第四章
ビニール袋を両手に抱え車を降りる。
長時間、夏の陽光に晒されたドアの取っ手を思い切り掴んだ私は、叫び声を上げて車から飛びのいた。
「何してるの?」庭先からヘロネアの声がした。「びっくりした。誰か轢いたのかと思った」
「幸い、轢いてないよ」喘ぎつつ私は車の側に座り込んだ。「車体が…めちゃくちゃに熱くてね。もろに触っちまった」
「私もしばらく待ってたけど、いい加減暑くて、もう帰ろうと思ってたところ」とヘロネア。
「水曜は市民センターで講師やってるのさ。なかなかいい稼ぎになるし」
見るとすでに、私の指先は赤く水膨れになりつつあった。
「そう。じゃあこれから時間ある?」
「ああ、水曜は休診だ。あれかい、昨晩の話の続き?」
「そう。帰ってきてくれて嬉しいわ」言いながら私の横をすり抜け、彼女は診察室のドアの前でこちらを振り向いた。「ではヘロネア・ブクル女史の症例Ⅲ」
「パートタイムも、大学も無し?」
私はコーヒーをヘロネアに押し出しながら尋ねた。
「水曜日は、パートタイムは無し。おじさんが今日休診だったから、午後の講義は休んだわ」
「昨日の話の続きのために?」
「昨日の話の、続きのために」
ヘロネアはオウム返しで答えて、くすりと笑った。
「途中まで話したら、なんだか逆にもどかしくなっちゃって。おじさんが何と言おうと、今日まで見た夢の話は聞いてもらうからね」
「願ってもいない、貴重な体験だと思ってるよ」
「あら、よかった」
「ミンダウガス君は、その後ご健勝かい」
「彼の話をすべきなのかもしれないけど、そうもいかないのよね。翌日は、また別の人の視点の夢だったんだもの。
あの日はスーパーの棚卸が長引いて、へとへとになって寝付いたわ。疲れで眠りが深かったのか、そんなに長い夢ではなかったんだけど」
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「サラ、起きて」
揺り動かされて目覚めると、私は何人かの音楽家たちと、薄暗い小間の中にいた。
私は18世紀のストラディバリウスを手にしたまま、居眠りをしていた。
「私が、あなたの名器を破損の危機から救ったの。今後頭が上がらないわね」
ビオラ担当のクラウディアが私の横に腰かける。
「やばかった?」と私。
「落としそうでなくとも、楽器持ったまま居眠りなんて」とクラウディア。「軟化処理かけてないんでしょ」
「主催者の要望でね。私は、かけたほうがいいって言ったの。音なんか、変わりゃしないわ」
「人間の耳にはね」答えを待ち受けていたかのように、低くつぶやくクラウディア。
「そんなの、バカげてない?お客がわざわざ検索して、これは軟化処理済みの楽器です、なんて言うの?そんなの…」
私は大げさに立ち上がって、クラウディアに向かって言葉を継ごうとしたところに、ニーノが隔壁に小窓を開けて顔を出した。
「お二人さん、そろそろだぞ」
私はあわてて口をつぐんで、突然隔壁を開けたニーノに低い声で言い返した。
「次は弦楽三重奏曲だから、”お三人さん”と言うべきよ」
背後でチェリストのミロシュが立ち上がった。
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「ちょっと待って。俺?」
「ええ」とヘロネア。「夢だもの。おじさんも出てくるでしょ」
いかにも他人事のようにヘロネアは言う。
「俺が音楽家?」
「ええ」
「チェロなんか弾いたことも…いや、夢だもんな。愚問だな」
「私だってバイオリンなんて小学生の時に親に無理やり習わされて、4年後に親と大げんかして辞めたわ」
「そういう他愛ない話を聞くと、やっぱり君の話は夢なんだって思い直すよ」
「夢よ。決まってるじゃない?」
「でも、ところどころ違和感があるな」
「軟化処理とか、隔壁とか、あとは検索とか…」
「検索ってのは、ネットで検索ってことだろう」
「そうなんだけど、サラは機械を使って検索してる感じじゃなかったわ。頭の中に検索フォームみたいなものを綺麗にイメージできるの」
「そりゃ便利な世界だ」
「それでサラたちの悪事がばれるのよ」
「悪事ってのは、サラさんのストラディバリウスを軟化処理するってこと?」
「ええ」
「そもそも軟化処理ってのは…」
「サラもただの使用者だから原理をわかっているわけではないけど、衝撃を受ける直前に、布みたいな材質に変わるみたい」
「なんだ、やっぱり魔法の世界だね」
「ミンダウガスさんの世界とは、かなり違うけどね。セルビア語だったし」
「だろうね。君が知らない言語の夢は、見られない」
「夢がないわ」
「夢だからね」私は苦笑した。
「で、演奏会は始まったのかい」
「ええ、熱演だったわ。ドホナーニの弦楽三重奏曲」
「誰?聞いたことないな。実在するのかい」
「ええ。小学生の時にバイオリンの先生の家に行くと、よく仲間と演奏してたわ。第二バイオリンがいなかったものだから、そればかり弾いていた。
おじさんも中々の熱演で、途中から鼻水が止まらなくなり、演奏中ずっとすすり上げていて…」
「ひどい役回りだな」
「夢だから、仕方がない」コーヒーを一口飲んで、ヘロネアは笑った。「アンケートを見たら”チェリストの鼻の音を聞きに来たわけじゃない”って書いてあって、ミロシュはひどく落ち込んでいたわ」
「なんだ、ずいぶん不公平じゃないか」
「何が?」
「サラたちは魔法を使えるんだろう。なんで俺は鼻水も止められないんだ?」
「だって、おじさんも…じゃなくて、ミロシュ自身、鼻をすすってることに気づかなかったのよ。あとから私に”俺は鼻なんかすすってない”って言ってたし」
「じゃあ、なんで周りの奴らが…いや、やめよう。俺がここでムキになってどうするんだ」
「そうよ。これは夢なんだから」おかしそうに笑うヘロネア。
「しかし、気になる部分はいろいろあって、君の答えがちゃんと理屈に合ってるというのが、なんというか…すごいな」
「それは、この間おじさんに言った通り、私が無意識に整合性をつけてるんだと思うわ。支離滅裂じゃ、つまらないでしょ」
「うーん、あとはそうだなあ…」
「一つ一つ、原理にこだわっててもつまらないわ。答えろと言われれば、答えるけど」
「いや、そっちはいいんだ。俺が気になったのは、同じ魔法でも、随分と未来的だなってこと」
「私もそう思ったわ。隔壁なんか、開く前に薄く緑色に光るしね」
「”ターミネーター”だね」私は「ターミネーター」を見たことがないのに、そう言ってみた。
ヘロネアは自分で焼いたというクッキーを私にくれたので、しばらくそれを口に運びながら、YouTubeで弦楽三重奏曲を聞いてみた。幻想的な、いかにもヘロネアの見た夢に流れそうな曲であった。
最後のクッキーに遠慮なく手を伸ばしながら、ヘロネアは言った。
「サラはこのあと、けっこう危ない橋を渡るんだけど、今日じゅうに話せないかも」
「そんなに長いのか」
「ううん、長くはないけど、その前に別の夢を見たの」
「ミンダウガス君かい」
「そうね…でも、ちょっと違うの。私は、ミンダウガスの娘だったの」




