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第六話 牙城クスコ(9)

トゥパク・アマルとロレンソがクスコへ向かうのを見届けた後、そのままアンドレスはフランシスコの天幕へと足を運んだ。

既に宵の頃を過ぎ、次第に夜の闇が深まりつつある頃だった。

今夜の空は、妙にどんよりと曇っており、夏の星座も月も見えない。


フランシスコの天幕は、側近たちの中でも特にトゥパク・アマルの天幕に近い場所にある。

夜闇の中にぼうっと灰色の影を浮き立たせているその天幕に近づくと、入り口付近で警護に当たっている兵たちが、来訪したアンドレスの方に恭しく頭を下げる。

アンドレスも丁寧に礼を払う。


「フランシスコ殿にお会いしたいのだが」と言うアンドレスに対して、衛兵たちがにわかに困惑気味な表情になる。

そして、「フランシスコ様から、どなた様もお通しにならぬようにと申し付かっておりますので」と、言いづらそうに答える。


しかし、もちろんアンドレスは引き下がらない。

「少しでもいいので、お顔だけでも拝見したいのだ。

君たちの立場もわかるが、ここは何とかお願いしたい。

どうかフランシスコ殿に取り次いでほしい」


「アンドレス様…それが、どうしても、今は…。

お願いでございます。

どうか、どうかお引取りを…!」


すっかり困惑して口ごもる衛兵の様子に、アンドレスはいっそう気がかりを募らせる。

「何故、そこまで…?

フランシスコ殿のご様子は、それほどに、誰にも会えぬほどの状態なのか?

そんなふうに拒まれては、余計心配になるではないか…。

一体、中で、どうされているのだ?!」


深刻な眼差しになり、今にも天幕の中に踏み込みそうな勢いのアンドレスに、今や困惑を通り越して引きつった表情になった衛兵が、「わ…わかりました。とにかく、お伺いするだけでもしてきますから、どうかお待ちになってください!!」と、アンドレスの前に立ちはだかるようにして言う。


その衛兵の様子に、いっそう不安な表情を強めるアンドレスに礼をすると、「くれぐれも、ここで、このまま、お待ちください」と念を押して、衛兵は天幕の中に姿を消した。


天幕の前で待ちながら曇った空を見上げるアンドレスの瞳は、フランシスコのこと、そして、クスコへ発ったトゥパク・アマルとロレンソのことで、かなり思いつめた色になっている。

今、とても大事な局面なのだ、と彼は改めて思う。

クスコでついに敗戦を舐めた今こそ、強大な敵に一枚岩となって立ち向かわねばならぬはずだ。


そのためには、フランシスコ殿を以前のように側近の一人として、改めて迎え入れねばならぬ。

フランシスコ殿の現在のような状態が続けば、他の側近たちもやがて不審に思いはじめかねぬのだ。

結果、フランシスコ殿がかえって孤立し、側近同士の間につまらぬ歪みが生じ、果ては、インカ軍の歪みにも発展しかねない。

そのような事態は、この時期、決して招いてはならぬ!!


アンドレスは上空を仰ぎ、それから、夏の夜風を胸に深く吸い込んだ。

そして、天幕の入り口に再び視線を戻す。

フランシスコに伺いを立てに天幕の中に姿を消した衛兵は、なかなか戻ってこなかった。

(フランシスコ殿…)


アンドレスは、じっと待った。

足元の草から、虫の鳴き声が聞こえている。

彼は目を閉じて、その声に聞き入った。

(フランシスコ殿…、よほどお加減がお悪いのか、あるいは、深くお心を閉ざしておられるのか…)


「アンドレス様、誠に申し訳ございませんでした。大変お待たせいたしました」と、ひどくかしこまりながら、先ほどの衛兵がやっと天幕の外に姿を現した。

「フランシスコ殿は、何と?」


衛兵はいっそう申し訳なさそうに恐縮しつつ、おずおずと首を振った。

「やはり…どうしても、どなた様にもお会いしたくないと仰っておられまして」

「そんな…!」と、思わず苦しそうな表情になるアンドレスに、衛兵は地につきそうな程に深々と頭を垂れ、「申し訳ございませぬ!!」とその身を低く屈める。


アンドレスは慌てて、「いや、誰が悪いということではないのだから」と、衛兵をなだめるように柔らかな表情をつくって言う。

それから、衛兵の目を覗くようにして問う。


「フランシスコ殿のご様子は、一体、どのような状態なのだ?

ご容態が、そんなにお悪いのか?

それとも…もっと、何か事情があるのか?

何故、ハッキリ言わない?

まさか、本当に…口にも出せぬほどなのか?!」


次第に詰め寄るようにして迫り来るアンドレスを前にして、衛兵の顔は崩れるように歪んでいく。

その様子をアンドレスは、見逃さない。


(言えないほどに、まずい状態になっているのだ!

いや、口止めされているのか…?!

それって…明かせぬほどの状態になっているということでは…?!)


そう直観した彼は、天幕の入り口に鋭い視線を投げた。

アンドレスの中に、フランシスコを案ずる念と不安が突き上げ、まるで警笛が鳴り響くがごとくに渦巻いていく。


「すまない!!通させてもらう」と、彼は、衛兵の脇を俊敏にすり抜ける。

「アンドレス様、お待ちを!!どうか…!!」と、驚きと困惑の叫びを上げる衛兵を後に、アンドレスはそのまま滑り込むようにして天幕の中に踏み入った。




フランシスコの天幕の中は蝋燭の光も乏しく、かなり薄暗い。

ひどく空気も淀んでいる。

アンドレスは一瞬、己の嗅覚を疑ったが、しかし、間違いようの無いほどに強烈な酒の臭いがした。

彼は何かにかされる念に憑かれ、殆ど闇に呑まれてしまったようなその空間の中で、周囲を素早く見回した。


そんな彼の目に、薄闇の奥にぼうっとその影を浮き立たせている一人の人物の姿が、ぼんやりと映る。

その様子は、まるで闇に取り込まれてしまったがごとくに暗く、危うく、儚く、そして、どこか底知れぬ不気味さを漂わせていた。

アンドレスの背筋に悪寒が走る。


その影の主、フランシスコは、天幕の隅に置かれたテーブルの前に座り、殆どその姿を闇に溶け込ませたまま、その目だけが不気味に黄色がかった光を放っていた。

テーブルの上には、何本もの空の酒瓶が横倒しになっている。

否、当惑しきって見渡すアンドレスの視界の中で、テーブル上のみならず、天幕内部のほうぼうに酒の空き瓶が散乱しているではないか。


「フランシスコ殿…!」


急に口の中が乾いてきて、アンドレスの声は擦れている。


「会いたくないと言ったはずだが」


地獄の底から湧いてくるような、抑揚のない冷淡な声でフランシスコが言う。

そして、いかにも苛立ちをあらわにして、彼は手の中のグラスから荒々しくその中の液体をあおり、それから、叩きつけるようにそのグラスをテーブルめがけて振り下ろした。


酒のためであろう、既に手元のおぼつかぬフランシスコの振り下ろした先には、数本の酒瓶が転がっており、グラスは思い切りそれらの瓶の上に叩きつけられた。

身震いするような、甲高い、不快な衝撃音が鳴り響く。

アンドレスは、思わずビクリと身を縮ませた。


そんな彼の方に向けられるフランシスコの目には――アンドレスは、思わず己の目を疑ったが――激しい憎悪の炎が燃え上がっていた。

ただでさえ細面のフランシスコの輪郭は頬がすっかりこけ、目はひどく窪み、髪も乱れ、肌の様子もまるで枯れ木のようにひどく荒れている。


その憔悴しきった顔面の中で、その白目がすっかり黄色くなった眼を炯炯と不気味に光らせ、餓鬼のごとくの形相でアンドレスめがけて睨みつけているのである。

アンドレスは、一瞬、蛇に射竦められた蛙のごとく、激しい混乱のまま床に立ち竦んだ。


「フランシスコ殿…、勝手に入って申し訳ありません」


アンドレスはいっそう口の渇きを覚えながら、搾り出すように言葉を発する。

そして、深く頭を下げた。


「どうしても、お目にかかりたかったのです。

どうしていらっしゃるかと思って」


「わたしの惨めな姿を、わざわざ見に来たのか?」


憎々しげに言うフランシスコの方に、おぼつかぬ足取りで近づきながら、アンドレスは「まさか…、そんなつもりのはずがあるものですか…!」と、とても苦しげな表情で言う。

フランシスコはそんなアンドレスの様子を、鼻で笑うようにして、再び睨みつけた。


「おまえが来てからだ…」


フランシスコの顔が悲痛に激しく歪んだ。

え…?!――アンドレスは息を呑む。


「おまえがトゥパク・アマル様のおそばに来てから、すべてが狂ってきたのだ」


「な…何のことです」


アンドレスは深い混乱を覚えながら、眼前の人物を呆然と見る。

フランシスコは拳を握り締め、それをテーブルに押し付けた。

その拳が、そして、その全身が、わなわなと震えている。


アンドレスは完全に口が渇いて、もはや、声が出ない。

暫し、重苦しい沈黙が流れ、ただ、フランシスコの悲痛な呻き声だけが天幕の中に低く響いた。


「アンドレス…おまえが、この反乱の側近の一人として加わってからだ…。

トゥパク・アマル様は、おまえをいたく気に入って、以前のようにわたしを大事にはしてくださらなくなった。

そうだ…おまえは…トゥパク・アマル様だけでなく、ディエゴも、ビルカパサも…、皆の気を引きつけた。

…すべてが、狂った…おまえが来たせいで…!!」


アンドレスは愕然と、立ち竦んだ。

眩暈と、そして、足が明らかに震えてくるのを感じながら。


アンドレスに向けて顔を上げたフランシスコのその目からは、激しい恨みの念に憑かれたような涙がじっとりと滲んでいた。

アンドレスはその場に氷ついたように固まったまま、微かに首を横に振る。


「ち、違う。

誤解です…!

トゥパク・アマル様は、今でも、フランシスコ殿をとても大切に思われていらっしゃる…」


「フ…」と、涙に歪んだ顔に皮相な笑みを浮かべ、フランシスコは呪いに満ちた眼でアンドレスの瞳を射抜くがごとくに激しく見据えた。


「良く言うわ。

今日も、随分楽しそうな皆の笑い声が、トゥパク・アマル様の天幕から聞こえていたではないか」


アンドレスの呼吸が一瞬止まる。

そして、首をさらに振りながら、後退あとずさった。

あの女装の話題で思わずアンドレスを筆頭に側近たちが笑ってしまった声が、トゥパク・アマルの天幕に近いこのフランシスコの天幕まで聞こえていた可能性は十分にあった。


全身から血の気が引いていくようなひどい感覚に襲われながら、アンドレスは必死に言葉を捜す。

しかし、フランシスコの方が言葉を放つのが速かった。


「トゥパク・アマル様も、他の側近も、わたしなど、もはや、いなくても何の問題も無いのだろう。

むしろ、ひ弱で足手まといのわたしなど、いない方がよいのだ…!!」


涙を流しながら皮相な笑みに顔を歪めるフランシスコの表情を、あまりに苦しくてアンドレスは既に直視できず、彼も、また激しい衝撃と苦痛に歪んだ顔で地に視線を落とした。

アンドレスの視界の中で、地面がくらくらと不安定に揺れて見える。


「アンドレス…おまえが、わたしをここまで追い込んだ…。

出てゆけ…!!

二度と、おまえの顔など見たくはない――!!」


悲痛な息の下で、呪いの言葉を吐き出すように、フランシスコが言う。


「フランシスコ殿!!

すべて、誤解です…。

俺は…!!」


アンドレスの頭の中は、ぐるぐると混乱の渦を巻きながら、悲鳴のような叫びを上げ続ける。


(俺は、フランシスコ殿にそんな思いを?!

そんな…何故…どうして、どうして、こんなことになる…?!

え…俺のせい…?

全て、俺のせいなのか…!?

あ…――ああ…もう、わけがわからない…だけど…ともかく、このままでは、いけない…!

この絡まった糸を解かなければ、きっと…きっと、この先、もっと大変なことになる…!!)


アンドレスは激しいショック状態の中にありながらも、己の中でけたたましく鳴り響く警戒音に突き動かされるようにして、真正面からフランシスコの前に詰め寄った。

そして、今、彼にできる精一杯の誠意を込めた眼差しで――しかしながら、実際には、その瞳は挑むように切羽詰った色になっていたのだが――、アンドレスはフランシスコの目を見つめ、そして、堰切ったように言う。


「フランシスコ殿、お聞きください。

今日の笑い声は、トゥパク・アマル様の変装についての話し合いの最中に女装の話題が出たので、それで、思わず皆が笑ってしまっただけなのです。


あれは…もともとは、俺が笑い出してしまったことが原因…。

無神経にも、フランシスコ殿のお気持ちを察することもせずに…俺は、本当に愚かだったと、今、深くお詫びいたします。


ですが、トゥパク・アマル様が、そして、俺たち側近たちが、あなたのことをいない方がよいと思っているなどと、それはフランシスコ殿、あなたの完全な誤解です。


本当に…トゥパク・アマル様だって、今日の会合にフランシスコ殿が出席されなかったことで、とても寂しそうなお顔をしていらしたのですよ。


トゥパク・アマル様も、俺たち側近たちも、以前のようにフランシスコ殿が俺たちの中に戻ってきてくれることを、心から待ち望んでいるのです!!」


アンドレスの必死の訴えに、しかし、フランシスコは、むしろ『トゥパク・アマル』の名が出たことに、いっそう顔面を硬直させた。

その顔からドッと汗が噴出し、その横顔に、今、幾筋もの脂汗が伝って流れ落ちる。

その様子に、アンドレスは胸を突かれたように、その場に固まった。


(ああ…!!

俺は…また、フランシスコ殿を追い詰めるようなことを?!)


だが、明らかに混乱と惑いの色に覆われていくアンドレスの表情を認めると、フランシスコの黄ばんだ目は、逆に、冷酷なその光を増した。

そして、次の瞬間、フランシスコの骨ばった細い指が、一体どこからそのような力が湧き出るのかと思うほどの激しさで、アンドレスの顎を掴んだ。

愕然としているアンドレスの瞳の中で、フランシスコが冷ややかに目を細め、皮相な笑みを浮かべる。


「アンドレス、奇麗事の御託ごたく並べは、そこまでだ…。

トゥパク・アマル様に誰よりも大事にされているおまえに、わたしの何がわかるというのだ。

おまえのような、常に安全な位置にいて、庇護され、けがれを知りませんと言わんばかりの奴を見ていると、全てを破壊してやりたくなる…」


殆ど消えかけた蝋燭の揺れる炎を反射する憔悴したフランシスコの横顔に、しかし、今は不気味な暗黒めいた光が黒々と宿る。

一方、アンドレスは呆然と絶句して、目の焦点も定まらぬまま、完全に相手のなすがままになっている。


フランシスコは、そのままアンドレスの顎を掴んだ指に力を入れて、己の顔面にぐいっと引き寄せた。

フランシスコの全身から放たれる強い酒の臭いが、アンドレスに覆いかぶさる。


「やめろっ…――!!」


次の瞬間には、反射的に、アンドレスの強靭な腕がフランシスコを突き飛ばしていた。

そのまま、二人は同時に床に倒れた。

既に泥酔して足元のおぼつかぬ状態になっていたフランシスコは、完全にバランスを崩し、全身を激しく打って横転している。


アンドレスはギョッとして、まだ今しがたの衝撃に全身を貫かれたまま、しかしながら、一方で、我に返った冷静なもう一人の自分が、全く手加減なく突き飛ばしてしまったフランシスコの身を案ぜずにはいられない。


言葉を失ったまま、それでも、助け起こそうと近づいてくるアンドレスに、しかし、フランシスコはついに酒瓶を投げつけた。

反射的によけたアンドレスのすぐ顔の脇をかすめ飛び、そのガラス瓶は彼の背後で天幕の床に落ち、甲高い破壊音と共に粉々に砕け散った。


完全に己の顔面を狙って酒瓶を投げつけたのだと、混乱したアンドレスの頭でもわかった。

否、それ以上に、己に対する確かな殺気さえ覚えた。

アンドレスの視界が真っ暗になっていく。

一方、フランシスコは天幕の外まで聞こえそうなほどの半狂乱な叫びを上げはじめた。


「出てゆけ!!

出てゆけ――!!!」


今、常軌を逸したように叫び狂いはじめたフランシスコに、もう、どう対することもできず、己自身もあまりの衝撃と、混乱と、驚愕の渦の中で、アンドレスはおずおずと後退る。


(このままでは、いけない…!

なんとか事態の収拾をつけねば…きっと大変なことになる…!!)


彼の脳裏で、もう一人の自分がまるで未来を予見するがごとくに叫んでいたが、今はもう、殆ど泣きたいほどの混迷の中で、実際の彼はその場を惨めに退散することしかできなかった。

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