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Monad (ある精神科医の手記)  作者: 権兵衛
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第五章

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 戸を勢いよく閉める音で、私は目覚めた。

 眠い目をこすりながら、寝台から降りる。長椅子の上に、帰宅したばかりの父が…ミンダウガスが身を投げ出して、肩で息をしている。

 私はそんな父をしばらく眺めて、ゆっくりと膝をかがめながら、つぶやいた。

「Tevingas」

“Tevas”は「父さん」。でも“Tevingas”なんて言葉、実際には無いわ。意味は…。


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 この所、朝早く起き出しては、アウクシュタシス湖をぐるりと周る小径を歩き、木々と言葉を交わすようにしている。

「“Žmonės”の、つまり人々の本来の在り方とは、いかに広範な環境と“言葉”を交わすかに尽きる」

 父、ミンダウガスの教えは、簡単に言うとそういうことだった。

 私は、樹高の低い、葉の特に生い茂ったブナの木を選び、右手の薬指で樹皮にそっと触れて、言った。

「Bukokšnis」

 この千年紀において最も寒冷であった時期は終わりつつあり、次か、5年後の春までには植生もより温帯のそれに変化しつつあることが、さらに顕著になるだろう。ブナの木は周囲の草木に対し、そう語り掛けていた。

 私は何かをつまむように右手の指を一点にそろえ、上に向けた。

「Bukykla」

 500年ほど前、まだ若木であった頃、この場所で野営をした男がいる。名は“Saulė”。風貌は山猫。

 150年ほど先、ここを通過する人間の一団がいる。名は“Tristan”、“Zoltan”、“Akos”そして“Alonso”。彼らは“Žmonės”ではない。人本来の姿をとどめた魔術師たちである。

 1,500年先、このブナの木は一人の男によって切り倒される。名は“Vuk”。風貌は灰色狼。彼は木材の一部を家具調度に加工し、残りは燃料とする。

 私は、ブナの木から一歩下がり、腰をゆっくり下ろし、両手を地べたにつけた。

「Saulšna」

 500年前の旅人は、まだ氷期の只中で辛い雪中野営をしている様子だった。“Saulė”は用心深げにこちらの様子をうかがっている。

 私は彼に向かって手を差し出すと、彼はおもむろに立ち上がり、こちら側へやってきた。


 500年前は、まだアウクシュタシス湖は存在しないか、氷河の一部に過ぎないはず。彼は広大な湖を前にすると驚き、そのままざぶざぶと膝の深さまで入って行った。


「Giedre」

 名を呼ばれて顔を上げると、彼は満面の笑みで大きなイトウを両手に掲げていた。


 その場で火を起こし、大きな魚を二人で分けて食べてしまい、それから、私は彼と情交した。

 同じようなことは以前にもあったし、一緒にいて悪い感じはしなかったから、彼の求めに素直に応じていた。“人々”は春から夏にかけては、それほど簡単に情交してしまうものであった。


 気づけば深夜になっていた。私は雪の中へ彼を見送り、それからブナの木にも別れを告げて家路に就いた。

 父はまだ帰宅しておらず、どこかで大いに自らの術を発揮しているに違いなかった。


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 どう言えばいいのか、さっぱりわからないけど、さっきの“Tevingas”という言葉と、身をかがめて膝を折る動作で、この一日の見聞をすべて父に伝えることができた。

 ついでに言うと、父さんの出来事にはあまり興味ないから、教えてくれなくてもいい、という念押しも添えてね。

 父はつまらなそうに、長椅子に放り出していたコイを拾い上げ、台所に向かった。

 私は、そろそろ独り立ちすべき時期が来つつあることを知った。


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「…という夢」ヘロネアは言った。

「ずいぶん簡単に言ってくれるね。こっちはついて行くので精いっぱいだったよ」

 頭を掻きながら、私はぼやいた。

「言っとくけど、私こんな複雑なSFじみた話、ふだん読まないからね」とヘロネア。

「“サラゴサ手稿”ばりの入れ子式物語だな」

「何、それ?」

「確かポーランドの、若干マニアックなファンタジー小説さ。言ってみればスラブ民族版の“シェヘラザード”だな。もっとも、時代はずっと下るがね」

「確かに、アラビアン・ナイトみたいな話よね。ああおじさん、私の首を刎ねないで」

「ちゃんと、この話の顛末を聞かせてくれればね」

 私は笑いながら、空いたカップを持って立ち上がった。


 カップに熱いコーヒーを注ぎながら、もう一度頭を整理してみる。

 ヘロネアは恐らく、見た夢を見たままに話している。それゆえに本来説明が必要な…というよりも、聞き手の理解が及ばない部分をあまり補うことなく話を進めてしまう。私も話の腰を折ることと、ヘロネアのモチベーションが下がることを恐れて、夢物語の構造について深く掘り下げることがない。

 とはいえ、気になった部分はすでに何か所か執拗に探ってはいる。しかしながら合理性はともかくとして、筋書きは全く破綻することがない。

 それでいて、彼女が描き出す世界の全体像は、まだまだ見えてこない。

 ならば、しばらく聞き手に徹して、互いにどうリンクし合うものか見ていくことにしようか。矛盾を指摘するとしたら、それからでも遅くはなかろう…。

「熱!」

 私はカップから溢れるコーヒーを、あろうことか火傷したばかりの指で受けてしまっていた。


「物語の細かいところは措いておくとして」私は再度、コーヒーカップをヘロネアの方向に押し出す。「今のうちに聞いておきたいのは…何だっけ、何年か未来に、そのブナの木を通り過ぎる一団がいて」

「ええ。“Tristan”、“Zoltan”、“Akos”そして“Alonso”ね。姿かたちは、人間本来のものだって言ってた」

「ブナの木は、どうして彼らを“魔術師”と呼ぶんだ?どっちかと言うと魔術師は、動物頭のミンダウガス達じゃないのかい」

「そう言われれば、そうよね」

「理由ないのかい?」

「夢で見たまま、話してるからね。もっとも、無意識下では辻褄が合ってるのかも」

「なんだ、突然こっちの畑に引き寄せてきたな…まあ、その通り。ラカン派の精神分析の場合、そういう解釈になるだろうね」

「私、わからないわ」

「俺もわからない。まあ、色々とアプローチを提案するだけさ。理屈で片づくのなら、それもまた正解だ」

「あまり科学的じゃないのね」

「精神分析は、たぶん科学じゃない。特に俺みたいな臨床の精神科医なんて、やってることは、どちらかというと占い師に近い」

 自嘲気味に言って思い切り伸びをすると、窓の外がすっかり暗くなっていることに気づいた。


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