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三十代社畜の俺、中二に戻って人生無双を始める 〜なお宝くじの番号は覚えていない〜  作者: らいお


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第十九話「三人だけの勉強会じゃなくなる」

 翌日の朝、教室の後ろの掲示板に、提出物の確認表が貼り出された。


 白石の字で清書された表は、思ったより教室になじんでいた。

 赤ペンで大きく「未提出」と書かれているわけではない。代わりに、「もう一度出すもの」「先生に確認するもの」という欄がある。

 昨日、白石が少し迷いながら選んだ言葉だ。


 朝の教室で、数人がその表の前に集まっていた。

 名前を探すやつ。

 見つけて小さく呻くやつ。

 自分の名前がないことを確認して、妙に誇らしげに戻っていくやつ。


 提出物ひとつで人間はここまで表情を変えるのか、と少し感心した。

 社会人時代の進捗表も、だいたい同じだった気がする。

 違うのは、あちらにはもっと疲れた顔の大人が並んでいたことくらいだ。


「……悠真」


 田端が掲示板の前から戻ってきた。

 なぜか胸を張っている。


「俺の名前、ない」

「今回は出したからな」

「俺、成長してる……!」

「一回で胸を張るな」

「でも俺、今回は表を見る側じゃなくて作った側だから」


 田端はかなり得意げだった。

 作った側と言っていいほど作っていたかは怪しいが、「これだと分からない」という指摘は何度か役に立っている。

 本人に言うと、しばらく面倒くさそうなので黙っておく。


 白石は自分の席で、いつものようにノートを開いていた。

 ただ、今日は少しだけ顔が上がっている。

 掲示板の前に人が集まるたび、ちらりとそちらを見る。

 自分の作ったものが誰かに見られている。そのことが気になるのだろう。


 不安そうでもあり、気になって仕方ないようでもあった。


 そこへ、小野がやって来た。

 手には理科のプリントを持っている。


「白石さん」


 呼ばれた白石の肩が、ほんの少しだけ動いた。

 俺も反射で顔を上げる。


 小野は俺ではなく、まっすぐ白石を見ていた。


「昨日の表、やっぱり見やすかったよ。ありがとう」


 白石は一瞬、返事に困った顔をした。

 その困り方が、前より少しだけ短い。


「ううん」


 小さな返事だったが、ちゃんと小野へ向いていた。


「それでさ、理科のテスト直しって、どこからやればいいか分かる?」


 小野はプリントを机の端に置いた。

 白石が固まる。


 昨日は、表について説明した。

 今日は、自分の勉強の仕方を聞かれている。

 似ているようで、たぶん本人にとっては全然違う。


 俺は口を開きかけた。

 理科なら、間違えた問題を種類で分けて、用語と計算と記述を切り分ければいい。

 そんなことを言いそうになった。

 でも、白石の視線がプリントへ落ちているのを見て、少し待つことにした。


 白石は鉛筆を持ち、プリントの余白を指でなぞった。


「えっと……間違えたところに、すぐ答えを書くより」


 声は細い。

 でも、始まった。


「なんで間違えたかを横に書くと、後で見た時に分かりやすいと思う」

「なんで?」

「用語を覚えてなかったのか、問題文を読み間違えたのか、計算で間違えたのか。たぶん、それで次にやることが違うから」


 小野は目を少し丸くした。


「あ、そっか。私、全部同じように赤で答えだけ書いてた」

「私も前はそうしてた」


 白石がそう言った時、俺は少し驚いた。

 白石にも「前は」がある。

 当たり前なのに、なんとなく彼女は最初からきれいにできる側の人間だと思いそうになっていた。

 そういう見方も、たぶん危ない。


 小野はプリントを見下ろしながら、少し笑った。


「白石さんのノートの分け方、もう少し教えてもらっていい?」


 教室のざわめきが、一瞬だけ遠くなった気がした。


 白石はすぐには答えなかった。

 俺を見る。

 助けを求めるというより、確認するような目だった。


 俺は小さくうなずいた。

 ただし、口は出さない。


「……うん。私でよければ」


 その返事を聞いた小野が、ほっとしたように笑った。


「ありがとう。助かる」


 白石は照れたのか、少しだけ視線を下げた。

 でも、ノートは閉じなかった。


 ◇ ◇ ◇


 昼休みになると、提出物の確認表の前にはまた何人かが集まっていた。

 期末テストが終わったばかりだというのに、教室には妙な反省会の空気がある。

 たぶん、表に名前が載ると現実から逃げにくい。

 しかも言葉がきつくないぶん、「先生が怒っているから嫌だ」という逃げ道も使いにくい。


 田端は弁当を食べながら、表のほうを見ていた。


「俺、あの表に名前載ってたら、たぶん今日出すわ」

「本当か?」

「たぶん」

「たぶんか」

「でも、前よりは出す気になる」


 田端にしては、かなり現実味のある感想だった。


 白石は弁当箱を開けながら、表のほうを少し気にしている。

 自分が作ったものが使われるというのは、落ち着かないのだろう。


「白石」


 俺が呼ぶと、白石がこちらを向いた。


「表、ちゃんと見られてるな」

「うん」


 白石は短く答えてから、少しだけ迷うように箸を止めた。


「……なんか、変な感じ」

「変?」

「自分が書いたものを、みんなが見てるのが」

「……嫌だったか?」


 白石は首を横に振った。


「嫌ではないと思う。まだ、ちょっと分からないけど」


 正直な答えだった。

 こういう時、すぐに「嬉しい」と言えないところが、白石らしい気がした。

 前向きな変化にも、体が追いつくまで時間がかかるみたいだ。


「分からないなら、分からないままでいいんじゃないか」

「いいの?」

「今日中に名前をつけなくてもいいだろ」


 白石は少し考えて、それから小さくうなずいた。


「そっか」


 田端が唐揚げを口に入れながら言う。


「俺は嬉しいなら嬉しいでいいと思うけどな」

「お前はだいたい全部すぐ口に出すからな」

「健康的だろ?」

「たまに不健康なほど出る」

「それは否定しない」


 田端は否定しなかった。

 白石がまた少し笑う。


 こういうふうに、白石が笑う回数が少しずつ増えている。

 それは目立つ変化ではない。教室全体が気づくほどではない。

 でも、近くにいると分かる。

 笑う前に周囲を確認する間が、少し短くなっていた。


 俺はそれを嬉しいと思った。

 嬉しいと思ったあとで、また少しだけ自分にブレーキをかける。

 この感情を、きれいな言葉で片づけるのは簡単だ。

 守れてよかった。変われてよかった。そう言えば収まりはいい。


 ただ、実際はそんなに整っていない。

 白石が笑うと、単純に胸が浮く。

 それを認めるのが、少し怖い。


 俺は弁当の卵焼きを口に入れた。

 甘かった。

 母さんの卵焼きは、なんだか前の人生で食べていた記憶より少し甘い気がした。


 ◇ ◇ ◇


 放課後、いつものように教室の後ろで勉強を始めようとすると、小野が少し迷いながら近づいてきた。


「白石さん、今いい?」


 白石はノートを開きかけた手を止めた。


「うん」

「理科の直し、さっきの分け方でやってみたんだけど、これで合ってるか見てもらってもいい?」


 小野はプリントを見せた。

 赤ペンの横に、小さく「用語」「読み違い」「計算」と書いてある。

 白石が昼に話した分類だ。


 白石は驚いたようにその文字を見た。


「やってくれたんだ」

「うん。けっこう分かりやすかった」


 白石の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「ここは、用語じゃなくて問題文かも。『すべて選べ』ってところを、一つだけ選んでるから」

「あ、本当だ。これ、私よくやる」

「私もやるよ」


 小野が笑った。

 白石も、少し遅れて笑う。


 そのやり取りを見ていた田端が、感心したように言った。


「白石さん、先生みたい」


 白石の肩が小さく跳ねた。

 小野はくすっと笑う。


「たしかに」

「いや、先生より分かりやすいかも」


 田端が余計なことを重ねる。


「先生に聞かれたら怒られるぞ」

「高村先生なら笑ってくれるって」

「他の先生は知らないだろ」

「……そこは小声で」


 田端がわざと声を小さくした。

 場が少しだけ緩む。


 白石は困ったような顔をしていたが、嫌そうではなかった。

 褒められて逃げ場を探している顔だ。

 俺は何か言いたくなったが、ここも黙っておいた。


 小野は椅子を一つ引いてきた。


「少しだけ、ここでやってもいい?」


 白石が俺を見る。

 今度は答えを委ねる目ではない。

 確認の目だ。


「俺はいいけど、白石が嫌なら別の場所で」


 白石は少しだけ首を横に振った。


「大丈夫」


 その一言で、小野が椅子に座った。


 それだけなら、まだ小さな変化で済んだ。

 だが、数分もしないうちに、もう一人が近づいてきた。


「佐伯、俺も聞いていい?」


 声をかけてきたのは、杉浦健太(すぎうらけんた)だった。

 サッカー部で、授業中はよく眠そうにしている。悪いやつではないが、提出物とはあまり仲がよくない印象がある。


「何を」

「数学のテスト直し。先生に、途中式ちゃんと書けって言われたんだけど、何を書けばいいか分からん」

「途中式の時点で分からないのか」

「答えが合えばよくない?」

「それで落としてるから聞きに来たんだろ」

「そうだった」


 杉浦は素直にうなずいた。

 田端と少し同じ匂いがする。


「少しだけなら」


 俺が言うと、杉浦は空いている机を引いてきた。

 これで、教室の後ろにいる人数が増えた。


 俺、白石、田端。

 そこに小野と杉浦。


 たった二人増えただけなのに、景色が変わって見えた。

 いつもの勉強会が、急にクラスの一部になった感じがする。


 白石もそれを感じたのか、ノートの端を少しだけ押さえていた。

 ただ、立ち上がって逃げるような気配はない。


 田端が小声で俺に言う。


「なんか増えたな」

「そうだな」

「俺、先輩面していい?」

「やめろ」

「早かった」


 小野がそれを聞いて笑った。

 杉浦は数学の答案を出しながら、田端に言う。


「田端って赤点回避したんだろ?」

「した」

「じゃあ俺もいける?」

「俺を基準にすると危ないぞ」

「自分で言うんだ」


 田端は胸を張っているのか、引いているのか分からない顔をした。

 こういう雑な会話があると、場が重くなりすぎない。

 白石に注目が集まりすぎないのも助かる。


 俺は杉浦の答案を見ながら、途中式の書き方を説明した。

 白石は小野と理科の直しを見る。

 田端はその間で、自分の英語の単語をめくりながら、たまに関係ないことを言う。


 教室の後ろに、小さな机の島ができた。


 ◇ ◇ ◇


 白石が人に説明する横顔を、俺はときどき視界の端で見ていた。


 小野のプリントを指しながら、白石はゆっくり話している。

 声はまだ大きくない。

 でも、相手が聞き返せば、もう一度言い直す。

 前なら、そこで「ごめん」と言って終わっていたかもしれない。


「ここは、図を見ると分かりやすいと思う」

「図?」

「うん。文章だけで覚えるより、横に小さく描くと」


 白石はノートの端に、簡単な図を描いた。

 それを見た小野が「あ、分かる」と声を上げる。


 白石は少し驚いて、それから嬉しそうに目を伏せた。


 俺はそれを見て、妙に落ち着かなくなった。


 助けられるだけの白石ではない。

 そんなことは、昨日の時点でも分かっていたはずだ。

 けれど実際に、白石が誰かの役に立っているところを見ると、分かっていたつもりとは少し違った。


 俺が白石を教室に戻した、なんて言い方はたぶん違う。

 白石は、白石のままここに座っている。

 ノートを開き、鉛筆を持ち、自分が考えた言葉で相手に説明している。


 その横顔を、いつまでも見ていたらまずい気がした。

 俺は杉浦の答案へ視線を戻す。


「佐伯、これ何でバツ?」

「符号が逆」

「符号って何でこんな大事なの」

「逆になるから」

「当たり前のこと言われた」


 杉浦は答案を見ながら頭を抱えた。

 田端が横から覗き込む。


「俺もそこ間違えた」

「仲間じゃん」

「仲間だけど点は増えない」

「現実きついな」


 現実はきつい。

 だが、二人で同じ間違いを笑えるなら、まだましだ。


 教室の前のほうで、女子の声がした。

 小さな声だったが、こちらを見ているのは分かる。


 榊原の取り巻きの一人が、何かを囁いた。

 榊原は机に肘をついて、つまらなそうにこちらを見ている。

 笑ってはいない。

 怒っているようにも見えない。

 ただ、教室の後ろにできた小さな輪を、気に入らないものとして眺めている。


 目が合った。


 榊原はすぐに視線を外さなかった。

 俺も外さない。


 ほんの数秒。

 それだけで、空気の奥に細い糸が張る。


 先に視線を外したのは、俺だった。

 白石たちのほうを見る。


 榊原を見張ることは必要だ。

 でも、榊原ばかり見ていたら、今ここで起きている変化を見落とす。


 白石はまだ、小野に説明していた。

 小野はそれを聞いて、ノートに何かを書き足している。


 こっちを見るべきだ。

 少なくとも、今は。


 ◇ ◇ ◇


 勉強会と言っていいのか分からない集まりは、三十分ほどで自然に終わった。


 小野は部活があるらしく、時計を見て「あ」と声を上げた。

 杉浦もサッカー部の練習へ走っていく準備を始める。


「佐伯、助かった。途中式、次はもうちょい書く」

「次じゃなくて、直しで書け」

「そうだった……」

「忘れるな」


 杉浦は笑って、答案を鞄に突っ込んだ。

 その入れ方だと忘れそうだが、今日はもう追及しない。


 田端がその背中に向かって言う。


「提出物、出せよ」

「田端に言われると重いな」

「経験者だからな」


 田端が自信満々に言う。

 自信を持つ場所はそこではない。


 小野はプリントとノートを鞄にしまってから、白石のほうを向いた。


「白石さん」


 白石は顔を上げる。


「今日ありがとう。分かりやすかった」

「ううん。私も、説明する練習になったから」


 白石がそう言った。

 俺は少しだけ驚く。


 練習になった。

 その言い方は、誰かに頼られたことをただ負担として受け取っていない言葉だった。

 まだ怖さはあるだろう。

 でも、そこに自分の意味を見つけようとしている。


 小野は少し嬉しそうに笑った。


「また聞いていい?」


 白石の指が、ノートの角を軽く押さえた。

 断る理由を探すような沈黙ではなかった。

 ただ、急に増えた約束を、両手で受け取る前に確かめているような間だった。


 白石は俺を見なかった。

 田端も見なかった。

 小野のほうを見たまま、少し迷ってからうなずいた。


「うん」


 それだけの返事で、小野は「よかった」と笑った。

 そして、部活へ向かって教室を出ていく。


 白石はその背中を見送っていた。

 ノートを胸に抱えたまま、けれど昨日より少しだけ肩の力が抜けている。


 田端が小声で言った。


「白石さん、人気先生じゃん」

「茶化すな」

「茶化してない。ちょっと本気」


 田端にしては珍しく、声が軽すぎなかった。


 白石は照れたように視線を落とした。


「先生じゃないよ」

「じゃあ、何だろ」


 田端が首をひねる。

 俺も、少し考えた。


 助けられた子。

 守るべき相手。

 同じ机で勉強する相手。

 ノートがきれいなクラスメイト。


 どれも間違いではない。

 でも、ひとつに決めると、何かがこぼれる気がした。


「今は、白石でいいだろ」


 俺が言うと、白石が顔を上げた。


「それ、答えになってる?」

「なってないかもしれない」

「佐伯くん、たまに適当だよね」

「たまにで済んでるならよかった」


 白石が小さく笑った。

 田端も「たまにかなあ」と余計なことを言う。


 教室の前のほうでは、榊原たちがまだ何か話していた。

 その視線が完全に消えたわけではない。

 むしろ、この小さな輪が広がるほど、あちらの反応も変わるだろう。


 それでも今日は、白石が小野に「うん」と言った。

 俺のほうを見ずに、自分で返事をした。


 そのことを、俺はたぶん長く覚えている。


 白石はノートを鞄にしまう前に、さっき小野へ見せたページをもう一度だけ開いた。

 端に小さな図が残っている。

 それを見て、少し照れくさそうに、でも消さずに閉じた。


 帰り支度をする白石の横で、田端が俺の肩を肘でつつく。


「なあ、悠真」

「何だ」

「明日、人数もっと増えたらどうする?」


 俺は教室の後ろに並んだ机を見た。

 今日だけでも、少し狭かった。


「その時は、机を増やすだけだな」

「単純」

「単純なほうがいい時もある」


 田端は納得したような、していないような顔で「そっか」と言った。


 白石はその会話を聞いていたらしい。

 鞄を持ち上げながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「机、重いよ」

「田端が運ぶ」

「俺?」

「提出物を出せる男になったんだ。机くらい運べる」

「成長の方向がおかしい」


 田端の文句に、白石が笑った。


 その笑い声は小さかったが、昨日より少しだけ教室に残った気がした。


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