第4話 冒険者の覚悟:ゴブリンの襲撃後編
「あれが……ホブゴブリン」
空ちゃんの緊迫した声に、僕は聖剣を握り直す。
初めて対峙する上位種。そいつは、地響きを立てながらゆっくりと歩み出てきた。
僕が見上げるほどの大男――いや、優に二メートルはある筋骨隆々の巨体だ。
無数の傷が刻まれた分厚い皮膚と、知性を感じさせる鋭い眼光。明らかに格が違う、圧倒的な威圧感を肌で感じる。
「ギャオォォォッ!!」
空気を震わせる咆哮に、近くの店の窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げた。
同族たちの死体が沈む血の海を一瞥し、奴は顔を醜く歪ませる。そして、圧倒的な殺意と憤怒の形相で僕を睨みつけると、猛然と突進してきた。
――速い!
迎え撃とうと剣を構えた、その時だ。
奴は走りながら、足元に転がっていたゴブリンの死体を鷲掴みにし、弾丸のように僕へと投げつけてきた。
「なっ……!?」
仲間の死体を盾にするなんて。
予想外の非道な攻撃に視界を塞がれ、僕の動きが一瞬遅れる。その致命的な隙を、ホブゴブリンは見逃さなかった。
飛んできた死体ごと、丸太のような豪腕が僕の身体を真横から薙ぎ払う。
「がはっ……!」
顔面と胴体にすさまじい衝撃が走り、僕はボロ布のように吹き飛ばされた。
アスファルトを転がり、肺から空気が強制的に吐き出される。視界が明滅し、意識が遠のきかけた。
「お兄ちゃん、負けないで! 冒険者になるって、決めたんでしょぉぉっ!!」
背後から響いた、涙声の熱烈な声援。
その声が、途切れかけた意識の糸を強引に繋ぎ止めた。
(そうだ……ここで負けるわけにはいかない!)
僕は聖剣を杖にして、ふらつく両足に無理やり力を込めて立ち上がる。
だが、ホブゴブリンは追撃の手を緩めない。
両手を頭上で組み、巨大なハンマーと化した拳を脳天へと振り下ろしてくる。
僕は咄嗟に後方へ跳躍した。
ドォォォォンッ!!
一瞬前まで僕がいた場所のコンクリートが粉々に砕け散り、クレーターが穿たれる。
かすっただけでも致命傷。さらに怒涛の連打が迫る。
剣で必死に受け流すが、一撃一撃が大型トラックと衝突したように重い。受けるたびに腕の骨が軋み、激しく痺れた。
(まともに打ち合ったらジリ貧だ……どうすれば!)
決死の回避を続けながら、活路を探して周囲に視線を巡らせる。
その時、視界の端にある場所が映り込んだ。
「こっちだ!」
僕は背を向け、近くの公園にある底の浅い噴水広場へと駆け出した。
あそこは、一日の決まった時間に水が吹き上がる仕掛けになっている。時間的に、もうすぐだ。
僕は激昂して追いかけてくるホブゴブリンを噴水の中心に留まらせるよう、円を描きながらギリギリの回避を続ける。
――そして。
シュバァァァッ!
「ギャアッ!?」
足元から突然吹き上がった高圧の水柱に、ホブゴブリンの巨体が怯み、その動きが完全に止まった。
「今だッ!!」
僕は水しぶきを突き抜け、奴の背後へと回り込む。狙うは無防備な太い首筋。
「『スラッシュ』!!」
魔力を限界まで込めた、渾身の一撃。
しかし――。
「くっ……!」
聖剣の刃は、ホブゴブリンの異常に硬い筋肉に阻まれ、首の半ばでピタリと止まってしまった。
抜けば反撃される。ここを逃せば次はない。
(諦めるな……無理やりにでも、押し通すッ!)
「ギャガァァァァッ!!」
首に刃を食い込ませたままの僕を振り落とそうと、ホブゴブリンが発狂したように暴れ狂う。
凄まじい力で巨体が揺さぶられ、僕の身体を引き剥がそうと、丸太のような腕が何度も背後へ伸びてきた。
振り払われれば終わりだ。僕は必死に剣の柄にしがみつき、暴れ狂う巨体の上で体勢を維持した。
「『スラッシュ』! 『スラッシュ』! 『スラッシュ』!!」
僕は刃を食い込ませたまま、同じ部位に狂ったようにスキルを連続発動させた。
ガギィッ、ガギィッ! と魔力の残滓が激しい火花となって散り、限界を超えた腕の筋肉が悲鳴を上げる。
剣を弾き出そうとする鋼のような筋肉。だが、連発されるスキルの威力に耐えきれず、聖剣の刃がじわじわと、だが確実に肉の奥深くへと食い込んでいく。
あと少し。骨の髄に刃が届いた感触が、両腕に伝わった。
「スラーーーーーッシュッ!!」
絶叫と共にありったけの力を押し込んだ刃が、ついに極太の頸椎を打ち砕く。
圧倒的な質量を持っていた抵抗感がふっと消え去り、深紅の軌跡が見事にホブゴブリンの首を両断した。
ドズゥンッ……。
首を失ったホブゴブリンの巨体が、噴水の水音に混じって崩れ落ちる。
「はぁっ、はぁっ……。お……終わったぁ……っ」
全身の力が抜け、聖剣が手から滑り落ちる。
それと同時に、限界を迎えた僕もまた、水浸しになりながらその場にへたり込んだのだった。
*
(……すごい。ほんとに、すごいよ)
私は、たった今終わった碧お兄ちゃんとホブゴブリンの死闘を、震える思いで見つめていた。
ホブゴブリンは、初心者冒険者が最初に躓く絶対的な登竜門。通常ならば最低でも三人のパーティーで挑むべき相手。
それを、覚醒したばかりのお兄ちゃんは、たった一人で討ち果たしてしまった。
最初は心臓が止まるかと思った。
仲間の死体を投擲するという、データにない凶悪な奇襲。お兄ちゃんが吹き飛ばされた瞬間、私の思考回路は完全にショートしかけた。
けれど、お兄ちゃんは折れなかった。機転を利かせ、最後は気迫で勝利を掴み取ったんだ。
ああ、尊い。泥だらけで水浸しのお兄ちゃんは、この世の誰よりも美しくて、本当にかっこいい……。
……でも。
それをただ安全な場所から見ているだけの自分が、無性に、どうしようもなく悔しかった。
(もし、私が戦えれば……)
私に力があれば、お兄ちゃんのあの白い肌に傷を負わせずに済んだかもしれない。
私に戦闘スキルや魔法があれば、隣に並び立って、あの小さくて頼もしい背中を守ることができたのに。
――またあの時みたいに、ただ庇って助けてもらうばかりなのは、絶対に嫌だ。
「……ッ」
頬を伝った不甲斐ない涙を、お兄ちゃんに悟られないよう、袖で乱暴に拭い去る。
パンッ、と両頬を叩いて自分に気合を入れると、私はとびきり最高の笑顔を作り、大好きな、私のたった一人の英雄のもとへ駆け寄った。
「碧お兄ちゃんっ! ご無事でよかったですわ……!」




