文明の燐(ぶんめいのりん)
慶応三年、横浜。
潮騒と石炭の煙が混じり合うその街に、**神保 進**という男がいた。
下級武士の身分を捨て、異人の靴を舐めるようにして「新しき智識」を貪る彼の胸には、どす黒く煮え滾る**野心**という名の業火が燃えていた。
「これからは、刀の時代ではない。光の時代だ」
進は、謎の紅毛人からある「呪」を孕んだ品を譲り受ける。
それは、真鍮製の奇妙な**『文明燈』**であった。
その異人は、進にこう囁いた。
「この灯は、お前の『古い過去』を油として燃える。捨てれば捨てるほど、未来は明るく照らされるだろう」
進は躊躇わなかった。
翌日、彼は家宝の兼定を質に入れ、その「過去」を灯に焚べた。
するとどうだ。灯は眩い燐光を放ち、進の脳裏に「明日の相場」を映し出した。彼はその啓示に従い、生糸の取引で巨万の富を得た。
次に彼は、己の「苗字」を捨てた。
さらに「故郷」の記憶を、最後には「かつての同志」を官憲に売り払い、その裏切りという名の重油を灯に注ぎ込んだ。
灯は唸りを上げ、青白い炎を吹き上げる。シュ、シュウ、とガスが漏れるような音が、まるで死者の溜息のように部屋に満ちる。
進の野心は留まるところを知らなかった。明治の御世が始まると、彼は新政府の要職に上り詰め、「文明開化の旗手」と謳われた。
彼の身を包むのは、最高級の燕尾服。
口にするのは、血の滴るような牛鍋。
その脂ぎった肉を咀嚼するたび、彼の喉からは「文明」の快哉が漏れた。
だが、代償は確実に彼の肉体を蝕んでいた。
鏡を見るたび、進の姿は薄くなっている。
「過去」を燃やし尽くした彼の足元には、もはや「影」すらも存在しなかった。
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ある夜、進は帝都を見下ろす高台に立っていた。
手元には、もはや油を使い果たし、今にも消えそうな『文明燈』がある。
彼は焦燥に駆られていた。もっと上へ。もっと未来へ。
だが、彼にはもう捨てるべき「過去」が残っていなかった。
「……そうだ、まだこれがあった」
進は自らの「心臓」に手をかけた。
かつて武士として、あるいは一人の人間として持ち合わせていた、最後の情熱——その「命そのもの」を灯に投げ入れたのだ。
ズドドド、と大気が震えた。
灯は太陽のごとき烈火を放ち、帝都の闇を真昼のように切り裂いた。
進は恍惚とした。この光こそが、俺が作り上げた新世界だ。
俺こそが、この時代の、永遠の「光」なのだ——。
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翌朝。
銀座の辻に、見慣れぬ意匠の新しい**ガス灯**が一本、誇らしげに立っていた。
その灯柱は、どこか燕尾服を着た男の立ち姿に似ており、その真鍮の表面には「進」という文字が微かに刻まれていた。
「おや、これはまた見事なガス灯だ。さすが文明開化の象徴だね」
道行く人々が足を止め、その輝きを賞賛する。
そのとき、一人の異国人が連れていた大きな犬が、ふらりとその灯柱に近づいた。
犬は片足を上げ、進の「足」であったはずの場所に、勢いよく排泄物を浴びせかけた。
ガス灯の奥で、ジ、ジジ……と小さな、しかし悲痛な火花が散った。
誰よりも新しく、誰よりも「光」であることを望んだ神保進は、今や一歩も動くこともできぬまま、新時代の犬に尿をかけられる、ただの「公共物」へと成り下がっていたのである。
人々は、そのガス灯の火がなぜか一瞬、真っ赤に怒り狂ったように燃え上がった理由を、ついに知ることはなかった。




