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三題噺  作者:
2025年8月
9/19

「喫茶店」「サッカーボール」「メガネ」

【その目に映るもの】


 昼下がりの商店街。古い喫茶店「カトレア」の扉を押すと、カランと鈴が鳴った。

 「いらっしゃい」

 カウンターの奥からマスターの声がする。髪は白いが背筋はまっすぐ、分厚いメガネの奥で目が笑っている。


 「マスター、アイスコーヒー」

 いつもの席に腰を下ろすと、足元にサッカーボールが転がってきた。

 「おっと」

 拾い上げると、続いて小学生くらいの男の子が飛び込んできた。

 「す、すみません!」

 額に汗をにじませ、ぜいぜい息を切らしている。


 「お前、ボールで店壊す気か」

 マスターが苦笑する。

 「ごめんなさい!でも、このボールだけは絶対なくしちゃいけないんです!」

 男の子は必死に頭を下げた。僕はボールを返しながら聞いた。

 「そんなに大事なボールなの?」

 「はい!これは、ぼくのお父さんが最後に蹴ったボールなんです!」


 その一言で、店の空気が変わった。

 「お父さん…?」

 「はい。サッカー選手だったんです。でも病気で……」

 子どもは言葉を飲み込み、代わりにボールを胸に抱えた。


 マスターが静かにコーヒーを置く。

 「坊主、そのボール、キズだらけだな」

 「はい。毎日蹴ってるから。でも、これがあると練習がんばれるんです」

 「ふむ。…だがな、ボールってのは、蹴られてこそボールだ」


 マスターはカウンター下から何かを取り出した。古びた革のサッカーボール。縫い目は擦り切れ、色は黄ばんでいる。

 「これ、俺のだ」

 「マスター、サッカーやってたの?」

 「昔な。中学のときな。メガネが割れて、それでやめちまった」

 「え、そんな理由で?」

 「当時はコンタクトなんて高くて買えなかったんだ。ボールよりメガネのレンズの方が高かった」

 そう言って、マスターは大笑いした。


 子どももつられて笑い、それから急に真顔になった。

 「でも、メガネのせいでサッカーやめちゃうなんて、もったいない!」

 「だろ? だから坊主、お前は絶対やめんなよ。お父さんが残したボールなんだ。壊れても磨いても、ずっと蹴り続けろ」

 マスターの声は不思議な迫力があった。


 子どもはうなずき、ボールを強く抱きしめた。

 「はい!絶対にプロになります!」


 その瞬間、店の外から母親の声がした。

 「陽太! 探したのよ!」

 ドアを開けて入ってきた女性が、慌てて息子を抱き寄せる。

 「すみません、この子がご迷惑を…」

 「いやいや、元気が一番ですよ」マスターは笑った。


 母親と共に帰ろうとする陽太は、振り返って僕に叫んだ。

 「お兄さん!今度、外で一緒にボール蹴りましょう!」

 「おう、約束だ!」


 鈴が鳴り、親子が出ていく。喫茶店に再び静けさが戻った。

 マスターはカウンターで眼鏡を外し、布で拭いた。

 「不思議な子だな。あんな目をした子、久しぶりに見た」

 「どんな目?」

 「負けたくない目だよ。ボールに、そして自分に」


 僕はコーヒーを飲み干した。冷たさが喉をすべり落ちる。窓の外では陽太が母親と並んで歩いている。その背中が、不思議と大きく見えた。


 ――数年後。


 地方大会のサッカー場。眩しい夏の日差しの下、ピッチを駆け回る選手の中に、見覚えのある姿があった。

 背番号10。あの時の少年だ。

 彼がゴールを決め、観客席に走り寄る。その瞳はあの日のまま、負けん気に燃えていた。


 ポケットの中には、マスターから譲り受けた古い革のボールの写真。

 僕は胸の奥でつぶやいた。

 「お前、約束守ったな」

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