選択
――それから、数年の歳月が流れた。
あの日、あの境界線で何が起きたのか。
ハルが電磁隔壁の激痛を越えた時、二人の脳内チップが引き起こした致命的なエラーの全貌を語る者は、もう誰もいない。電磁隔壁(お触れの壁)が消滅することはなく、今も山あいの境界で、ジジジと青白い火花を散らしながら二つの世界を冷酷に分け隔てている。
財団の巨大な実験システムは、何一つ変わっていなかった。
エデンの人々は透明なカプセルの中で無菌室の幸福を消費し、八津里村の住民は厳しい自然に怯えながら仲間と身を寄せ合って生きている。
ただ、一つだけ変わったことがあった。
八津里村の、緑豊かな畑のあぜ道。
冷たい雨が上がる中、二人の若い女性が、歩き始めたばかりの小さな幼児の手を引いて、穏やかに歩いている。
驚くべきことに、二人は全く同じ衣服をまとい、髪型すらも同じように切り揃えていた。鏡合わせのように寸分違わぬ「同じ顔、同じ姿」の二人の女性が、静かに並んで歩いているのだ。
すれ違う村人たちは、彼女たちと親しげに笑いかけていく。村の人間にとっては、彼女たちが二人いることすら、お触れの壁の怪異がもたらした奇妙な、けれど当たり前の日常として受け入れられているようだった。
もう、どちらがエデンから下りてきた「ハル」で、どちらがこの村で育った「澪」なのか。外見からも、その佇まいからも、もはや識別がつかなくなっていた。
あの日、財団は二人に冷酷な条件を提示した。
ハルが自らの意志で村にいることを望むなら、それを受け入れよう、と。ただし、それは実験の終了を意味しない。
『携帯プリンタも、医療ナノ薬も、すべてのテクノロジーを剥奪された元エデン市民が、自分の意志で選んだはずの過酷な環境で、本当に幸福になれるのか?』
財団は、彼女たちの選択すらも、新たな「個人の幸福度」を測定するための格好の実験材料として、冷徹に観察し続けているのだ。お触れの壁の向こうから、今も目に見えない無数のセンサーが、彼女たちのQOL(生活の質)の数値を貪欲に吸い上げている。
彼女たちは、自分たちが今も箱庭のモルモットのままであることを知っている。
どれだけ抗おうと、この世界の手のひらの上からは逃れられないのだという残酷な現実を、完全に受け入れている。
それでも――。
幼児が石に足を取られて転び、大声で泣き出した。
一人が幼児を抱き上げ、その小さな手を、自分の胸の温もりで包み込む。もう一人が、その頭を優しく撫でる。
自動で気温が調節されることはない。明日食べるものがあるかどうかも、わからない。常に死の気配と、生存への苦悶が付きまとう世界。
けれど、幼児を真ん中にして微笑む二人の顔には、かつて偽りの天国や地獄にいた頃には決して見せなかった、深い苦悶と――それ以上の充実感が混じり合った、本物の幸福の笑みが浮かんでいた。
たとえ、そこが誰かに用意された檻の中だとしても。
彼女たちは今、自分たちの意志で選んだ場所で、確かに呼吸をして、生きている。




