第4話 すれ違う運命、あるいは絶望の序章
深層の闇を、二つの足音が響く。
一つは、確固たる自信と圧倒的な力に裏打ちされた、迷いのない足取り。もう一つは、その隣を慎ましやかに、しかし絶対の信頼を寄せて歩む軽やかな足取りだ。
俺、アレンと、第二王女シルヴィアは、第九十九層の回廊を地上へ向けて逆走していた。
「アレン様、先ほどの魔法……『浄化』でしょうか? まるで太陽の光を間近で見たような、神々しい輝きでした」
シルヴィアが、少し上気した顔で俺を見上げてくる。
先ほどのデス・ロード戦の後、俺は彼女にかけられていた呪いと疲労を、最上級の回復魔法で癒していた。ボロボロだった彼女の白銀の鎧も、俺の『修復』スキルで新品同様――いや、俺の魔力が付与されたことで、以前よりも数段階上の性能へと昇華されている。
「ただの基礎魔法だよ。魔力の出力を少し調整しただけだ」
「あれで……基礎、ですか? 宮廷魔導師団が束になっても、あのような芸当は不可能ですわ」
シルヴィアは目を丸くし、それからくすりと笑った。
「ふふっ。アレン様にとっては、常識という言葉の方が非常識なのかもしれませんね」
「買い被りすぎだ。俺は少し前まで、ただの荷物持ちだったんだから」
「いいえ。貴方様こそが、真の勇者……いえ、それ以上の存在です。私の命だけでなく、誇りまで救ってくださったのですから」
彼女の瞳は、宝石のアメジストよりも澄んでいて、真っ直ぐに俺を映している。そこには、かつてレオンたちが向けてきたような侮蔑の色は微塵もない。
不思議な感覚だった。
ほんの数時間前まで、俺は世界で一番無価値な人間だと思わされていた。けれど今は、一国の王女から尊敬の眼差しを向けられている。
(……力、か)
結局のところ、この世界は力が全てなのかもしれない。
だが、シルヴィアの言葉には、力への媚びへつらいではなく、人間としての温かみがあった。それが、凍り付いていた俺の心を少しずつ溶かしていくような気がした。
「地上に出たら、父上……国王陛下に紹介させてください。きっと、国を挙げてアレン様を歓迎いたします」
「それはどうかな。俺は『栄光の剣』を追放された身だぞ? ギルドのブラックリストに載っているかもしれない」
「そんなこと、私がさせません! それに、あのような……人を見る目のない愚か者たちの評価など、何の意味もありませんわ」
シルヴィアが語気を強めて言った時だった。
前方の闇から、何かが争うような、あるいは悲鳴のような音が聞こえてきた。
「ひぃっ、く、来るな……!」
「嫌ぁぁ! 私の服が、肌がぁぁ!」
「魔力が……なぜ回復しないんだ……!」
聞き覚えのある声。
いや、忘れるはずもない声だ。
俺は足を止めた。
シルヴィアもそれに気づき、表情を険しくして剣の柄に手をかける。
「魔物でしょうか? それにしては、人の声が……」
「ああ。知っている声だ」
俺は短く答え、歩調を緩めずに進んだ。
角を曲がった先、かつて俺が追放を言い渡された広間の入り口付近。
そこには、地獄絵図が広がっていた。
「うわぁぁぁぁッ! 助けてくれぇぇ!」
勇者レオンが、地面を這いずり回っていた。
かつて黄金に輝いていた鎧は、スライムの酸で溶かされ、見る影もなく変色している。自慢の金髪は泥と汚物にまみれ、顔面は恐怖で引きつり、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
彼が手にしているのは聖剣エクスカリバー……ではなく、どこかで拾ったような折れた鉄の棒だった。聖剣は重すぎて持てず、捨てたのだろう。
「きゃあぁッ! 寄らないで! 臭い! 汚い!」
聖女ソフィアは、数匹の巨大ネズミ(ジャイアント・ラット)に囲まれていた。
純白だった法衣はビリビリに破かれ、白い肌があちこち露出している。以前なら防御結界で弾き返していたはずのネズミの噛みつき攻撃を、生身で受けて悲鳴を上げている。彼女の自慢だった美貌は、恐怖と疲労で老婆のようにやつれ果てていた。
「くそっ、くそっ! なぜだ、なぜ俺の魔法が発動しない! 『火炎球』! 『火炎球』ッ!!」
魔導師ベルンは、杖を振り回しながら必死に呪文を唱えていた。
だが、杖の先からはマッチの火ほどの炎が出るだけで、迫りくるコウモリ型の魔物を追い払うことさえできていない。彼のプライドそのものだった知的な表情は崩壊し、狂人のような形相で虚空を睨んでいる。
Sランクダンジョンの深層において、彼らが相手にしているのは、本来なら「雑魚」に分類される魔物たちだ。
だが、ステータスが初期値以下まで暴落した今の彼らにとって、それは絶望的な「死の軍勢」に他ならなかった。
「……酷い有様だな」
俺の口から、自然と感想が漏れた。
同情はない。
ただ、あまりにも無様すぎて、怒りすら湧いてこない。
俺の声に気づいたのか、レオンが弾かれたように顔を上げた。
「あ……?」
彼の濁った瞳が、俺を捉える。
そして、その隣に立つ、凛とした美しい女騎士――シルヴィアの姿を認める。
一瞬、彼は幻覚を見ているような顔をした。だが、俺が纏っている清潔な服と、余裕のある佇まいを見て、それが現実であることを認識したようだ。
「ア、アレン……? お前、アレンなのか……?」
レオンの声は震えていた。
俺は無言で見下ろす。
「い、生きて……生きていたのか!?」
「ああ。残念だったな、野垂れ死んでいなくて」
俺が冷たく返すと、レオンの顔に、みるみるうちに希望の色が差した。
それは友情や安堵ではない。「助かるかもしれない」という、自分本位な欲望の色だ。
「アレン! よかった、本当に心配していたんだ! 俺たちは、お前を探して……そう、探してここに戻ってきたんだよ!」
「は?」
あまりの白々しさに、俺は呆れを通り越して笑いそうになった。
ついさっき、「ゴミ虫」「死んで役に立て」と罵って去っていったのは誰だったか。
「そうですよね、レオン様! 私たち、アレンさんが心配で、心配で……!」
ソフィアもネズミを振り払い、媚びるような笑みを浮かべて這い寄ってきた。その笑顔は引きつり、恐怖で目が泳いでいる。
「アレン、お前も無事でよかった。さあ、早く俺たちを助けろ。魔法でこの薄汚い魔物どもを消し飛ばすんだ。仲間だろう?」
ベルンまでもが、尊大な態度を崩さずに命令口調で言ってくる。
こいつらは、まだ理解していないのか。
自分たちが置かれている状況と、俺との絶望的な立場の差を。
「……仲間?」
俺は眉をひそめて問い返した。
「誰がだ? 俺はもう、お前たちのパーティじゃない。追放されたんだろ? 『君のせいで平均値が下がる』って理由でな」
俺の言葉に、三人の顔が凍りついた。
「そ、それは……言葉の綾だ! ちょっとした冗談じゃないか!」
「そうよ、アレンさん。私たちは家族みたいなものですもの、喧嘩することだってありますわ」
必死に取り繕う彼らの姿が、あまりにも滑稽だった。
その時、俺の隣で静観していたシルヴィアが一歩前に出た。
「……醜いですね」
氷点下の声だった。
彼女は蔑みの視線を三人に向け、吐き捨てるように言った。
「貴方たちが『栄光の剣』の勇者パーティですか? 噂には聞いていましたが……百聞は一見に如かず。これほどまでに浅ましく、腐りきった性根の持ち主たちだったとは」
「な、なんだと貴様! 俺たちは勇者だぞ! 不敬だぞ!」
レオンが吠えるが、シルヴィアは鼻で笑った。
「勇者? 今の貴方たちのどこに、勇者の欠片があるというのです? 自分の無力さを棚に上げ、追放した相手に媚びへつらい、命乞いをする……。その姿は、道端の野良犬以下です」
「貴様ぁぁッ! 王女だか何だか知らないが、俺を誰だと思ってる!」
逆上したレオンが、折れた鉄の棒を振り上げ、シルヴィアに襲いかかろうとした。
腐っても元勇者。その殺気は、一般人なら竦み上がるものかもしれない。
だが。
「うるさい」
俺は、一歩も動かずに『威圧』のスキルを放った。
物理的な衝撃波に近い、濃密な殺気。
ドォンッ!!
「ぐえっ!?」
見えない巨大な手で押し潰されたように、レオンが地面に叩きつけられた。
顔面が岩盤にめり込み、蛙のような潰れた声を上げる。
「レ、レオン様!?」
「な、なんだ今の圧力は……!? 身体が、動かない……!」
ソフィアとベルンも、その場に縫い止められたように動けなくなる。
俺はゆっくりと、地面に這いつくばるレオンの頭の横にしゃがみ込んだ。
「教えてやるよ、レオン。お前たちがなぜ弱くなったのか」
「ぐ、ぐぅ……あ、アレン……お前、何を……」
「俺のスキル【一蓮托生】。あれはな、パーティの平均値を上げるスキルじゃない。俺のステータスを、お前たちに『貸し与える』スキルだったんだ」
「……は?」
レオンが目を見開く。ソフィアとベルンも、息を呑んでこちらを見た。
「俺が本来持っていた力を、お前たちの空っぽの器に注いでいたんだよ。だから俺はずっとレベル1のままだったし、お前たちは努力もしないで最強になれた」
「う、嘘だ……。そんなの、デタラメだ……!」
「デタラメかどうかは、今の自分の姿を見ればわかるだろ? お前たちの実力は、それが全てだ。俺がいなくなった瞬間、メッキが剥がれたんだよ」
事実を突きつけられた彼らの顔色が、青を通り越して土気色に変わっていく。
信じたくない。だが、否定できない。
急激な弱体化の理由が、それ以外に見つからないからだ。
「じ、じゃあ……俺たちの強さは、全部お前の……?」
「ああ、そうだよ。全部、俺のおこぼれだ」
俺は立ち上がり、彼らを見下ろした。
「返して……」
ソフィアが、掠れた声で呟いた。
「返してよぉ! 私の美貌を! 魔力を! アレンさんの力がないと、私、ただのおばさんになっちゃう!」
「頼むアレン! 戻ってきてくれ! パーティに入れろ! いや、俺がお前のパーティに入る! 荷物持ちでも靴磨きでも何でもするから、あの力をもう一度俺にくれぇぇッ!」
ベルンが地面に頭を擦りつけて懇願する。
「俺が悪かった! アレン、お前がリーダーでいい! 報酬も全部やる! だから見捨てないでくれ! このままだと殺されるんだ!」
レオンもまた、涙と鼻水を垂れ流しながら俺の足に縋り付こうとした。
その手は泥だらけで、震えていた。
かつて俺が憧れた、輝ける勇者の手。
それが今、こんなにも薄汚く、惨めに見えるなんて。
俺の中にあった最後の未練が、音を立てて崩れ去った。
怒りも、悲しみも、もうない。
あるのは、ただの「無関心」だけだ。
「悪いが、お断りだ」
俺は冷徹に告げた。
レオンの手を、汚いものを払うように足で避ける。
「俺はもう、誰かのために生きるのはやめたんだ。お前たちは、自分たちの足で歩け。まあ、レベル1じゃ、ここから一歩も動けないだろうけどな」
「そ、そんな……アレン、友達だろ……?」
「友達?」
俺は鼻で笑った。
「友達なら、追放なんてしない。身ぐるみ剥がして置き去りになんてしない。お前らが切り捨てたんだろ? 『絆』も、『情』も」
俺はシルヴィアに目配せをし、出口の方へと歩き出した。
「ま、待ってくれアレン! 行かないでくれ!」
「嫌ぁぁ! 私を置いていかないで!」
「死にたくない! 死にたくないよぉッ!」
背後から絶叫が聞こえる。
だが、俺は一度も振り返らなかった。
シルヴィアもまた、彼らに冷ややかな一瞥をくれただけで、俺の隣に並んだ。
「アレン様、慈悲深いのですね」
「慈悲?」
「はい。彼らをその場で斬り捨てず、生かしておいたのですから」
「……殺す価値もないだけさ。それに、生きて自分の無力さを噛み締める方が、死ぬより辛いこともある」
そう、これは復讐ではない。
ただの「選別」だ。
俺は彼らを捨て、彼らは世界から捨てられた。それだけの話だ。
俺たちは広間を出て、上層への階段を登り始めた。
背後では、俺の『威圧』が消えたことで再び動き出した魔物たちの咆哮と、それに重なる三人の断末魔のような悲鳴が、いつまでも、いつまでも響いていた。
「助けてくれぇぇぇぇッ!!」
「アレンンンンンンッ!!」
その声が途絶える頃、俺たちは光溢れる地上の出口へと足をかけていた。
まばゆい太陽の光が、俺の視界を白く染める。
長い、長い夜が明けたのだ。
隣には、信頼できるパートナーがいる。
体には、無限の力が満ちている。
「行きましょう、アレン様。新しい伝説の始まりです」
シルヴィアが微笑み、俺の手を取った。
俺はその手を握り返し、澄み渡る青空を見上げた。
「ああ。行こう」
俺たちの冒険は、ここから始まる。
あの暗い穴の底で蠢く、かつての仲間たちのことなど、もう二度と思い出すことはないだろう。




