「喫茶店」「サッカーボール」「メガネ」
【その目に映るもの】
昼下がりの商店街。古い喫茶店「カトレア」の扉を押すと、カランと鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥からマスターの声がする。髪は白いが背筋はまっすぐ、分厚いメガネの奥で目が笑っている。
「マスター、アイスコーヒー」
いつもの席に腰を下ろすと、足元にサッカーボールが転がってきた。
「おっと」
拾い上げると、続いて小学生くらいの男の子が飛び込んできた。
「す、すみません!」
額に汗をにじませ、ぜいぜい息を切らしている。
「お前、ボールで店壊す気か」
マスターが苦笑する。
「ごめんなさい!でも、このボールだけは絶対なくしちゃいけないんです!」
男の子は必死に頭を下げた。僕はボールを返しながら聞いた。
「そんなに大事なボールなの?」
「はい!これは、ぼくのお父さんが最後に蹴ったボールなんです!」
その一言で、店の空気が変わった。
「お父さん…?」
「はい。サッカー選手だったんです。でも病気で……」
子どもは言葉を飲み込み、代わりにボールを胸に抱えた。
マスターが静かにコーヒーを置く。
「坊主、そのボール、キズだらけだな」
「はい。毎日蹴ってるから。でも、これがあると練習がんばれるんです」
「ふむ。…だがな、ボールってのは、蹴られてこそボールだ」
マスターはカウンター下から何かを取り出した。古びた革のサッカーボール。縫い目は擦り切れ、色は黄ばんでいる。
「これ、俺のだ」
「マスター、サッカーやってたの?」
「昔な。中学のときな。メガネが割れて、それでやめちまった」
「え、そんな理由で?」
「当時はコンタクトなんて高くて買えなかったんだ。ボールよりメガネのレンズの方が高かった」
そう言って、マスターは大笑いした。
子どももつられて笑い、それから急に真顔になった。
「でも、メガネのせいでサッカーやめちゃうなんて、もったいない!」
「だろ? だから坊主、お前は絶対やめんなよ。お父さんが残したボールなんだ。壊れても磨いても、ずっと蹴り続けろ」
マスターの声は不思議な迫力があった。
子どもはうなずき、ボールを強く抱きしめた。
「はい!絶対にプロになります!」
その瞬間、店の外から母親の声がした。
「陽太! 探したのよ!」
ドアを開けて入ってきた女性が、慌てて息子を抱き寄せる。
「すみません、この子がご迷惑を…」
「いやいや、元気が一番ですよ」マスターは笑った。
母親と共に帰ろうとする陽太は、振り返って僕に叫んだ。
「お兄さん!今度、外で一緒にボール蹴りましょう!」
「おう、約束だ!」
鈴が鳴り、親子が出ていく。喫茶店に再び静けさが戻った。
マスターはカウンターで眼鏡を外し、布で拭いた。
「不思議な子だな。あんな目をした子、久しぶりに見た」
「どんな目?」
「負けたくない目だよ。ボールに、そして自分に」
僕はコーヒーを飲み干した。冷たさが喉をすべり落ちる。窓の外では陽太が母親と並んで歩いている。その背中が、不思議と大きく見えた。
――数年後。
地方大会のサッカー場。眩しい夏の日差しの下、ピッチを駆け回る選手の中に、見覚えのある姿があった。
背番号10。あの時の少年だ。
彼がゴールを決め、観客席に走り寄る。その瞳はあの日のまま、負けん気に燃えていた。
ポケットの中には、マスターから譲り受けた古い革のボールの写真。
僕は胸の奥でつぶやいた。
「お前、約束守ったな」