第六章
「これで第五夜、か。残るは三夜かな」
「えーと、昨日までに見た夢は、全部で九つ。最初の夢は昼間、講義中に見たから」
「では、あと四夜。今日中に全部は無理じゃないか?」
「そうかも。ミンダウガスの娘さんの話が、本当に訳がわからなくて。頭の中で整理しながら話してたら、すごい時間経っちゃったね」
「何か食べるかい。肉しかないけど」
「あ、いただこうかな。最近、ジムで体質を調べたの。いっぱい、肉を食べなさいって言われたわ」
「肉なら何でもいいのかい?牛のバラ肉だから、かなり重いよ」
「たぶん大丈夫」
「ジムの診断書を見ないと、信用できないね」
私は笑いながら席を立ち、台所へ向かった。
「サラの夢は、さっきほどわかりにくくなかったわ」
時間を持て余したのか、台所で肉を切る私に向かって、ヘロネアは話し始めた。
「サラは演奏家で、特にドイツの室内楽に強いこだわりを持っていたわ。でも自分の演奏に納得が行っていなくて、少し息抜きをしようと思い立つの。いや、息抜きと決めてるわけじゃなかったわ。このまま演奏活動を続けても状況は変わらないと感じて、外の世界に出ようとするの」
「外の世界?」私は平鍋で肉を熱しながら尋ねた。
「何て言えばいいのかな…サラたちの住んでる世界は、人々の意識がお互いに作用しあうような世界なの。そしてそれは、それを受け入れない人たちの住んでいる領域と境を接している」
「さっきの脳内Googleみたいなものか」
「そう。さっき私が言った検索窓を使わなくても、思考自体がネットワークに繋がっていて、それを共有している人たちの意識の助けを借りつつ、ものを考える感じかな」
「へえ!」私は焼いた肉を、玉ねぎスープの中に放り込み、盛り付ける。
「何だか怖くない?だって、他人と脳を共有しているのよ」
「それが一般的な営みだとされてる社会なら、そもそも違和感を感じないんじゃないかな。実際、我々が日々話している言葉だって…いやむしろ我々の思考や欲望ですら、外部から強制的にインストールされたものだが、我々はそれに違和感を感じては…」
「おじさん、その匂いはグラーシュね。私、大好きなの!」
食卓に顔を出すと、我がシェヘラザード姫は応接用のテーブルに乗り出して、しきりに料理の匂いを嗅ぎつけていた。
ワインを満たし、それをヘロネアの方へ押し出す。
グラーシュが鼻についてしまっていた私は、ナイフで少しずつチーズを切り出しては、ワインで喉の奥に流し込んだ。
喉を潤しつつ、ヘロネアが語りだす。
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演奏会の翌日、私は小間に用意されたベッドの上で目覚めた。
隔壁に小窓をあけて外をのぞくと、雪が強く降っていた。
検索窓に朝食のオーダーを入れ、ニーノを招待する。
あらかじめ指定された空間上の座標が明滅し、朝食中のニーノが現れる。
「おはよう、サラ」
「おはよう、ニーノ。そちらの天気はどう?」
「南イタリア名物の青空だよ。今日も一日、いい日になりそうだ」
「羨ましい。こちらは、昨日からの雪で大変」
「帰れたのかい?」
「帰らなかったわ。私の家、遠いもの。だから劇場の人にお願いして、泊めてもらったの。クラウディアたちは、家が近かったから無理して車で帰ったわ」
「ご苦労さんだ」
私はベッド脇の隔壁を開け、オレンジジュースとベーコン、焼いた食パンを取り出した。
「相談があるの。こういう時ばっかり悪いんだけど、少し聞いてくれないかな」
「朝食を取ったら、出かけなきゃならんのだが、それでよければ」
「ありがとう。私ね、演奏活動を休もうかと思っているの」
「ああ、たまには息抜きしたほうがいいよ。君は楽器の稽古に熱中しすぎだ。身体を壊してしまうんじゃないかと、心配だった」
「うん。そうは言っても、ちょっとじゃないかも知れないのよね。楽器のことばかり考えても、たぶん進歩できないわ。だから少し距離を置いた方がいいと思い始めて…」
「うん」
「で、外の世界に行ってみようと思ったの」
「えっ、外に?実体で?」
「うん。だって彼らは実体じゃないと、会ってくれない場合が多いって言うじゃない」
「ずいぶんとアクティブな娘さんだね。リスクマネジメントは万全かい?」
「問題はそこなの。あまり大勢で連れ立っても、そもそも自分と向き合う時間が取れないし、かと言って独りだけで物理的なインフラから遠く離れてしまうと、それも不安」
「で、俺に同伴してほしいと?」
「ご明察。ニーノはネットワーク越しの付き合いも長いし、気心も知れているから」
「構わんよ。さっきも言った通り、これから仕事に出なきゃならんが、土日なら比較的ヒマを持て余してる。時間軸上にアクセス可能な範囲をマークしておくから、気軽に声をかけて」
「ありがとう。いい旅にしましょうね」私はナポリ語で挨拶し、手を振った。
「こちらこそ、連れに選んでくれて光栄」ニーノはちょっと驚いたように笑い、セルビア語で私に返答し、深くお辞儀した。
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