第七章
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「ナポリ語?」と私。
「去年のイタリア語の授業で、先生がイタリア語は大きく三つの方言に分かれると言ってたわ。一番南にあるのが、ナポリ語」
「挨拶だけ相手の母語を使って、敬意を表するのはよくある話だね」
「そうね。でもそんな方言は習ってないから、私にはセルビア語にしか聞こえなかったけどね」
「ニーノも、挨拶だけはセルビア語でサラに言った」
「ええ」
「では、それまで君らは何語で話してたんだ?」
「何ていうのかな。互いに自分の言葉で話すんだけど、ネットワークが翻訳してくれる感じ」
「今のネット翻訳でも、相当精度は上がってるし、それよりももっと繊細なものなんだろうね」
「うん、そうなんだけど、翻訳とは全然違う感じがするわ」
「精度の問題ではなく?」
「ええ。そもそも、クラウディアやミロシュ…おじさんじゃなくて、夢の中のミロシュね。彼らとですらネットワーク越しに話してるんだもの」
「ミロシュって名前は、セルビアかチェコにしか無いと思うが、まあセルビア人だろうな。確かにセルビア人同士で翻訳ツールってのは、なんか変だね」
「うまく言えないんだけど、誰にも理解されない、自分の言葉をネットワークで共有すると、それが一瞬で世界中で共有されて、相手に届く言葉になる、ていう感じかな」
「それは便利だ」
「そうかなあ。私、頭の中を覗かれるのは、やっぱり受け付けないわ」
「自分の言葉、というのが、僕ら精神科医には何とも魅力的だね。
さっきも言ったように、人は幼い時に他者…まあ僕らで言えば、セルビア語という価値体系を、無理やりインストールされてしまう。それこそ否応なくね。当然、みんな個性ってものがあるから、セルビア語の価値観にはそぐわない子だっているかもしれない。でも他にどうしようがある?僕らはまるで運命のようにセルビア語をしゃべらされ、セルビア語の価値観に基づいて思考させられ、何かを追い求めさせられ、無慈悲な結果が僕らの人生を決定してしまう」
「全然わからないわ」ヘロネアは至極つまらなそうに私を見た。
いつもなら、冷ややかなヘロネアの反応に気圧されるところであるが、少しは精神科医としての自意識に火がついたのであろう。私はグラーシュが乗ったランチマットの上に、ペンを走らせた。
「申し訳ないけど、俺は逆に覚醒してきたぞ。手短に切り上げるから、もうちょっと付き合ってくれよ。
①は僕らの言語活動だ。セルビアに生まれた哀れな子供たちは、この世に生まれる前から、セルビア語という難解な言語の履修が決定してる。当然、うまく話せずに単位を落とすものもいる。
②はサラたちの世界。彼らは幼い頃に発する「言語以前の言語」を抑圧されずに、ネットワークの助けを借りて他者とコミュニケーションが取れるんだ。
つまり、サラの世界は、幼少時に言語という他者をインストールすることなく、その代わりに自分だけの言語をネットワーク上に共有することで、主体の意志を他者の抑圧から解放することが…」
「おじさん、悪いけど、私帰るね。サラの話はもうちょっと続くし、私寝ないで最後まで話す自信ないの」
サラは大きな目を半分以上閉じて、ゆっくり立ち上がると戸口に向かった。
私は手元のメモとサラを交互に見比べてから、ポケットの中の車の鍵を確かめ、急いでサラを追いかけた。
弟のレオの家に車を着けると、ヘロネアは半醒半睡のまま車を降り、あたかも真昼の道を行くかのように正確な足取りで我が家の玄関口に向かった。
「長くなるだろうから、できれば夢を記録しておいてくれよ」
私は久しく会わないレオと出くわすことを恐れ、車から降りずに窓から身を乗り出した。
「大丈夫。私、記憶力いいの」
ヘロネアは振り返ることなくひらひらと手を振り、私に答えた。
ミンダウガスに宜しく、と伝えようとして、やめた。夢の住人であるとき、彼女は自身の意思では行動できていない。否、もしも自分の意志で行動できるにもかかわらず、それをしないでいるのだとしたら、私は彼女の夢の世界において、大いなる破戒者になってしまうではないか。
半ば厳かな気持ちになって夜空を見上げると、昨日までと同じように瑞々しい夏の雨が降り始めていた。




