「苔むした山門」「盾」「踊る」
【踊れ】
苔むした山門は、梅雨明けの陽射しを浴びてじっとりと濡れていた。石段を登りきった先にそびえるその門は、かつて栄えた寺の名残だったが、今では訪れる者もなく、ただ時の重みをまとって静かに立っている。
佐伯祐真は、額の汗を拭いながら門を見上げた。三十五歳、会社員。都会の雑踏から逃げるように、この山奥にある小さな村へやって来た。理由はただ一つ、祖父の遺品整理を任されたからだ。
祖父はこの村の生まれで、戦後しばらくをここで過ごしたあと、都会へ出て職人となり、やがて亡くなった。祐真にとって祖父は、厳格で近寄りがたい存在だったが、なぜか遺言には「山門の奥にある蔵を整理せよ」と書かれていた。
苔むした山門をくぐった瞬間、空気が変わった。湿った匂いとともに、かすかに鉄の錆びついたような匂いが鼻をつく。境内の奥には崩れかけた堂と、板張りの小さな蔵が見えた。
祐真は蔵の扉を開け、中へ足を踏み入れた。埃が舞い、思わず咳き込む。棚には古びた道具や巻物、木箱が積まれている。その中に、異様な存在感を放つものがあった。
一枚の盾。
黒ずんだ金属に文様が刻まれ、ところどころに朱色がまだ鮮やかに残っている。まるで血のようにも見えた。触れると、驚くほど冷たく、しかし奥底に熱を秘めているかのようだった。
「こんなもの、祖父が持っていたのか……」
その瞬間だった。背後で風が巻き起こり、祐真は振り返った。誰もいない。だが、耳元で囁くような声が聞こえた。
「――盾を掲げよ」
祐真は身を震わせ、盾を放り出した。しかし、足元に転がったそれは、逆に彼の腕へと吸い寄せられるように装着されてしまった。
重い。だが、不思議と体の一部のように馴染んでいく。慌てて外そうとしたが、どうしても外れない。
そのとき、蔵の外から太鼓のような音が聞こえてきた。ドン、ドン……。一定のリズムを刻みながら近づいてくる。
祐真は盾を抱えたまま、恐る恐る外へ出た。
苔むした山門の前で、黒い人影が踊っていた。
人とも獣ともつかぬ姿。仮面をかぶり、長い布をまとい、奇妙なステップで地を踏み鳴らしている。踊るたびに苔の匂いが強まり、風がざわめいた。
「お前は……何だ?」
声をかけると、仮面の奥から笑い声が漏れた。
「盾を持つ者。ようやく現れたか」
踊り手は軽やかに舞いながら、祐真の周囲を回る。動きに合わせて影が揺れ、現実感が薄れていく。
「その盾は、この地を守るもの。だが同時に、呪いでもある」
「呪い?」
「そうだ。盾を持つ者は、踊りとともに封じられた“何か”と対峙せねばならぬ」
祐真の心臓が早鐘を打つ。祖父はなぜ、こんなものを自分に託したのか。問いただしたいのに、目の前の踊り手はひたすら舞い続ける。
次の瞬間、地面が裂けた。山門の下から黒い霧が噴き出し、巨大な影が姿を現す。獣のような、鬼のような、形を定めぬ存在。
祐真は盾を掲げた。意志に反して腕が動き、光が盾から溢れ出す。影は光を嫌うように後退し、咆哮を上げた。
「踊れ、盾の者よ!」
踊り手が叫んだ。
祐真は思わず足を踏み出した。ぎこちない動きだったが、盾が導くように体が勝手に動く。太鼓のリズムに合わせ、舞うように歩を進める。盾と舞。かつてこの地で行われていた祈りの儀式なのだと、本能で理解した。
影は吠え、爪を振るう。盾がそれを弾き返し、祐真は回転しながら舞い続ける。次第に恐怖は薄れ、体の奥底から熱がこみ上げた。
「これが……祖父が託したもの……!」
最後の一歩を踏み鳴らすと、光が爆ぜ、影は霧散した。境内には再び静寂が訪れる。
祐真は膝をつき、荒い息を吐いた。盾は腕から外れ、苔の上に落ちた。
踊り手は仮面を外し、顔を見せた。それは、祖父の若かりし頃の面影に似ていた。
「……じいさん?」
思わず呼びかけると、踊り手は微笑んだ。
「よく聴け、祐真。守ることは、殴ることよりも難しい。盾を持つ者は、ただ受け止めるだけではない。踊り、調和し、次へと繋ぐのだ」
そう言い残すと、踊り手は霧のように消えた。
残された祐真の耳に、風の囁きが届いた。苔むした山門がきしみ、まるで長い眠りから覚めるように微かに揺れていた。
連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。
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