101 『かいけつゾロリ』と学校図書館
こんにちは。
今回は、つい先日あった体験からちらっとSNSでつぶやいたところから、色々な方からお話も聞き、少し考えたことをつらつらと。よろしかったらお付き合いくださいませ~。
さてさて、まずは先日のお話から。
この時期、中学校には当然、新一年生がたくさん入ってくるわけですが。
先日、そのうちの一人の男子から、このような質問を受けました。
「『かいけつゾロリ』ないんですか?」
はい、もうみなさんご存じのあの児童書作品ですね。子どもさんたちからの人気はいまも絶大と聞いております。作者は原ゆたか氏。
ちょっと調べてみましたが、第一巻の初版がポプラ社さんから出版されたのが1987年11月。その後、年2回のペースで出版されつづけてきており、現在ではなんと66巻にもなっているという、大変長大な作品となっているとのこと。
……うわあ、66巻。
さすがにここまでとは思いませんでした。凄いなあ……。
ここまで同じ作品を書きつづけられる作家さんの情熱とご努力には頭が下がりますし、なによりそこまで読者の子どもたちからの支持もある、力のある作品だという証明にもなっていますね。
さてさて。
作品そのものは素晴らしいものだ、というのは前提として、ここからは「それを学校図書館に置く? 置かない?」というお話をしようと思います。
当の男子中学生に対しては、わたくしこのように答えました。
「あ~……『ゾロリ』はないんよ~、ゴメンねえ」と。
まずはなにしろ、巻数が多い。最後の数冊ならまだしも、それを全部入れるには公立の学校図書館のスペースは狭すぎます。まず物理的に無理。予算の問題もありますし。
次に、ここは小学校ではなく、中学校であること。
絵本に親しんでいた子どもたちが、いきなり文字の詰まった本を読むにはハードルが高いので、その中間にあたる部分をこうした作品がつないでくれているという事実はありますよね。ですから、作品の存在価値はじゅうぶんあると思っているのですが(そうして日本では、まだまだそのタイプの作品数が圧倒的に少ないわけですし)、それを中学に置く……というのは、さすがに「う~~ん??」となってしまうわけです。私は、ですが。
と、思っていたのですが。
SNSで少しお話をした司書さんは「中学生でも『読めない』タイプのお子さんが増えていて、ああした作品を置く意味はある」という意味のことをおっしゃっていまして。「なるほどなあ」とも思ったところです。
確かに最近の中学生、昔の自分たちを思い出してみても、ずいぶん「幼い」感じがする子が多いように思うのですよね。精神年齢がかなり幼いような。「まだ小学生です」と言っても通じてしまいそうなお子さんというのが、かなりの数でいらっしゃるように思われます。また、そうしたお子さんは、やっぱり「読む」ことについても未熟なことが多いようです。
そうなると、やっぱり中学校だとしても、少しは「ゾロリ」のような作品も置かれているべきなのだろうか……?? もちろん66巻は無理だとしても、ですが。
さてさて。
ところでこの作品についてはわたくし、司書になる以前にもとある印象的な思い出がありまして。
ムスメが小学生だったころ、その公立小学校の図書館ボランティアをさせていただいていたのですが、そこのボランティアさんがなんというか……とても「意識が高い」感じの方々だったのですね。
とにかく「基幹となる作品」を重視する、とおっしゃる。読み聞かせも、そうした本が中心。
図書館内も、まずはそうした本をしっかりと充実させて、そのほかの作品を入れる際にも目を光らせ、あまり妙な本は入れない……みたいな。
当然というべきか、「『ゾロリ』なんて絶対に入れません!」と豪語なさっていて、さすがの私も「え……?」と思っていたものでした。もちろんマンガも基本的にはNGです。
いやいやいや。
さすがに疑問に感じました。
そこまで大人が「あれは読ませない、これも読ませない」みたいなことを先んじてやってしまっていいのだろうか、と。そうしてしまうことの弊害もきっとあるのではないのかしら……と。
とはいえ当時はそのグループの中での「ペーペー」だったわけなので、何も言いはしませんでしたが(苦笑)。
でもなあ。
子どもたちが図書館にやってきて、「うわあ!」と目を輝かせて手に取る、そんな本があることも大事なんじゃないのかなあ……と、今でもやっぱりそう思います。中学校では、ぱっと手に取りやすいシリーズとして「五分間シリーズ」などがあるわけですが、恐らくその方々からは眉を顰められるようなラインナップでしょうね。
もちろん、私も「基幹となる」素晴らしい作品がしっかりと充実したうえで入れるわけですけれども。
基幹となる作品で思い出すのは、例えば児童文学の金字塔である「くまのプーさん」シリーズや「ピーターラビット」シリーズ、「ドリトル先生」シリーズなどです。
共通して言えるのは、どれも自分あるいは親戚の子どもたちのためにと書かれた、本当に子どもたちのことを考えている常識的な(ただしユーモアと想像力たっぷりの)大人が著した作品ばかりであること。
児童文学作品にとってとても大切なのは、常識のある大人が子どもたちに対して心から「幸せになってほしい」「常識のあるステキな大人になって幸せに生きてほしい」「この物語を、安心して楽しんでほしい」といった、きわめて純粋な気持ちに裏打ちされていることだと思います。
「これで金を稼いでやろう」とか「人気者になってやるぞ」みたいなスケベ心(失礼・笑)のある作品は、今後もやっぱり「基幹となる作品」や「名作」と呼ばれることはないかなと。
「ゾロリ」の作者である原さんがどのような思いで作品を書いていらっしゃるのかは存じ上げないのですが、今のところ頭の固い「基幹となる本至上主義者」からは排除されてしまっている状態なのかな……と、少し心配になったり。
また、先ほど紹介したような「この本はだめ」「『ゾロリ』なんか置かない!」みたいなちょっと「思想強め」なグループさんは正直、わたし自身も敬遠ぎみです。
いまではその小学校にも司書が入っているのですが、両者の関係性、大丈夫なのかな……と遠くから心配しているところです。はあ(溜め息)。
みなさんはどのようにお考えになるでしょうか。
ではでは、今回はこのあたりで。