榊原伊織と白藤玲
今日は、アパレル系企業が一堂に会する大型合同展示会だ。
我らがサカキもブースを出展している。従来の伝統的な紳士服の新作ラインナップと、新たに展開するユニセックスのオフィスカジュアルの初期コレクション。
ジャケットの肩線、パンツの落ち感、シャツの襟元。スポットライトに照らされているのはミリ単位での修正を幾度も重ねた、私の子どものような服たちだ。
展示用のトルソーに着せられているそれらを、大した意味は無いと思いつつも、寸分の乱れもないようにと何度も整えてしまう。
全体の責任者として社長である父は紳士服の方に陣取っているが、ユニセックス部門の責任者として表に立っているのは、結仁だ。マスコミ対応も、バイヤーへの説明も、笑顔でそつなくこなしている。
ふと、結仁の視線がこちらを探した。
呼んでいるような気がして歩み寄れば、結仁はほっとしたような顔をした。
「詳しい設計については、こちらの榊原が中心になって進めました。ここからは本人よりご説明します」
なるほど、そういうことね。
私は結仁からの言葉を引き継いだ。
経済誌の記者は、私の話を聞いてすらすらとペンを走らせる。
「なるほど。男性向け、女性向けではなく、働く人の身体に合う服として設計しているわけですね」
「ええ。多様性の進むこの時代だからこそ、性に縛られない選択肢が増えるべきだと考えております」
「貴重なお話をありがとうございました」
そう言って、記者は結仁に向かって頭を下げた。
次の取材へ向かうのであろう記者の背中を、貼り付けた笑顔で見送る。
最後に話していた相手は、私だったのにな。身につけたシラフジのインナーが、少し軋んだ。
私は裏方、弟を後ろから支えるもの。外から見たら、そういう立場でしかないんだと、胸がちくりとした。
「姉さん、急に引っ張り出してごめん。こっちは少し余裕ができてきたから、姉さんは少し息抜きしてきて」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えて一息入れてくるわ」
結仁に気を遣わせてしまった。そんな顔をさせたいわけではなかったので、私は努めて明るく頷いた。
目的もなく化粧室へ足を向ける道すがら、薄紫色が視界に入って足を止める。
シラフジのブースだ。
どこのブースも人混みが途切れないが、シラフジの混み様は特に異様に思えた。
記者たちが興奮したようにカメラのフラッシュを焚いている。
さすがに違和感を覚えて人垣の隙間から覗いてみれば、人の輪の中心に立つ長身の人物と目が合った。
「ナナシノ……?」
向こうも『あっ』と、驚いた顔をした。その表情で確信する。
間違いない、ナナシノだ。
足がその場に縫い付けられたように動けなくなる。
なぜ、シラフジのブースにいるの。
なぜ、記者たちは貴方にカメラを向けるの。
こんなところで「ナナシノ」と呼ぶわけにもいかない。
困惑する私を置き去りにして、記者の一人からの質問が飛ぶ。
「玲さんはこういう場に出てくるのは、今日が初めてですね」
「え、ええ……本当は会長が来る予定だったのですが、ぎっくり腰の静養中でして、社長は別件の予定があり、孫の私が代理で来るしかなく……」
玲さん、と呼ばれた。
シラフジの玲さん。
白藤、玲。
耳になじんだ低く艶のある声より、ほんの少しだけ誠実そうな響きのある男の声で、彼は自分が白藤玲だと名乗った。
その後から、家に着くまでの記憶は、ひどく曖昧だ。
仕事自体はそつなくこなしていたと、自分を信じている。でも、心ここにあらずだったのも、また事実だった。
シャワーを済ませ、ベッドに倒れ込んで天井を見つめる。指一本動かすのすら億劫だった。
「白藤玲も、男だった……」
同じような立場だと、勝手に思っていた。
同志のような、好敵手のような。女でありながら老舗企業の中で戦っている、私とは別の場所にいる誰かなのだと。
「女性向け企業でも、結局トップに立つのは男なのね……」
いつだったかのバーで、彼が「君の頭の中は『白藤玲ちゃん』でいっぱいなんだなあって思ったのさ」と笑っていたのが蘇る。
あの時の彼は、どんな気持ちでそれを言ったのだろうか。
どのくらいそうしていただろうか。気づけば枕元に放り出していたスマホに、メッセージが届いていた。
行きつけのバーのマスターからだった。
『普段は営業メッセージなんかしないんだけどさ、ずっと待ってるからかわいそうになっちゃって』
ただ、それだけ。
でも、その意味するところを分かってしまった。
迷った。
今、彼の顔を見たくない。
でも、マスターがわざわざメッセージを送ってくるほどなのだ。きっと、このままでは閉店まで居座りかねないように見えたのだろう。
「それは、マスターがかわいそうかもね」
私は、ジャケットを羽織ると夜の街に踏み出した。
バーの重い扉を開けると、いつものジャズが、今日は妙に心臓の鼓動を急かすように聞こえた。
カウンターの端。いつもの席に、その男はいた。
今日はジャケットを脱いで、上質なシャツの袖を捲り上げている。
「シケた顔を見に来たわよ」
「……どうして」
「マスターが、今なら貴方のかわいそうな顔が見られるって」
「僕そんな風に書いてないよ!?」
わざとらしく狼狽えるマスターに一瞥をくれてやり、一つ席をあけて座る。
しばらく沈黙が続き、堪えかねて「何かオススメのものを」と注文する。
マスターが少し考えた後、赤ワインとカシスリキュールを取り出したあたりで、彼は口を開いた。
「……ナナシノでも、白藤玲でもない俺が、君と話したかったんだ」
「どうして私なの」
「……隣に、面白そうな女の子がいたから」
「それだけ?」
「……最初はね」
彼が手にしていた厚みのあるロックグラスの中で、氷がひとつ、からりと音を立てた。
ステアを終えたマスターが、赤いカクテルを私の前に置いた。
「どこから話そうかな。いざ顔を見たら何から話したものか……」
ナナシノは、グラスの氷を琥珀色の液体の中で転がす。その渦の中へ、マスターがチェリーを一粒、ついでのようにぽとりと落とした。
ナナシノの指が、ぴたりと止まる。
「……マスター」
「何も言ってないよ」
「言ってるだろ、それは」
「ただオールド・ファッションドの仕上げを忘れていただけさ」
マスターはぱちりと片目を閉じた。
ナナシノは深く息を吐いた。
再び、短い沈黙が落ちる。
「……ごめんね。君の良きライバルの『白藤玲ちゃん』は、存在しないんだ」
ナナシノはウイスキーをぐいと呷った。
「俺にも躊躇いがずっとあって……女性向け企業のトップが男で良いのかって。実際、君だって俺のことを女だと思い込んでいただろう?」
「名前のせいでね。冷静に考えれば、シラフジの会長も社長も男性なのに、どうしてそんな思い込みをしてたのかしら。もしかして、そういう印象操作をしていた?」
ナナシノは――白藤玲は答えない。
「ねえ、『名前は親から贈られる最初の呪い』って言っていたけど、もしかして貴方自身のことも言っていたの?」
「……ああ」
彼は遠い目をした。
「小学生の頃にね、この名前のせいで……いや、家業のせいもあったのかな。『オカマ』だの『スケベ』だのと散々言われてね。二次性徴を迎える頃には、特に女子からの視線が痛かった」
彼は次の言葉を探すように、投げ入れられたチェリーの茎をつまんだ。
「その視線で気づいたんだ。ああ、女の子たちは、自分の体に直接触れるものを、男が作るのは、嫌なんだって。工場で大量生産するもので、俺が直接作るわけでなくても、嫌なのは理屈じゃないんだなって」
「……勝手ね」
思っていたよりも、低い声が出た。
私は、もはや何に怒っているのか、何重にも重なっている。彼のトラウマの原因なのか、そうさせた社会の偏見なのか、あるいは目の前のこの男自身に、なのか。とにかく自分のはらわたが煮えくり返っているのを感じた。
「女だからと表舞台に立つことを許されなかった私の前で。男であることを理由に、逃げるだなんて」
「……耳が痛いね」
「ただの臆病者だったなら、私だってその程度の男だったと、切り捨ててやるわよ。でも、貴方は」
いい加減に仕事をしていたのではないと、身をもって知っている。
今日の展示会でも、今だって、見えないところで私を支えているのは、この男の仕事の結晶。
「誰よりもひたむきに仕事に取り組んでいたんじゃないの。熱心に研究もしていたんじゃないの。でなければ、服の上から見た私の体型や姿勢だけで、ぴったりな商品を薦められるわけがないじゃない」
真っ赤なカクテルをぐいと飲む。
「表に立ちなさいよ、白藤玲。自分こそが、このブランドの次世代を牽引するのだと胸を張りなさいよ。貴方はそれに見合うだけの能力があるのに、逃げ続けるだなんて許さない!」
最後のあたりは、もう自分でも何を言ってるのか分からなかった。
ただ、ライバルだと思っていた存在が、臆病者の男だということだけは認められなかった。
彼は一瞬だけ目を見開き、そして笑ったのか泣いているのか曖昧な顔をした。
「……熱烈な告白だな」
茶化すような声だった。けれど、その表情には軽さは少しも見当たらない。
やがて、彼はチェリーを口に放り込んだ。
「クイーンにそこまで言わせておいて、このままでは男が廃るな……仰せのままに、女王様。次はもっと良い仕事をしてみせますよ」
気取った物言いに戻った彼は、不敵に笑ってみせた。




