僕は日曜日に奈良に行く。
あの東京旅行から、数か月が過ぎた。
季節は秋から冬へと移り、気がつけば冬休みも終わっていた。
年が明け、学校では三学期が始まった。
冬休みが終わったということは、当然ながら学校が始まるということだ。
そして、三学期が始まって早々、僕には気の重い予定が待っていた。
実力テストである。
「……はぁ」
朝、家を出る前に、僕は小さくため息をついた。
別に、勉強が嫌いというわけではない。
いや、できることならテストは受けたくないけれど。
僕は勉強が特別得意というわけでもなければ、まったくできないというわけでもない。
得意な教科なら、それなりに点数は取れる。
反対に、苦手な教科では思ったように点数が伸びない。
そんな、ごく普通の中学生だ。
将来についても、まだ具体的に決めていることはない。
行きたい高校がはっきり決まっているわけでもないし、今から何か一つの目標に向かって突き進んでいるわけでもない。
ただ、好きなことはある。
鉄道に乗ること。
知らない町を歩くこと。
その土地ならではの景色を見たり、おいしいものを食べたりすること。
そして、自分で旅の計画を立てること。
数か月前、僕は初めて自分で計画した東京旅行に出かけた。
日曜日の朝、家を出て、新幹線に乗って東京へ向かった。
東京駅の赤レンガ駅舎を見上げ、山手線に乗り、浅草を歩き、横浜や鎌倉にも足を延ばした。
予定を立てていた場所もあったけれど、実際に行ってみると、想像していた以上に楽しいことがたくさんあった。
江ノ電の車窓から見た景色も、横浜で食べたシウマイも、帰りの寝台特急で過ごした時間も、今ではいい思い出だ。
あの旅行をきっかけに、僕は少しだけ考え方が変わった。
旅というのは、ただ遠くへ行けばいいというものでもないのかもしれない。
……まあ、そう思ったからといって、テストの点数が上がるわけではないのだけれど。
「そろそろ行くか」
僕は鞄を持ち、家を出た。
学校までは徒歩で約十分。
毎日通っている、見慣れた道だ。
冬の朝は寒い。
手をポケットに入れながら、僕は今日のテストのことを考えた。
国語は、まあ何とかなるだろう。
社会も、そこまで苦手ではない。
問題は数学と理科だ。
特に数学。
公式を覚えていても、少し問題の形を変えられると、途端に分からなくなることがある。
「……まあ、なるようになるか」
そんなことを考えているうちに、学校に着いた。
教室に入ると、すでに何人かのクラスメイトが席に座っていた。
「おはよー」
「おはよう」
いつもどおりの挨拶を交わし、自分の席に鞄を置く。
すると、前の席に座っていた友達が振り返った。
「今日、実力テストやんな」
「せやな」
「勉強した?」
「した……と言いたいところやけど、まあ、それなりに」
「それ、絶対あんまりしてないやつやん」
「いや、ちょっとはしたって!」
友達は笑った。
僕もつられて笑う。
こんな会話をしているけれど、テストが始まれば笑ってばかりもいられない。
やがてチャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。
「それでは、これから実力テストを始めます。机の上には筆記用具だけを出してください」
教室の空気が、少しだけ変わった。
さっきまで話していた生徒たちも、静かに前を向く。
問題用紙が配られた。
僕は名前を書き、最初の問題を見た。
国語。
漢字や文章読解は、思っていたよりも解きやすかった。
ただ、古文や文法の問題になると、少し手が止まる。
「これ、どうやったっけ……」
頭の中で習ったことを思い出しながら、何とか答えを埋めていった。
次は数学。
最初の方は解けた。
しかし、後半の応用問題になると、急に難しくなった。
式は立てられそうなのに、答えまでたどり着けない。
時間だけが過ぎていく。
「……あかん、次」
僕は一度その問題を飛ばし、ほかの問題に取りかかった。
英語は基本的な文法なら分かったものの、長文読解で苦戦した。
理科では計算問題を何とか解いたが、細かい知識を問われる問題に自信がない。
社会は歴史の問題が比較的解きやすかった。
それでも、地理の細かい知識や資料を読み取る問題では迷うことがあった。
こうして、長い一日が終わった。
「終わったぁ……」
最後のテストが終わり、僕は机に突っ伏した。
「数学、むずくなかった?」
友達が聞いてくる。
「むずかった。後ろの方、全然分からんかったわ」
「俺も。あれ解けるやつおるん?」
「知らん。おったら教えてほしい」
そんな会話をしながら、僕たちは帰る準備を始めた。
テストが終わったからといって、すぐに結果が分かるわけではない。
むしろ、答え合わせをするまでの時間が落ち着かない。
「まあ、終わったもんはしゃあないな」
そう言って、僕は鞄を肩にかけた。
数日後。
答案が返却された。
国語、八十二点。
数学、四十六点。
英語、六十三点。
理科、五十八点。
社会、七十九点。
合計、三百二十八点。
五百点満点だから、平均すると六十五点ほどだ。
「うーん……」
答案を見ながら、僕は少し考えた。
国語は悪くない。
社会も、もう少しで八十点だった。
一方で、数学はやっぱり厳しい。
理科も、思ったほど点数が伸びていない。
「まあ、こんなもんか……」
別に、ものすごく落ち込むほど悪い点数ではない。
けれど、満足できる結果かと言われれば、そうでもない。
「何点やった?」
隣の席の友達が聞いてきた。
「合計三百二十八点」
「おー、結構取れてるやん」
「数学が四十六点やけどな」
「俺も数学あかんかったわ。あの応用問題、何なん?」
「ほんまそれ」
僕たちは、数学の難しかった問題について話し始めた。
話しているうちに、友達がふと思い出したように言った。
「そういえば、お前、前に東京行ってきたって言うてたやん?」
「うん、行ったで」
「日帰りで東京行くとか、今考えてもすごいよな」
「まあ、結構楽しかったで」
「一番よかったのどこなん?」
「うーん……難しいな」
僕は少し考えた。
新幹線に乗った時間も楽しかったし、東京駅の駅舎を見たときもテンションが上がった。
山手線から眺めた街並みも、浅草の雰囲気もよかった。
横浜ではシウマイを食べたし、鎌倉では江ノ電にも乗った。
一つだけ選べと言われると、なかなか難しい。
「やっぱり、江ノ電かな。線路のすぐ近くに家があったり、海が見えたりして、普段乗ってる電車とは違う感じがしたわ」
「へえー、ええなあ」
「あと、帰りの寝台特急もよかったで」
「寝台特急まで乗ったん!?」
「せやで。寝てる間に移動できるの、なんかすごいやん」
「めっちゃ旅行してるやん(笑)」
友達は笑った。
僕も笑った。
あの旅行のことを話していると、またどこかへ行きたくなってくる。
ただ、東京旅行は楽しかったけれど、移動費もそれなりにかかった。
学生の僕にとって、旅行に使えるお金は限られている。
毎回、遠くまで出かけるわけにもいかない。
「次はどこ行くん?」
友達が聞いてきた。
「まだ決めてへんけど……次はもうちょっと近いところでもええかなって思ってる」
「近いところ?」
「うん。遠くまで行かんでも、楽しめる場所はあるやろ?」
友達は少し考えてから言った。
「まあ、確かに。近場でも行ったことない場所とかあるしな」
「そうそう」
その言葉を聞いて、僕は改めて考えた。
旅というと、どうしても遠くへ行くことを想像してしまう。
新幹線に乗って、何時間もかけて知らない土地へ向かう。
それはもちろん楽しい。
でも、家からそれほど遠くない場所にも、まだ知らない景色や町があるはずだ。
普段の生活では通り過ぎてしまう場所も、目的地として訪れれば違って見えるかもしれない。
そう考えると、次の旅行先を決めるのが少し楽しみになってきた。
家に帰った僕は、鞄を置いてからスマートフォンを手に取った。
地図を開き、近場で行ってみたい場所を探す。
大阪、京都、姫路。
行ったことのある場所もあるけれど、まだ歩いていない場所はたくさんある。
そして、地図を眺めているうちに、一つの場所が目に留まった。
奈良。
「……奈良か」
そういえば、小学校の校外学習で奈良に行ったことがある。
東大寺を見学して、奈良公園を歩いた。
大きな大仏を見上げたことも、鹿があちこちにいたことも、なんとなく覚えている。
もちろん、あのときも楽しかった。
でも、あれは学校の校外学習だった。
集合時間が決まっていて、みんなで一緒に行動して、先生の案内に沿って見学する。
それはそれで楽しいけれど、自分の行きたい場所を自分で選んで、好きなように町を歩いたわけではなかった。
「……もう一回、奈良に行ってみるのもありやな」
同じ場所でも、今度は違う楽しみ方ができるかもしれない。
小学校のときには気づかなかった景色や、気にならなかった場所にも目を向けてみたい。
前に行った場所だからこそ、昔とは違う見方ができるかもしれない。
それに、今回は自分で列車を選べる。
せっかくなら、近鉄特急に乗って奈良へ向かうのもいい。
特急列車に乗ると、普通列車とはまた違った旅の気分を味わえる。
座席に座って、車窓を眺めながら目的地へ向かう。
ただ移動するだけではなく、列車に乗っている時間そのものを楽しむ。
僕は、そういう時間が好きだ。
もちろん、特急料金がかかる。
学生の僕にとって、旅行に使えるお金は限られている。
だからこそ、どこにお金を使うかは大切だ。
食事に使うのか。
現地での体験に使うのか。
それとも、移動時間を楽しむために使うのか。
今回は、近鉄特急に乗ってみたい。
せっかく奈良へ行くのなら、目的地に着くまでの時間も旅の一部として楽しみたいからだ。
「よし……」
僕はスマートフォンのメモ帳を開いた。
行き先、奈良。
目的地、奈良公園、東大寺、それからまだ行ったことのない場所。
移動手段、阪神電車と近鉄。
そして、できれば近鉄特急。
まだ、細かい予定は決まっていない。
何時に出発するのか。
どの列車に乗るのか。
どこで昼食を食べるのか。
予算はいくら必要なのか。
これから調べなければならないことは、たくさんある。
でも、それが楽しい。
旅は、出発した瞬間から始まるわけではない。
地図を眺めて、行きたい場所を探して、列車を調べて、予算を計算する。
そんな準備の時間も、旅の一部なのだと思う。
東京へ行ったあの日、僕は遠くへ行く楽しさを知った。
そして今、身近な場所にも、まだ知らない楽しさがあることに気づき始めている。
遠くへ行くだけが、旅じゃない。
近くにある町だって、目的地にしてみれば、きっと新しい発見がある。
小学校の校外学習で行った奈良も、今の僕が自分で計画して訪れれば、きっと違う景色が見えるはずだ。
僕はメモ帳に書いた「奈良」という文字を見つめた。
まだ何も始まっていない。
けれど、次の旅はもう始まりかけている気がした。
「よし、次は奈良に行こう」
そう決めた僕は、さっそく近鉄特急について調べ始めた。
今度は、どんな景色に出会えるだろう。
どんな列車に乗れるだろう。
そして、小学校のときには気づかなかった、どんな発見が待っているだろう。
考えるだけで、少しわくわくしてきた。
金曜日。
6時間目の授業が終わり、僕は机の上の教科書類を片付けていた。
今週も長かったような、短かったような……。
心の中でそう思う。
明日は土曜日。そして、その次の日は日曜日。
日曜日。
そう、日曜日は奈良に行く日だ。
僕は鞄に教科書をしまいながら、頭の中で何度も日曜日の予定を思い浮かべる。
神戸三宮から阪神電車に乗って、大阪難波へ。
そこから、近鉄特急に乗る予定だ。
だが、ふと思った。
近鉄特急が三宮まで直通してくれればいいのに、と。
お正月には、伊勢神宮へ向かう臨時特急が三宮まで来ている。
「これが定期列車で来てくれればなぁ……」
そんな妄想をしながら、窓の外を見る。
「なぁ、さっきから何ニヤニヤしてんの?」
隣から声をかけられ、僕はびっくりして顔を上げた。
友達だった。
「え? 別になんとも……?」
「いや、絶対なんかあるやろ」
「いやぁ、日曜日にさ……奈良に行こうと思って……」
「また旅行かよ!」
予想どおりのツッコミが入った。
「てか、この前、東京行ったばっかりやん!」
「いや、東京行ったんはもう結構前やって」
「そうやっけ?」
友達は少し考えたあと、まあええわ、という感じで笑った。
「で、奈良で何するん?」
「東大寺とか奈良公園とか。あとは奈良の街でも歩こうかなって」
「なんか修学旅行みたいやな(笑)」
「記憶にないくらい小さい頃と、小学校のときに行ったことはあるで。でも、今回は自分で計画して行くから」
違う。修学旅行でも校外学習でもない。
自分で目的地を決め、自分で電車を調べ、自分のペースで歩く。
気になった場所があれば、少し寄り道してもいい。
そんな自由な旅をしてみたかった。
「まぁ、楽しんでこいや」
「おう!」
僕はそう答え、友達と別れて帰宅した。
家に着くと、まずは日曜日の予定をもう一度確認した。
スマートフォンで予約内容を開き、乗車する列車や座席をチェックする。
特急券。財布。ICOCA。スマートフォン。モバイルバッテリー。
忘れ物がないように、必要なものをメモにしていく。
旅行の準備をしている時間も、僕にとっては旅の一部だった。
まだ家も出ていないのに、頭の中ではすでに奈良へ向かっている。
ふと時計を見ると、22時だった。
ベッドにダイブし、天井を見ながら日曜日のことを考えているうちに、僕は眠ってしまった。
そして、土曜日。
僕は必要なものをカバンにまとめ、明日の朝に慌てないように準備を済ませた。
あとは寝坊しないこと。
それが一番大事だ。
日曜日の朝。
目覚まし時計が鳴る少し前に、僕は目を覚ました。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
今日は奈良に行く日だ。
そう思った瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。
僕はベッドから起き上がり、身支度を済ませ、軽めの朝食を食べる。
そのあと、忘れ物がないかもう一度確認する。
財布よし。
ICOCAよし。
スマートフォンよし。
カバンよし。
よし、出発だ。
外に出ると、朝の空気が少しひんやりしていた。
いつもと同じ道を歩いて駅へ向かう。
しかし、今日はいつもの外出とは違う。
これから電車を乗り継いで、奈良まで行くのだ。
駅に着き、ICOCAをタッチして改札を通る。
ホームで列車を待ちながら、僕はスマートフォンで時刻を確認する。
ちなみに、僕は神戸に住んでいる。
日本の中では、そこそこ栄えているところだ。
神戸三宮、8時12分発。
大阪難波、8時54分着。
乗車するのは、阪神・近鉄直通の快速急行だ。
やがて列車がホームに入ってきた。
ドアが開き、僕は車内に乗り込む。
やってきたのは阪神1000系。
全車ロングシートだ。
神戸三宮から大阪難波まで約40分。
「40分立ったままは、さすがにきついか?」
そう考えているうちに、どんどん席が埋まっていく。
結局、ロングシートは満席になってしまった。
まぁいいか……。
ドアが閉まり、列車はゆっくりと走り始めた。
いよいよ、奈良への旅が始まった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、日曜日に奈良へ行くことを決めた主人公のお話でした。
旅行というと、遠くの街へ行ったり、普段は見られない景色を見たりするイメージがあるかもしれません。
でも、旅行の楽しみはそれだけではありません。
どこへ行こうか考えたり、乗る電車を調べたり、当日を楽しみにしながら準備をしたり。
そんな時間も、旅の楽しみのひとつだと思います。
さて、次回はいよいよ奈良へ向かいます!
主人公はどんな旅をするのでしょうか。
次回も読んでいただけるとうれしいです!




