視線
落ち着きを取り戻したエリスは、ふと小さく息をつき、父へと視線を向けた。
「……あの、お父様。少し、ご相談がございますの」
「なんだ?」
「……今のわたくしの部屋は、どうにも落ち着きがなく、品位にも欠けている気がいたします。ですから、もう少し……シンプルで静かな空間に整えたいのです」
言葉を選ぶようにして口にしたエリスは、さらに続けた。
「お母様のお部屋が、当時のまま家具も大切に手入れされていると伺いました。もし許していただけるなら……その家具を、使わせていただけないでしょうか」
エドムンドは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく首を振った。
「家具だけ、ではない。……いっそ、部屋ごと使えばよい」
「……え?」
「マリアンヌの部屋は、この家の中で日当たりが最もよく、ずっと変わらず綺麗に保たれている。今のお前ならば、大切にできるだろう」
「……よろしいのですか?」
驚きに目を見開いたエリスが、思わず問い返す。
「よいのだ」
穏やかな声で告げると、父はほんの一瞬、低く呟いた。
「私も……そろそろ変わらねばならんようだしな」
その最後の言葉は、エリスの耳にははっきりとは届かなかった。
けれど、エドムンドの視線がすぐに彼女の装いへと移る。
「……そのドレスは」
エリスは胸元に視線を落とし、そっと布を撫でる。
「……お母様が残してくださったものです。」
クラウスが小さく頷いたのを見て、エドムンドは静かに目を細めた。
「そうか、マリアが…よく似合っている」
マリアは父が母を呼ぶときだけの特別な響きだった。
「ありがとうございます……お父様」
ぱっと笑みを浮かべるエリス。その笑顔は、先ほどの涙に濡れた顔とはまるで別人のように明るかった。
「――さて、そろそろ朝食の時間だろう。準備ができたら、大食堂へ行こう」
父に促され、エリスは立ち上がった。
*
大食堂の扉が静かに開かれると、煌びやかな光景が広がった。
高い天井からは重厚なシャンデリアが垂れ下がり、朝の光を受けて宝石のような輝きを放っている。長大なテーブルは磨き上げられた銀器と絹のクロスで整えられ、両脇には整然と椅子が並び、壁際には侍従たちが控えていた。
貴族の威光と格式を示すにふさわしい、荘厳な空間――。
そこに現れたのは、瑠璃色のドレスを纏ったエリス。
深い青は白い肌を際立たせ、幼さを残した顔立ちに凛とした陰影を与えている。
その姿に、侍女や従僕たちが思わず小声を漏らした。
「……エリスお嬢様?」
「なんだか、いつもと……」
「本当に、あのお嬢様なのか…」
ざわめきが広がっていく。
無理もない。
これまでのエリスは気に入らないことがあれば癇癪を起こし、従者に八つ当たりをするのが常だった。彼らにとって“姫君”は恐れと緊張の対象であり、腫れ物に触るように接してきたのだ。
その空気を断ち切るように、クラウスが一歩前へ出て鋭く視線を走らせる。
冷ややかな眼差しに射すくめられた従者たちは、息を呑み、途端に声を失った。
大食堂には再び静寂が戻り、瑠璃色の裾を揺らすエリスの足音だけが響く。
(……みんな、驚いているわね)
向けられる視線に、エリスは内心小さく胸を痛めた。
かつて自分が彼らをどれだけ困らせてきたかを思い出し、頬がわずかに熱を帯びる。
(本当に……申し訳ないことをしてきたわ。これからは、きちんとしないと)
椅子に腰を下ろした瞬間、違和感が彼女を襲った。
いつもの席なのに身体のサイズ感が昨日までと違うからか、座り心地が妙に変わっている。背筋を伸ばしても落ち着かず、指先はそわそわと膝の上をさまよった。
そんな娘の様子を、エドムンドは口元に柔らかな笑みを浮かべて見守っていた。
しばしの静寂の後、扉の向こうから足音が近づいてくる。
やがて現れたのは、二人の青年――エリスの兄たちだった。
(ロイドお兄様…ヴィルお兄様――)
兄たちの姿を瞳に映した瞬間、胸の奥がひりつくように痛む。
エリスの顔はぎこちなく歪み、
視線が――交わった。