神の国(2)
――この娘は、何を言っているのだ?
レラズは、仁王立ちのまま、動けずにいた。
「元締様……?」
トゥローは、意外な彼の様子に驚いていた。彼女が、二人の関係を知らないのは、無理もないことだが。
「それは、本当なのか――?」
彼は、天を仰ぎながら尋ねた。その表情はトゥローからは見えなかった。
「はい……」
彼女は、搾り出すように声を出した。
「そうか……」
それっきり、レラズは黙ってしまった。
「レラズくん――」
ドローミが、心配そうに声をかける。彼もまた、かなり衝撃を受けているようだ。いつもの笑みは一切なく、その顔は青ざめている。
レラズは無言のまま、立ち尽くしていた。
これで、すべてが分かった。グレイプの自害の理由は、これだったのだ。
あの溺愛していた娘を亡くした上に、国を継ぐべき王子までも失ったのだ。グレイプが、その責を強く感じたのも無理はない。
そう理性的に考えてはみたものの、やはり抑えられない気持ちがあった。
――レラズさま、ぜひともわたくしたちをお守りくださいね。
彼女の声が、頭の中で木霊する。俺は、彼女を守ると誓ったはずだ。それなのに、約束を守ることはできなかった。
――俺は、何故、同じ過ちを繰り返すのか。
レラズは無意識のうちに、自らの左の耳に手をやった。そこにある宝石が、今は冷たく感じる。
――リョース。
彼は、その愛しい名前を口にする。しかし、空虚な彼の心を埋めることはできなかった。
「元締様、大丈夫ですか……?」
心配そうな様子で、トゥローは彼を見つめている。
レラズは、しばらく無言だったが、やがて口を開いた。
「問題ない。心配をかけた……」
彼は、トゥローに穏やかな視線を向けた。しかし、その瞳の悲しみを隠すことはできなかった。
トゥローは、その悲しそうな眼差しを見て、胸が苦しくなった。どうして、この御方はこんなにも悲しいお顔をされていらっしゃるのだろう? あんなに優しい人が、ここまで表情を曇らせるなんて……。彼女自身も泣きたくなってきてしまった。
「ドローミ、帰ろう――」
レラズは、ドローミに向かって言った。
「あ、ああ。そうだな――」
ドローミは、部屋から足早に出て行くレラズの後を追っていく。
後に残されたトゥローは、彼らの後ろ姿を見送りながら、その場に佇んでいた。
「元締様……」
トゥローは、今まで感じたことのない感情に驚いていた。私は、どうしてしまったのだろう。こんなに胸が苦しくなるなんて、経験したことがない。この気持ちは、一体、何……?
彼女は、自らの感情を抑えきれず、その場に蹲った。
レラズとドローミは、暗く長い回廊を歩いていた。二人とも無言だった。
――あの日も、こんな風景だったな。
レラズは、思い出す。グレイプとヴェッテルの親子と、この通路を歩いたことを。そして、警告の、あの硬貨のことを。
やはり、止めるべきだったのか。レラズは後悔した。ヴェッテルの健気な決心を耳にして、彼女の意思を尊重したが、それは間違いだったのかもしれない。いや、それはかえって正しいことだったのか。……レラズは、頭の中で堂々巡りをしていた。
突然――。
「控えよ、臣民――!」
叱責する声がした。
レラズは、振り向いた。
あの謁見の間で目にした、第三王妃・ヨーレイの姿があった。周りに四、五人の従者を控えさせている。
「妾の歩みを遮るでない! 平伏せんかっ!」
あの冷たい視線で、レラズを睨むように凝視している。
レラズは、彼に似合わず、そそくさとひれ伏す。それを見ていたドローミは、目を丸くした。この男は、時機を見ることに長けている。あのグレイプさんが見込んだだけはあるな、と改めて納得した。
「たかが商人風情で王に謁見するなど、片腹痛い。止ん事無き御方のご尊顔が、汚れるわ――」
ヨーレイは、蔑むような目で彼を見下ろしている。
レラズは、何も口にせず、じっと平伏したままだった。
やがて、ヨーレイは満足したのか、再び歩き出した。
「金の亡者は、それしか能がないのだから、金だけを王家に献上していればいいのじゃ――」
レラズは、微動だにしなかった。
ヨーレイの一団が、過ぎ去っていく。やがて、彼らの足音が聞こえなくなった。
レラズは、顔を上げた。その表情には、厳しいものがあった。だが、何も言葉を発しなかった。
と、そこへ――。
「流石は、前の元締、グレイプに選ばれたことはありますね……」
柔らかい声が聞こえた。
彼らは、声のする方へ視線を合わせた。
そこには、第二王妃・ヨルズが、にこにこしながら立っていた。その隣には、第四王妃・ヒルドが控えている。
「お前のような屈強な男なら、あの子に楯突くのかと思ったのだけれど、案外辛抱強さがあるのね。感心したわ、レラズ」
ヨルズは、優しい視線を彼に送っている。
「もったいないお言葉、誠に痛み入る」
再び平伏しながら、レラズは言った。
「まあまあ。気遣いは不要ですよ。面を上げなさいな」
レラズとドローミは、促されるように顔を上げた。
「レラズ、確かあなたは護衛を生業としているのでしたよね?」
突然の問い掛けに、レラズは驚いた。そんなことまで知っているのか、この王妃は。
「お仕事を、お願いしてもいいかしら――?」
レラズは、再び呆気にとられた。王妃自ら仕事を依頼するのか――。
「こちらのヒルドの息子――そう、第一王子のミンネが、このたび初めての『ドラヘ』狩りに赴くことになったのだけれど、その警護をお願いできないかしら――?」
王子の警護だと……? レラズは、予想もできなかった。
「一国の跡継ぎなのだから、こういった経験も必要ですからね」
そう言う、ヨルズの隣でヒルドが、心配そうに尋ねる。
「ヨルズさま、この男は本当に信頼できるのでしょうか? あたくし、心配で心配でたまりません。王命ですから仕方がありませんけど、もしも、あの子に万が一のことがあったら、あたくし、どうしたらよいのでしょう……」
今にも泣き崩れそうな、ヒルドを横目で見ながら、レラズは答えた。
「承知した。その仕事、承ろう」
その言葉を耳にして、ヨルズは喜んだ。
「感謝します、レラズ。頼みましたぞ――」
ヨルズは、真剣な眼差しでレラズを見ている。
レラズは、頷いた。




