第五話 (三)
(三)
エルムグレンの視察を終えて数日後には、アルフレッドの執務室にアイリス専用エリアが設けられた。
書斎にあったものよりも広い机と座り心地のよい椅子はもちろん、ペンやインク壺、封蝋や印璽、ガスランプも揃っている。
視線を遮るパーティションには花鳥風月の刺繍が施されている。
この間仕切りを置くのに、アイリスの姿が見えなくなるのでは意味がないと、アルフレッドは渋い顔をした。最終的に首を縦に振ってくれたが、定期的に一緒に休憩を取るのが約束となった。
執事であるサイモンの話では、アルフレッドも集中すると時間を忘れて仕事に没頭してしまうことがあるというので、同じような傾向のあるアイリスともども「息抜きの時間は必要です」との助言を受けたからだ。
暖炉の前に置かれたソファセットで、アルフレッドとアイリスは休憩を取っているところだ。
給仕の使用人たちも下がらせ、部屋にはふたりきりという状況になっている。
「アイリス、ここでの生活で何か不便なことはないか」
隣に座るアルフレッドが、顔を覗き込むようにして問いかけてくる。
「まさか、とても良くしていただいています」
実家である伯爵家にいたころとは比べ物にならないほどの厚遇に、まだまだ慣れないこともある。
仕事の量は増えているはずなのに、自分の自由にできる時間も増えているのが不思議なほどだ。
「遠慮しなくていいんだぞ」
「遠慮なんて。本当に、十分すぎるほどですから」
「……それならいいんだが」
そう呟くアルフレッドの目元にある傷跡に、そっと手を伸ばす。
ほんの僅かな窪みを指先に感じる。こういった小傷は、実はアルフレッドの体──腕、背中、腰、太腿──には幾つもついている。
一騎当千と言われるアルフレッドも、さすがに戦場では無傷ではいられないのだろうと思うと、胸が締め付けられる。
初めてリンドの森で出会ったときも、アルフレッドは腕に傷を負っていた。
あの森は魔獣はもちろん、野生の獣の出没も頻繁ではない。逼迫した状況ではなかったはずだが、なぜだろう。
国の英雄とも言われるほどの軍人が、なぜ。
「閣下、リンドの森でお怪我をされていましたよね」
「ん、ああ、あのときか」
「あの大きな猪のせいではないとおっしゃっていましたが、ほかにもまだ獣がいたということですか」
「ああ、餌を取り合う魔獣三匹に気づかれてな」
「魔獣がいたのですか?」
あの美しい森にも魔獣が、しかも軽装備のアイリスでさえ行けるほどの場所にまで近づいてきていたということに、背筋が寒くなる。
「殲滅したから心配はない」
それを聞いてホッとはするが、不安が完全に払拭されることはなかった。そのことが顔に出ていたのだろう、アルフレッドの大きな手がアイリスの頬を撫でる。
「俺たちはアイゼンガルドの地に出没する魔物の質が変わったことを調査していたんだ。近郊の森や山脈から魔力が流れ込んでいることまでは分かったんだが、最近は魔獣たちの動向が以前よりも落ち着いていると報告を受けている」
「そんなことがあるのですね」
「ああ、不思議なことにな。引き続き調査はしている。何かわかればそなたにも共有しよう」
肩を抱き寄せられ、アイリスは素直に身を預けた。アルフレッドの声も体温も、心を落ち着けてくれる。
自分の力で生きていけるようにと幼いころから仕立ての腕を磨いていたけれど、こんな風に寄りかかれる相手に巡り合ったのは本当に幸運だったとしか言いようがない。
ふと、エルムグレンで出会ったルカとデイジーの顔が頭をよぎる。
寒空の下、二人はまともな防寒着すら身につけていなかった。あの子たちを思えば、リンドヴァルドでの日々はまだ恵まれていたのかもしれない。そしてこの地にアルフレッドの妻として迎えられてからは、以前の自分では考えられなかったほど幸せに包まれている。
だけど、だからこそ、ただ幸せに浸っているだけではいけない。今はアイゼンガルドの領民を守るのがアイリスの仕事だ。
できる限りのことをしなくては。
アルフレッドの腕の中で、アイリスはぎゅっと目を閉じ、こぶしを握り締めた。
***
それから数日、昼間は執務にかかりきりになりながらも、時間を見つけては繕い物に精を出していた。
アルフレッドの採寸をしたら、仕立て用に専用の部屋を用意してもらえることになった。もちろん最初は断ったのだが、広さはあれどドレスルームでは作業するには手狭だし、かといって書斎に大きな作業テーブルを置くのも憚られた。
ニコニコと人懐っこい笑顔を見せるアルフレッドの圧に、今回も負けてしまった。だけど正直、手芸に没頭できるアトリエを持つのは、密かな憧れでもあった。
採光の良い部屋で、休憩がてらお茶を飲めるテーブルセットもある。
シャツ一枚を仕立てるだけにしてはいつもより時間がかかってしまったが、襟部分には図案集から選んだ刺繍も入れてあり、ついにできあがりとなった。
「わぁ、素敵ですね。仕立ても丁寧ですし、何より奥様の刺繍の腕は帝国一です! 旦那様もきっと喜ばれます」
お茶を淹れていたアンナが手を止め、惜しみなく称賛してくれて面映ゆい。贔屓目はあるだろうけれど、せっかくアルフレッドのために作った第一号なので、素直に受け取ることにした。日頃の感謝も込めてきれいに包装して渡そう。そう決めるだけで、少しだけワクワクした。
日は傾き、太陽はすでに山影に隠れている。橙と群青が混ざりあう空を見上げ、ぐっと伸びをする。
「奥様、今夜も雪見露天風呂に行かれますか」
「ええ、そうするわ」
アンナの問いかけに笑顔で答える。視察の日のアンナの笑顔を見習って、もう少し練習しようと思ったのだ。
怖く見えるのは背の高さのせいだけではないようだから。
アイリスは内心でそんなことを考えていた。
露天風呂から部屋に戻り、アンナに身支度を整えられている間、アイリスはマーサと来週に迫った救護院の視察について話し合っていた。
十分な数の外套や靴、手袋といった防寒着の準備を指示し、それとは別にウールの反物も数本用意してもらう。
「鋏や針もお願いね。扱いには注意してちょうだい」
「かしこまりました」
「さ、奥様。髪も乾きましたし準備は整いましたよ」
マーサに続き、アンナが明るい声を出す。アイリスはその声にうなずいて腰を上げる。テーブルには包装したアルフレッドのシャツが置いてある。
寝る前に渡すのはどうかとも思うが、できあがった当日に渡したいという気持ちが湧いてきたのだ。
アルフレッドは要請を受けて魔獣の討伐に出ていたが、まもなく戻ってくるとサイモンから報せがあった。出迎えの準備を済ませてその時を待つばかりだ。
(怪我をしていなければいいのだけど……)
どうもアルフレッドは小さな傷に頓着しない傾向がある。彼の中では擦り傷程度は怪我のうちには入らないらしい。
寝室の暖炉の前で逸る心を抑え、だけど指先を忙しなくすり合わせてアルフレッドの帰還を待つ。
本当は玄関ホールまで迎えに行きたいけれど、日が暮れてからの迎えは無用だとアルフレッドから止められている。
「アイリス」
ドアが開くと同時に、人懐っこい笑顔が見えた。髪が少し濡れているところを見ると、すでに入浴を済ませたらしい。アイリスはほっと胸を撫でおろしてアルフレッドを迎えた。
「おかえりなさい、閣下」
「遅くなってすまない」
寝支度を済ませているアイリスを見下ろしながら、長い黒髪に指を絡めて口づける。そのまま唇も軽く触れ合わせるのがいつもの流れだ。
「……閣下にお渡ししたいものがあるのです」
「うん?」
暖炉前のソファに並んで座り、包みを渡す。数度まばたきを繰り返したアルフレッドが、おもむろに包装を解き始める。
紺青色のシャツに、襟元はアルフレッドが希望した藤色の糸で刺繍を施してある。
大きな手でそっと壊れ物のように持ち上げたまま、アルフレッドは何も言葉を発さない。
「あの、閣下……」
「あ、ああ。アイリスの腕がこれほどとは……すばらしい贈り物だ。ありがとう」
そう言うと、アルフレッドは再び手の中のシャツに目を落とし、指先で刺繍を撫でている。
「よければ、合わせてみてください。着ていて違和感があれば直します」
アイリスが促すと、アルフレッドはシャツのボタンに手をかけた。目の前で着替えるらしいと分かり、アイリスは慌てて暖炉の薪へと視線を泳がせる。が、それより寸の間早く、アルフレッドの腕に傷跡を見つけた。昨日の夜にはなかったもので、新しい傷だということが分かる。
「閣下、その傷は?」
「あ……これは別にたいしたものでは」
アイリスが半眼でじとーっと見つめると、少しばつが悪そうな表情でアルフレッドが視線を逸らす。
ひとつため息をついて、中途半端に脱ぎかけのシャツをはぎとって検分する。
こんな時のアイリスは、アルフレッドに有無を言わさないだけの迫力があった。
やはり洗った程度で手当てをした形跡がない。アイリスは黙って傷口に手をかざすと、手のひらに魔力を集中させる。淡い光がアルフレッドの傷を覆い、癒していく。
毎朝の祈祷が魔法の鍛錬になっているのか、リンドヴァルドにいたころよりも聖魔法の扱いに慣れてきたのを実感する。以前はわずかな魔力ながらあちこちに垂れ流すように漏れ出ていたものが、的を絞って当てられるようになっているのだ。
「そなたの魔力は気持ちがいいな」
治療の間、アルフレッドはアイリスの肩口へ頭を預けている。ほんのわずかな時間でもそんなスキンシップを仕掛けてくるので、照れくさいのは相変わらずでも、ずいぶんと耐性が付いてきた。
「またそんなことを。怪我のないようにとお願いしたではありませんか」
「こんなのは怪我のうちには入らんぞ」
すっかり癒えた箇所を眺めながら、反対の腕でアイリスをしっかりと抱き寄せている。
「もし私でもどうしようもない怪我をされたらどうするおつもりですか」
体力を削って血を止める程度しかできなかった魔法も、今では完治させられるまでになっている。だがそれも今回のような切り傷程度の話で、これより深い傷であればどうなのか、アイリス自身にも分からない。
ぐっと唇を噛みしめてアルフレッドから目を逸らせた。
「アイリス、不安にさせるつもりはなかったんだ。これからは気を付けるから機嫌を直してくれ」
アルフレッドはアイリスを抱き寄せ、髪にキスを落とした。目の前には裸の胸筋がある。何度も夜を過ごしているとはいえ、それとこれとは話が別だ。
アイリスは一気に頬が熱くなるのを感じ、アルフレッドの膝の上から紺青色のシャツを奪い取るようにして彼の目の前にかざした。
「わ、分かりましたから服を着てください」
アルフレッドはフッと笑って立ち上がると、新しい一着に袖を通す。柔らかく、それでいて少し張りのある生地で作られたそれは、アルフレッドの体に沿うように馴染んでいる。
「わぁ……、その色もお似合いです、閣下」
黒はもちろんアルフレッドに似合っていたが、青もまったく違和感がない。体格が良く着るものが映えるので、白やグレーはもちろん、赤や緑といったほかの色も着てみてほしくなってきた。
シャツに合わせてベストも作れば、執務のときでも使ってもらえるだろうか。
アイリスは上から下までじろじろと見つめてしまっているのにも気づかず、今後は何を作ろうかという思いでいっぱいになっていた。
ひとしきり観察が終わってからやっと、アルフレッドに見つめられていることに気がついた。
「あっ……どこか違和感などはありませんか」
「いや。とても着心地がいい。そなたの腕はやはり本物だな」
アルフレッドは上機嫌に笑った。その笑顔に、アイリスは胸がいっぱいになった。
万が一家門が取りつぶしになっても生きていけるようにと家族には内緒で腕を磨いてきた甲斐があったようだ。
「ほかの色でも仕立てていいですか」
「もちろんだ。そなたに負担がなければ任せよう」
「ありがとうございます……!」
アイゼンガルドに来てからは以前ほど服を仕立てる時間は持てていないが、これからは少しずつアルフレッドの服を作ろう。もちろん、ミセス・マイヤーの商売を邪魔しない程度に、だが。
今後に胸を躍らせていたアイリスが、いつの間にかアルフレッドに組み敷かれているのに気づくまでは、あと少し。
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