第1部(1)オオカミから生まれた新しい命
これは、江戸時代初期の上野国(現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の国境にある山林に囲まれている場所の出来事です。その場所は切り立った岩場からの落石が多くて山道を通ることすらままならない上に、クマやイノシシといったどう猛な動物も多く出没するところです。それは、まるで人間が立ち入ることを許さないと言わんばかりのメッセージが込められているような雰囲気です。
深い森の中に一瞬開けた場所にあるのが、高い絶壁から大量の水が勢いよく流れ落ちる大きな滝です。その落差は約15尺(約45m)もあり、大きな滝から流れ落ちた滝つぼは、底のところまで見える透明感のある小さな湖と言っても差し支えないほどの大きさです。
そんな険しい山奥にある森の中で、間もなく元気な男の子が生まれようとします。しかし、それはオオカミの子供でありながら、同時に人間の子供でもあるという稀有な存在なのです。
ある秋の夕暮れ時のことです。山奥の深い森の中に、2匹のオオカミが辺りを見渡しながら移動していました。そこは、昼間でもわずかな木もれ陽が入る程度の薄暗いところです。オオカミが行動するときは、基本的に夫婦がペアを組んで獲物を探したりしています。
よく見ると、片方のオオカミのお腹がかなり大きくなっています。お腹の中には、もうすぐ生まれる新しい命が宿っています。
「うっ、ううううっ、ハヤゾウさん、もうすぐ生まれそう…」
「大丈夫か、ミキエ? もうすぐしたら巣穴が見つかるからそれまで辛抱してな」
ミキエは、陣痛が始まり、いまにも赤ちゃんが生まれそうです。これを見たハヤゾウは、近くに巣穴となりそうなところを必死に探しています。
日が暮れて辺りがすっかりと暗くなると、オオカミの巣穴を探すにも一苦労します。しかし、このときに役立つのが非常に優れている嗅覚です。
ハヤゾウは、地面をできる限り隅々まで自分の鼻でにおいをかぎました。すると、何かを見つけたのか、ハヤゾウは駆け足で走り出しました。ミキエも、その後ろをついて行きますが、お腹にいる赤ちゃんの重さでなかなか進むことができません。それでも、ミキエはお腹にいる新たな命を守りながら、少しずつ進み続けています。
「ミキエ! ミキエ! 巣穴までもう少しの辛抱だぞ!」
「うううっ、ううううっ、ハヤゾウさんがいるところへ行けば…」
森の奥にある丘の斜面に大きな巣穴を見つけたハヤゾウは、ミキエがくるのを待っているところです。そこへ、ゆっくりと歩を進めているミキエの姿が見えてきました。ミキエは、お腹の赤ちゃんを守りながら必死になって歩いています。陣痛が続いているミキエの顔つきは、極めて険しい顔つきとなっています。
「ううううっ、うううう~んっ!」
「ミキエ、がんばれ! 巣穴までもうちょっとだ!」
ミキエは、いきみ声を上げながらも、必死に丘の斜面を一歩ずつ歩いています。ハヤゾウも、巣穴の前で待ちながらミキエを励ましています。
丘の斜面から見える夜空には、大きな満月が見えます。夜空に浮かぶ満月から照らされるわずかな光は、間もなく生まれる新しい命を心待ちにしているようなやさしい光のように感じられます。
「うううううっ、もう生まれそう!」
「ミキエ、巣穴までよく辛抱することができたな! もうすぐ赤ちゃんが生まれることだし、すぐに巣穴に入ろうか」
ミキエは、激しい陣痛で顔をゆがめながらも、どうにか巣穴のところまでたどりつきました。これを見たハヤゾウは、自分の力で巣穴までやってきたミキエに愛情を持って接しました。そして、ハヤゾウとミキエは、そろって巣穴の中へ入って行きました。
「うううううっ、ううううううう~ん」
「ミキエ、あと少しで赤ちゃんが生まれるぞ! がんばれ!」
巣穴に入ると、ミキエはホッとしたのもつかの間、一層激しい陣痛でいきみ声を振り絞りながら上げています。ハヤゾウは、ミキエのお腹から赤ちゃんが動いているのを見て、あと少しで生まれるからがんばれと励まし続けました。
「ううううううううっ! うううううう~んんっ!」
ミキエは、ハヤゾウからの励ましを受けていきみ声を振り絞り続けました。そのいきみ声は、森の中にいる動物たちにもはっきりと分かる大きな声です。そして、夜空の満月がやさしく見守る中、丘の巣穴からついに元気な泣き声が聞こえてきました。
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
「ミキエ、元気な赤ちゃんが生まれたぞ! でも、これって人間だよね?」
「えっ、オオカミだからオオカミの赤ちゃんじゃないの?」
ハヤゾウは、元気な赤ちゃんの泣き声を聞いて、すぐにその赤ちゃんの姿を見ました。しかし、その赤ちゃんの姿はオオカミではなく、人間の姿だったのです。ミキエは、オオカミの赤ちゃんではないことにびっくりしている様子です。
「本当だ、わたしが生んだのは人間の赤ちゃんなのね。でも、手のひらと足だけは、まぎれもなくオオカミと同じなんだね」
ミキエは、自分が生んだ赤ちゃんが人間なのか確かめました。その赤ちゃんは、手のひらと足以外は人間の体つきですが、手のひらと足はオオカミそっくりです。
「でも、泣き声はまさしく元気いっぱいの男の子の赤ちゃんだね。わたしは、オオカミであっても人間であっても、子供がすくすくと育ってほしいと思うの」
「この赤ちゃんは、元気で強い男の子に成長する予感がするぞ。おれも、赤ちゃんの子育てを手伝ってあげるよ」
ミキエは、元気いっぱいの男の子の泣き声を上げている赤ちゃんを見ながら目を細めました。赤ちゃんがオオカミであろうと人間であろうと、すくすくと育ってほしいのがミキエの願いなのです。
それは、ハヤゾウもミキエと同じ考え方です。この赤ちゃんが、強くて元気な男の子に成長する予感をハヤゾウは感じています。
2匹がやさしく見守る中、赤ちゃんは2匹の前で元気なところを見せます。
「ジョジョジョ~、ジョパジョパ~、ジョバジョバジョバ~」
「おおっ、巣穴の天井に向かって見事なおしっこ噴水をしているぞ! すごいなあ!」
赤ちゃんは、おしっこを巣穴の天井に命中させたのです。巣穴の天井を見ると、そこにはおしっこでぬれたところがまるで満月のように真ん丸くなっています。これには、ハヤゾウもミキエも驚きを隠せない様子です。
「おしっこがいっぱい出ちゃったね。さあ、おっぱいを飲んでごらん」
「チュパチュパチュパ、チュパチュパチュパ」
ミキエは横になると、赤ちゃんの目の前にお腹にあるおっぱいを出しました。赤ちゃんは、すぐにミキエのおっぱいをチュパチュパとおいしく飲み始めました。おっぱいを飲んでいるときの赤ちゃんは、とても満足そうな顔つきになっています。
「ハヤゾウさん、この子がすくすくと成長した姿が楽しみだわ」
「おれも、この子が元気でたくましい男の子として成長してほしいな」
ハヤゾウもミキエも、ぐっすりと眠っている赤ちゃんを見ながら、元気でたくましい男の子として成長する姿を今から楽しみにしています。




