認より、こういう言葉の方が効いてくるのは少し悔しい。
「送る」
俺が言うと、白石は驚いたようにこちらを見た。
「え、でも」
「父さんに言われてる。誰か一人で帰らせるなって」
「でも、佐伯くんの家、そっちじゃないよね」
「少し遠回りするだけだろ」
「悪いよ」
「ここで一人で帰らせたら、俺が父さんに怒られる」
雑な理由だ。
だが、これくらいがちょうどいい。
格好つけて「心配だから」と言うには、俺の心臓が弱すぎる。
小野が小さく笑った。
「じゃあ佐伯くん、お願いしていい?」
「おう」
田端が何か言いかけた。
口の端が完全に茶化す形になっている。
その瞬間、小野が田端の足を軽く踏んだ。
「痛っ」
「田端くん、帰るんでしょ」
「はい」
小野、怖い。
味方でよかった。
杉浦は全部見なかったことにした顔で、田端の肩を押した。
「行くぞ」
「分かったって」
小野は白石に近づいて、何か小さく言った。
俺には聞こえなかった。
白石は少しだけ頷いて、それからこちらを見る。
「じゃあ……お願いします」
その言い方が妙に丁寧で、俺は少し困った。
「そんな大げさに頼まれることじゃないだろ」
「でも、ありがとう」
「まだ送ってない」
「うん。でも、先に」
白石はそう言って、少し笑った。
小野がまたにやにやしている。
俺は見なかったことにした。
◇ ◇ ◇
神社を離れると、祭りの音は少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
太鼓の音も、人の声も、屋台の呼び込みも、角を一つ曲がるだけで急に薄くなる。
代わりに、虫の声と、遠くを走る車の音が聞こえた。
夏の夜の住宅街は、明るい場所と暗い場所の差が大きい。
街灯の下は白っぽく、そこから外れると急に足元が見えづらくなる。
白石は浴衣の裾を少し気にしながら歩いていた。
俺は横に並び、いつもよりゆっくり歩く。
それでも、白石が少し遅れそうになる時がある。
「歩きにくい?」
「少し。でも、大丈夫」
「大丈夫じゃなくなったら言えよ」
「うん」
白石の返事は素直だった。
前なら、たぶん「平気」とだけ言って無理をしたと思う。
そういう小さな違いに気づくたび、俺は少しほっとする。
そして、ほっとしている自分に気づいて、また少し困る。
車が通る道に出たところで、俺は白石と位置を入れ替えた。
自分が車道側になる。
大げさにやると変なので、ただ歩く位置を変えただけだ。
白石はそれに気づいたらしい。
何か言いかけて、結局言わなかった。
その沈黙が、逆にくすぐったい。
「今日、疲れた?」
俺が聞くと、白石は少し考えた。
「少し。でも、楽しかった」
「ならよかった」
「怖いだけじゃなかった」
その言葉に、俺は横を見る。
白石は前を見たまま続けた。
「人が多いのは、まだ少し苦手。でも、小野さんがいて、田端くんたちが騒いでて、佐伯くんが端に行く?って聞いてくれて……だから、怖いだけじゃなかった」
怖いだけじゃなかった。
たぶん、それは白石にとってかなり大きい。
楽しかった、よりも少し重い言葉だ。
俺はすぐに返事をしないで、数歩だけ黙って歩いた。
「そっか」
結局、出てきたのはそれだけだった。
もっと気の利いたことを言えればいいのに、こういう時に限って言葉が鈍い。
白石は、気にした様子もなく頷いた。
「うん」
少し進むと、祭り帰りらしい親子連れとすれ違った。
小さな男の子が、光る腕輪を振り回している。
それを見た白石が、ほんの少し笑った。
「あれ、田端くんが好きそう」
「分かる。あいつ、絶対腕につける」
「両方の腕に?」
「両方につけて、杉浦に一個押しつける」
白石が小さく笑った。
その声が夜道に混ざって、すぐに消える。
祭りの中で聞く笑い声より、こっちの方が近く感じた。
近い、というか、逃げ場がない。
俺の心臓に。
しばらく歩いてから、白石が言った。
「さっきの話」
「さっき?」
「話せる形になったら聞く、って言ったこと」
俺は少しだけ身構えた。
白石はそれに気づいたのか、慌てて首を振る。
「あ、聞きたいって急かしてるわけじゃなくて」
「分かってる」
「困らせたかなって、あとで思って」
白石の声は小さかった。
浴衣の袖が、歩くたびに揺れる。
その袖の先が、時々俺の手の近くをかすめた。
触れそうで触れない。
たぶん、白石はそこまで意識していない。
俺だけがやたら気にしている。
かなり情けない。
「困ってはいない」
俺は言った。
「むしろ、助かった」
「助かった?」
「今すぐ話せって言われたら、たぶん困る。でも、話せる形になったらでいいって言われると、少し楽になる」
白石は黙って聞いていた。
「俺も、自分で何をどう説明すればいいのか、まだ分かってないことがある。だから、待つって言われると助かる」
これは本当だ。
肝心なところは隠しているが、嘘にはならない。
白石は少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ、よかった」
「よかった?」
「困らせただけだったら、どうしようって思ってたから」
「白石は、そういうところ気にしすぎだと思う」
「佐伯くんも、いろいろ気にしすぎだと思う」
返された。
しかも、わりと刺さる。
「まあ、そうかもな」
「うん」
二人で少し笑った。
夜道で、そんなに大きな声では笑えない。
それでも、さっきより空気が柔らかくなった気がした。
白石の家までの道は、思ったより短かった。
いや、本当はそれなりに歩いている。
浴衣の白石に合わせてゆっくり歩いているのだから、時間もかかっているはずだ。
それなのに、角を曲がるたびに、もう少し長ければいいのにと思っている自分がいた。
まずい。
かなりまずい。
中身が三十二歳であることを忘れるな。
そう思う一方で、今の俺は十四歳でもある。
この面倒な二重構造、誰か説明書をくれ。
白石が足を止めた。
「ここ、もうすぐ」
見ると、少し先に家の明かりがあった。
住宅街の中の、普通の家だ。
門の近くに植木鉢が並んでいる。
窓から明かりが漏れていて、人の気配があった。
急に、帰り道の終わりが見えた。
「じゃあ、ここまでで大丈夫だから」
白石が言った。
「家の前まで行かなくていいのか」
「うん。ここから見えるし」
「そうか」
俺は頷いた。
たぶん、ここで無理に家の前まで行くのも違う。
白石がここでいいと言うなら、ここでいい。
そういう線引きは、雑に越えない方がいい。
白石は少しだけこちらに向き直った。
巾着を両手で持っている。
祭りの明かりはもう届かない。
近くの街灯の白い光だけが、浴衣の柄を薄く照らしていた。
「送ってくれて、ありがとう」
「父さんに言われたからな」
「それでも、ありがとう」
白石はそこで一度、言葉を切った。
それから、少しだけ目を伏せて言う。
「今日は、楽しかった」
胸の奥が、変な感じになった。
花火の時にも同じことを言われたのに、帰り道の終わりで聞くと、また違う。
どう違うのか説明しろと言われても困る。
レポートなら赤点だ。
「俺も楽しかった」
結局、俺は同じような言葉しか返せなかった。
でも、白石はそれでよかったらしい。
ほっとしたように笑った。
「また、図書館で」
「うん。また」
白石は小さく手を振った。
俺も軽く手を上げる。
白石が家の方へ歩いていく。
門のところで一度だけ振り返り、もう一度小さく頭を下げた。
俺はそれを見届けてから、来た道を戻った。
帰り道は、一人だと少し長かった。
さっきは短いと思ったのに、勝手なものだ。
祭りの音はもうほとんど聞こえない。
代わりに、サンダルが地面をこする音だけがやけに耳についた。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、父さんがリビングにいた。
テレビの音量は小さく、母さんは台所で何か片づけている。
「ただいま」
俺が言うと、父さんは時計を見た。
「遅くはないな」
「うん」
「送ったか」
主語はなかった。
でも、誰のことかは分かった。
「送った」
「そうか」
父さんはそれ以上聞かなかった。
母さんは台所で手を止めた気配がした。
聞いている。
絶対に聞いている。
頼むから出てこないでくれ。
「白石さん、ちゃんと帰れた?」
出てきた。
願いは届かなかった。
「帰れた。家の近くまで送った」
「そう。えらいじゃない」
「父さんに言われたから」
「そういうことにしておくわ」
母さんの顔が完全に楽しんでいる。
やめろ。
こっちは今、いろいろ処理が追いついていない。
父さんは新聞を畳み、いつもの声で言った。
「今日はパソコンを触るなよ」
「触らない」
「風呂は?」
「入る」
「宿題は」
「やる」
帰ってきても管理項目は減らない。
祭りの余韻が、生活のチェックリストに飲まれていく。
まあ、これも家だ。
俺は自分の部屋に戻り、ガラケーを机に置いた。
浴衣の白石。
夜道。
触れそうで触れなかった袖。
今日は楽しかった、という声。
思い出すものが多すぎる。
パソコンを開けば、自由研究メモも、あとで調べることも、そのまま残っている。
未来のことだって、もっと念入りに思い出しておく必要があるだろう。
でも、今夜は開く気にならなかった。
その時、ガラケーが震えた。
白石からだった。
『今日は送ってくれてありがとう。楽しかったです』
短いメールだった。
それなのに、俺はしばらく画面を見ていた。
返信を打つ指が、妙に慎重になる。
仕事のメールより緊張する。
何をやっているんだ、俺は。
『こっちこそ楽しかった。ちゃんと帰れてよかった』
少し考えて、もう一文足す。
『浴衣、似合ってた』
送信ボタンの前で止まった。
これは送っていいのか。
さっきも言った。
言ったが、あの時は小野に振られて、勢いで言ったようなものだ。
メールで送ると、少し意味が重くなる気がする。
俺はしばらく悩んだ。
悩んで、結局送った。
送ったあとで、すぐ後悔した。
もう少し軽くできただろ。
いや、軽くしたらしたで変か。
中学生の恋愛未満、難しすぎる。
前の人生で研修を受けておきたかった。
しばらくして、返事が来た。
『ありがとう。少し恥ずかしいけど、うれしいです』
俺はガラケーを閉じた。
それ以上返すと、たぶん余計なことを書く。
だから今日はもうやめておけ。
パソコンも開かない。
未来のことも、今夜は少しだけ棚に上げる。
部屋の外から、母さんの声がした。
「悠真、お風呂入りなさい」
「はーい」
俺は立ち上がり、ガラケーを机の上に置いた。
画面はもう暗い。
それなのに、さっきの短い文面だけは、まだ目の奥に残っていた。
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