第一話 魔王を倒したら、そこは東京?
最初にリゼを捉えたのは、光だった。
ただ明るいのではない。
目に映るものが、あまりにも多い。
空へ伸びる建物の壁には、鮮やかな色彩が幾重にも重なり、陽の下にありながら、自ら光を放っている。
そのさらに上。
建物の一面を覆うほど巨大な光の壁で、人が笑っていた。
「・・・?」
リゼが見上げる。
女の顔が消える。
代わりに見たことのない文字が流れ、その文字もすぐにほどけるように消えて、今度は透き通った水と果実が現れる。
色が人になり。
人が文字になり。
文字が景色になり。
景色がまた別の何かへ姿を変える。
魔法陣はない。
魔力の流れも感じない。
なのに、建物が次々と違う幻を見せてくる。
「・・・なんなの、あれ」
答えを待つ間にも、街は姿を変え続ける。
視線を下ろせば、建物の内側にも光が満ちていた。
外の鮮烈な輝きとは違う。
透明な壁の向こうには、夕暮れの暖炉を思わせる柔らかな明かりが灯り、その中で人々が腰掛け、何かを飲み、話し、笑っている。
すぐそばを膨大な人の群れが行き交っているというのに、薄い透明な壁を一枚隔てただけで、そこには別の時間が流れているようだった。
そして。
リゼは奇妙なことに気づく。
これほど大勢の人間がいるのに、誰も道を渡ろうとしない。
地面に引かれた白い線。
その手前に、人々が次々と集まってくる。
誰かに命じられた様子はない。
兵士もいない。
門番もいない。
それでも皆、見えない境界でもあるかのように、同じ場所で足を止める。
人が増えていく。
後ろへ。
さらにその後ろへ。
やがて人の群れは、押し寄せた水が堤にせき止められるように膨らんでいった。
なのに。
誰も白い線を越えない。
「・・・?」
リゼが首を傾げた、その前を。
人を中に閉じ込めた、車輪のある物体が走り抜けた。
一つではない。
次から次へとやってくる。
陽光を鏡のように滑らせるもの。
人を何人も呑み込めそうなほど大きなもの。
磨かれた黒曜石を思わせる艶をまとったもの。
そのどれにも馬はいない。
引いている獣もいない。
それなのに、車輪は回り、人を乗せた箱は地面の上を滑るように駆けていく。
そのたびに空気が押し分けられ、熱を帯びた風がリゼの頬を撫でた。
その風には、森にも王都にもなかった匂いが混じっている。
乾いた金属。
日に焼かれた石。
どこか鼻の奥へ残る、油にも似た刺激。
そこへ、人々の衣服から漂う淡い香りが入り込み、通りのどこかから流れてきた焼き菓子の甘さが、ほんの一瞬だけすべてを包み込む。
甘い。
そう思った途端。
もう、その香りは人の流れにさらわれていた。
代わりに。
街の音が押し寄せてくる。
車輪が路面を撫でていく重い響き。
何かを急かすように空気を突き抜ける短い警告。
幾百もの靴底が硬い地面へ刻む、不揃いな足取り。
笑い声。
話し声。
建物のどこかから流れてくる音楽。
姿の見えない誰かが、大勢へ向かって語りかけている声。
それらは一つとしてリゼを待ってくれない。
一つの音を掴もうとすれば、その上を別の響きが横切る。
そちらへ意識を向ければ、さらに奥から別の音が現れる。
森の音なら辿ることができた。
葉を揺らしたのは風。
枝を鳴らしたのは鳥。
草を踏んだのは獣。
王都の喧騒にも、音には持ち主がいた。
蹄。
荷車。
鍛冶屋の槌。
商人の声。
酒場の笑い。
だが、ここでは音の持ち主を見つけるより早く、次の音が生まれてしまう。
無数の響きが互いを押し退けながら、しかし完全には消し合わず、一つの巨大なざわめきとなって街を満たしている。
まるでこの街そのものが呼吸している。
眠ることを忘れた巨大な生き物の体内へ、三人だけが迷い込んでしまったようだった。
そのとき人々のそばで灯っていた光が変わった。
リゼには、その意味が分からない。
けれど人々には分かるらしい。
つい先ほどまで白い線の前で止まっていた群れが、一斉にほどけた。
「えっ・・・」
前から。
右から。
左から。
斜めから。
人が交差点へ流れ込んでくる。
巣を揺さぶられ、四方へ散った蟻の群れを思わせるほど複雑な動き。
なのに誰ともぶつからない。
肩が触れそうになれば、どちらかがわずかに身体を傾ける。
進む先が重なれば、一方が半歩だけ速度を緩める。
目を合わせることさえないまま、互いの隙間へ滑り込み、擦れ違い、そのまま別々の方向へ消えていく。
指揮する者はいない。
号令もない。
それなのに。
何百という人間が、見えない何かに導かれているかのように動いている。
「・・・魔法?」
思わず。
リゼの口から言葉がこぼれた。
だが魔力を感じない。
精霊の気配もない。
術式もない。
それが余計に分からない。
分からない。
だから。
見たい。
知りたい。
確かめたい。
恐怖より先に、その感情が胸の奥から込み上げてくる。
リゼの青い瞳が、ゆっくりと輝き始めた。
つい先ほどまで魔王と命を懸けて戦っていた剣聖は心を奪われていた。
「・・・ ・・・ すごい」
それしか言えなかった。
けれど、その一言には彼女が今見ている世界のすべてが詰まっていた。
「リゼ」
低く、落ち着いた声がした。
「動くな」
「動いてないよ」
「お前の場合、その返事をしてから動く」
「ひどくない?」
「事実だ」
リゼが隣を見る。
ここに、この街の法則から切り抜かれたような男が立っていた。
陽光を受けた白銀の全身鎧。
肩から落ちる濃紺のマント。
行き交う人々の軽やかな衣服とはあまりにも違う、戦場を生き抜くための装備。
だが 人々が振り返る理由は、それだけではない。
兜はない その必要がないからだ。
鎧の襟から伸びているのは、人の首ではなかった。
滑らかな丸みを持つ頭蓋。
鼻があるべき場所には暗い空洞。
頬を覆う肉も、皮膚もない。
深く窪んだ二つの眼窩。
その奥で 小さな青い光だけが、静かに揺れている。
スルス・フォン・アイン。
古の呪いによって、全身を骸骨の姿へ変えられた騎士。
幼いリゼの手に初めて本格的な剣を握らせた師であり。
何度叩きのめされても立ち上がってくる少女に、呆れながら剣を教え続けた男。
そして今では魔王軍との戦場で互いの死角を預け、言葉を交わさずとも次に何をするか分かるほど長く戦ってきた相棒でもある。
「スルス」
「なんだ」
「あれ、何?」
リゼが車道を指差す。
「分からん」
今度は巨大な光の壁。
「あれは?」
「分からん」
頭上を指す。
「じゃあ、あれ」
「分からん」
「……スルス」
「なんだ」
「全然分かってないね」
青い光が、すっとリゼへ向いた。
「お前もだろう」
「私は最初から分かってないもん」
「胸を張るな」
「でもスルスって、だいたい何でも知ってるじゃん」
「長く生きていれば何でも知るようになるわけではない」
「そうなの?」
「知らないものが増えていくだけだ」
「・・・」
リゼが少し考える。
「なんか格好いい」
「そういう話をしているんじゃない」
「私も少し格好いいと思いました」
柔らかな声が加わった。
スルスの眼光が、今度は反対側へ向く。
そこに立っていた女性は、周囲の喧騒からほんの少しだけ距離を置いているように見えた。
長い銀髪には、ごく淡いラベンダーの色が溶けている。
人の群れを見つめる瞳は、森の深部に陽光が差し込んだときのような澄んだ緑。
髪の間から伸びる耳は人間より長く、細い先端が外へ向かっている。
ヒュパティア・チアイ。
神聖王国チアイのお姫様。
そして、精霊の加護を受けるエルフの聖女。
彼女の力は敵を打ち倒すためというより、誰かを生かして帰すためにある。
傷を癒やし。
刃を阻み。
仲間の身体へ加護を与える。
三人が魔王城まで辿り着けたのも、彼女が幾度となく二人を死の側から引き戻したからだった。
穏やかな女性である。
少なくとも リゼよりは。
「ヒュパティアまで」
スルスが言う。
「ふふ。すみません」
まったく反省していない声だった。
リゼがヒュパティアへ近づく。
「ねえ、ヒュパティアは何か分かる?」
「そうですね……」
ヒュパティアは街を見渡した。
光の壁。
車輪のある乗り物。
人の流れ。
空へ伸びる建物。
そして、皆が手にしている薄い板。
しばらくして。
「何も分かりません」
「だよね!」
「なぜ喜ぶ」
「私だけじゃないから」
「安心するところが違う」
だが、そう言うスルス自身にも答えはない。
三人そろって 知らない。
それがこの状況のすべてだった。
ほんの少し前まで三人の周囲にあったのは、この眩しい街ではなかった。
黒い石柱。
床を這う赤黒い紋様。
青紫の炎。
呼吸するだけで身体の内側へ入り込んでくるほど濃密な魔素。
そこが魔王城。
その最奥で長く続いた戦いは、終わった。
魔王は消滅した。
世界を覆っていた巨大な魔力が失われ、あれほど重かった空気が嘘のように軽くなっていく。
三人とも傷だらけだった。
立っているだけでもつらい。
それでも。
終わった。
帰れる。
そう思った。
だが・・・
魔王が消えた場所に何かが残っていた。
何もなかったはずの床を、小さなものが転がった。
やがて止まる ・・・ 黒銀色で手のひらに収まりそうな円盤。
その周囲には、幾重もの細い輪が重なっていた。
中央には、淡い青色の結晶。
そして表面には。
三人の誰も知らない文字が、びっしりと刻まれていた。
最初に近づいたのは。
当然。
「リゼだったな」
現在のスルスが言った。
「え?」
「いや。何でもない」
「なにそれ」
「思い出していただけだ」
「何を?」
「お前が余計なものへ触れた瞬間を」
「余計なものって言わないでよ。あれが何か分からなかったんだから」
「分からないものに触れるなと言っている」
「でも、触らないと分からないじゃん」
「その考え方を改めろ」
「嫌」
「即答するな」
ヒュパティアが小さく笑った。
実際、あのときも、そうだった
リゼが円盤へ手を伸ばしスルスが止めヒュパティアが心配そうに見ていた。
そして・・・
リゼの指が触れ中央の結晶が光った。
円盤を取り巻く細い輪が、互いに違う方向へ動き始めた。
魔法陣ではない三人が知るどの術式とも違う。
空間そのものが薄い布を指で摘み上げたように歪んだ。
床が消えた。
天井が消えた。
身体の重ささえ消えた。
一瞬だったのか?長い時間だったのか?
それすら分からない。
そして ・・・気がつけば三人はここにいた。
「スルス」
リゼが声を潜めた。
「なんだ」
「あれ・・・持ってるよ」
「出すな」
「まだ何も言ってない」
「顔を見れば分かる」
「顔?」
「出して調べてみようと思っただろう」
「・・・ ・・・ちょっとだけ」
「駄目だ」
「でも――」
「駄目だ」
「まだ何も――」
「駄目だ」
「三回言った」
「三回言わなければ、お前は聞かん」
ヒュパティアが口元を押さえる。
「ふふっ」
「ヒュパティア、笑ってないで助けて」
「今回はスルスに賛成です」
「ええー」
「ここがどこなのかも分からないのですから。あれをもう一度動かして、さらに知らない場所へ飛ばされたら困ります」
「・・・」リゼが想像する。
そして素直に頷いた。
「それは困る」
「だろう」
「じゃあ、ここを調べてからにしよう」
「なぜ最終的に触る前提なんだ」
「調べるため?」
「疑問形にするな」
三人の会話を通り過ぎる人々がちらちらと見ていく。
当然だったこの街では誰も身につけていない鎧。
剣。
聖杖。
長い耳。
そして骸骨。
中には歩みを緩める者もいる。
少し離れたところから、手のひらほどの薄い板を三人へ向ける者もいた。
その板が一瞬、光った。
リゼが反応した。
「今、光った」
「リゼ」
「あの人が持ってるやつ」
「見るだけにしろ」
「分かってる」
「近づくな」
「分かってるって」
「追うな」
「・・・」
「なぜ黙る」
「先に全部言われた」
ヒュパティアが、とうとう声を立てて笑った。
「スルスはリゼのことを、本当によく分かっていますね」
「長い付き合いだからな」
「なんか納得いかない」
そのときヒュパティアの表情が変わった。
「・・・リゼ」
「ん?」
「あそこ」
彼女が指したのは。
建物に掲げられた文字だった。
見たことがない三人の世界の共通文字でも。
エルフ文字でも、古代語でもない。
形そのものに覚えがない。
なのに「・・・読める」
リゼが呟いた。
読める、という表現さえ少し違った。
文字を一つずつ理解しているわけではない。
見つめると意味だけが頭の中へ落ちてくる。
「私もです」
ヒュパティアが答えた。
スルスも黙って看板を見ている。
「スルス?」
「ああ」
「読める?」
「・・・意味は分かる」
「やっぱり」
三人の視線が同時にリゼの腰元へ向いた。
正確にはそこへ収納されている黒銀色の円盤へ。
これも、あれの力なのかな」
「可能性はある」
「便利だね」
「まず不気味だと思え」
「でも言葉が分からなかったら、何もできないよ?」
「だからといって正体不明の道具を信用する理由にはならん」
「スルスは心配性だなあ」
「お前が無警戒すぎるんだ」
「ヒュパティアは?」
突然振られ。
聖女は少し考えた。
「私は・・・」
二人を見る「便利だとは思います」
リゼが笑う。
「ほら!」
「ただし」
「え」
「スルスの言う通り、警戒は必要ですね」
「どっちの味方なの」
「二人の味方です」
微笑んで言われるとリゼには返す言葉がなかった。
やがて人々の流れが再び止まった。
三人も真似をして白い線の手前に立つ。
リゼは周囲を見た。
隣に立つ人の手には、先ほどから気になっている薄い板。
指先で触れるたび光る面の中身が変わる。
文字。
人の顔。
料理。
地図のようなもの。
また文字。
一枚の板の中に、いくつもの世界が閉じ込められている。
リゼの身体がほんの少し傾いた。
「リゼ」
「・・・ ・・・」
「リゼ」
「見てるだけ」
「身体が近づいている」
「目が悪いの」
「嘘をつけ」
「ちょっとだけ
「戻れ」
「でも、あれすごくない?」
「戻れ」
「魔力ないんだよ?」
「リゼ」
「なのに絵が動いて――」
後ろからヒュパティアがリゼの腕をそっと取った。
「戻りましょうね」
「ヒュパティアぁ」
「人の物を覗き込んではいけません」
「・・・はい」
ヒュパティアに言われるとなぜか素直だった。
スルスの青い光が細くなる。
「なぜ私のときより聞き分けがいい」
「言い方かな」
「ほう」
「いや、今のなし」
再び人々のそばの光が変わる。
人の群れが動き始めた。
今度は三人も、その中へ入る。
「おおぉ・・・」
リゼが思わず声を漏らす。
周囲から人が来る。
前からも。
横からも。
斜めからも。
だが歩いてみると分かる。
人の流れには、ほんの小さな隙間が絶えず生まれている。
そこへ足を運ぶ。
すると次の隙間が現れる。
誰かの肩が近づけば少し身体をずらす。
向こうも同じようにずれる。
たったそれだけで道が生まれる。
「すごい・・・」
リゼが笑った。
「なんか楽しい」
「遊びではない」
「分かってるって」
「なら前を見ろ」
「あっ、あれ何?」
「前を見ろ!」
リゼの視線の先には透明な壁の向こう。
ふっくらと焼き上がった生地へ、白いものがたっぷりと重ねられている。
果実。
艶のある蜜。
淡い湯気。
そこから流れてきた甘い香りが、人の体温と乾いた街の匂いを縫って、リゼの鼻先へ届いた。
「・・・」
足が遅くなる。
スルスが気づいた。
「リゼ」
「なに?」
「今度は何だ」
「何も」
「ではなぜ歩く速度が落ちた」
「・・・いい匂いが」
ヒュパティアも。
わずかにそちらを見る。
「確かに」
「ヒュパティア」
「はい?」
「なぜお前まで見る」
「香りがしましたので」
「目が笑っているぞ」
「気のせいです」
「絶対食べ物だよ、あれ」
「まず状況確認だ」
「見るだけ」
「駄目だ」
「じゃあ状況確認しながら見る」
「意味が変わっていない」
「歩いてたら、この場所のことも分かるじゃん」
スルスが止まった。
反論しようとして。
止める。
完全な間違いではない。
それを察したリゼの口元が上がった。
「……勝ち誇るな」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてある」
ヒュパティアが微笑んだ。
「私は、リゼの案でもよいと思います」
「ヒュパティア」
「じっとしていても、ここがどこなのかは分かりませんから」
「ほら」
「リゼは調子に乗らない」
「はい」
今度は即答した。
スルスの眼窩の青い光が、二人を交互に見る。
魔王と戦っていたときより疲れて見えるのは。
おそらく気のせいではない。
三人は歩き始めたどこへ向かうのかはまだ誰も知らない。
自分たちがいる場所の名前さえ、まだ知らない。
ましてこの世界がどれほど広いのか。
あの金属の箱がどこまで走るのか。
人々が手にする薄い板で何ができるのか。
空へ伸びる建物の中に何があるのか。
そしてこの街の向こうに何が待っているのか。
何一つ知らなかった。
リゼは歩きながら、何度も振り返った。
光の壁が、また姿を変えている。
車輪のある物体が、人を乗せて走り去っていく。
白い線の前では、次の人の群れが静かに溜まり始めている。
やがて光が変わればまた街の血流が一斉に動き出す。
不思議な場所だった。
あまりにも多くのものが動いているのに街そのものは崩れない。
魔法のように見えるのに魔力はない。
見たことのないものばかりなのに。
なぜかもっと奥へ行ってみたくなる。
リゼは前を歩く人々の向こうを見た。
その先にも道がある。
さらに向こうにも。
建物の隙間から、また別の光が見える。
「ねえ、スルス」
「なんだ」
「ヒュパティア」
「はい」
二人がリゼを見る。
リゼは笑っていた。
魔王へ剣を向けたときとは違う。
勝利したときとも違う。
まだ何も知らなかった幼い頃、初めて剣を握った日にこの先に何があるのだろうと目を輝かせた。
あの頃と同じ顔だった。
「ちょっと、歩いてみようよ」
スルスが答える。
「まずは状況確認だ」
「だから、歩きながら」
「お前の場合、途中から目的が変わる」
「変わらないよ」
甘い香りが流れてきた。
リゼの目が横へ動く。
「今、変わったな」
「変わってない」
「食べ物を見ただろう」
「見ただけ!」
ヒュパティアが笑う。
「ふふっ」
「ヒュパティアも行く?」
「そうですね」
「ヒュパティア」
スルスが呼ぶ。
聖女は少しだけ振り返った。
そしていつもの穏やかな微笑みを浮かべる。
「リゼを止めに行きます」
「目が笑っているぞ」
「気のせいです」
「絶対食べたい顔してる!」
「リゼ」
「はい」
「余計なことを言わない」
「はーい」
二人が歩き出す。
「待て」
スルスが残される。
「お前たち」
返事はない。
「勝手に行くな」
少し先で。
リゼが振り返った。
「スルスー! 早く!」
「・・・」
青い光が揺れた。
それが呆れなのか。
諦めなのか。
骸骨の顔から読み取ることは難しい。
ただスルスは二人を追って歩き始めた。
頭上では巨大な光の壁が、また別の景色を映し出している。
足元では何千という人々が、それぞれの今日へ向かって歩いていく。
誰も異世界から三人の英雄がやって来たことなど知らない。
東京という巨大な街も。
彼らを歓迎するでもなく。
拒むでもなく。
ただいつも通りに呼吸を続けていた。
魔王を倒した。
世界を救った。
これで冒険は終わるはずだった。
だが。
どうやら。
世界というものは彼らが思っていたより、ずっと広かったらしい。
この先。
古い都の森を歩くことも。
山あいを流れる清らかな水に触れることも。
見上げた夜空いっぱいに咲く光を、三人で眺めることも。
海の向こうまで続く青さに言葉を失うことも。
まだ知らないこの国で出会う人々も。
料理も。
祭りも。
季節も。
そして自分たちがこの世界を好きになっていくことさえ。
三人はまだ何も知らない。
だからこそ。
旅はここから始まる。
剣聖リゼ・バーソロミュー。
聖女ヒュパティア・チアイ。
髑髏騎士スルス・フォン・アイン。
魔王を倒した三人の次なる冒険は剣を抜くことではなく見知らぬ街を自分たちの足で歩いてみることから始まった。




