第1話 『眼鏡の男』
魔王は、死んだはずだった。だが、その魔力は今、確かに脈動している。
長きにわたり静まり返っていた魔界で、小さな異変が起きていた。魔王の死と共に衰退したはずの魔力が、近年になって再び各地で姿を現し始める。
その源を探るため、一つの任務が密かに動き出していた。
◇
都内某所。
男は一人、誰もいないリビングを後にしてバルコニーへ出た。眼下には住宅街が広がり、夕陽は街をゆっくりと茜色へ染めている。
頬を撫でる風はどこか心地よく、帰宅を急ぐ人々の足音も、遠くから聞こえる学生達の笑い声も、この街ではありふれた夕暮れの景色として流れていく──。
銀縁の眼鏡の奥で、男はわずかに目元を緩める。慌ただしく過ぎていく毎日の中で、こうして足を止める時間は決して多くない。
だからこそ、この何気ない黄昏が少しだけ心地よかった。
ブブッ……。
胸元で震えた着信音が、男の意識をそっと現実へ引き戻す。男は通話ボタンを押すと、それを肩と耳で挟んだまま銀縁の眼鏡を外した。
ポケットから取り出した眼鏡拭きを広げ、慣れた手つきでレンズをゆっくりと磨いていく。視界の向こうには、柔らかな景色だけが淡く滲んでいた。
「はい。ええ。」
落ち着いた声だけが、受話器の向こうへと淡々と紡がれていく。
「予定通りです。本人も無事に卒業式を終えました。能力の覚醒も見られません。ご安心を。」
返事を待つ束の間の沈黙。遠くを走る車の音だけが微かに届く。
「はい。分かっています。」
男は小さく目を伏せた。
「このまま放置する訳にはいきません。必ずお連れしますので、ご安心くださいませ」
通話が途切れる。眼鏡を掛け直した男は、小さく「さて」と呟き、スーツの襟元へ軽く手を添えながら部屋の奥へ歩き出す。
窓辺では、揺れるカーテンだけが夕暮れと共に静かに揺れていた──。
◇
同じ頃
「またな!」
「高校でもよろしく!」
あちこちから笑い声が聞こえてくる。
進学先の話。
将来の夢。
卒業式を終えた生徒たちは、それぞれの帰路につき、頬を撫でる風はまだ少しだけ冷たい。そんな賑わいの中を、凛斗は卒業証書の筒を片手にぶら下げながら、のんびりと歩いていた。
春休みが終われば高校生になる。けれど、その実感はまだどこにもない。
「ふぁ~……。」
大きな欠伸を一つ。
眠たそうに目を擦りながら、小さく肩を回す。
進学先は決まっている。特別な夢もなければ、やりたいこともない。
別に不満はない。だからといって、期待している訳でもなかった。
「あぁ~腹減ったなぁ。校長の話聞いてるだけで腹減るんだよなぁ。今日の晩飯なんだろ。」
周囲から聞こえてくる未来の話よりも、今の凛斗にはそちらの方が気になっていた。卒業証書の筒をぶらぶらと揺らしながら歩いているうちに、今日が門出の日だったことさえ、どこか他人事のように思えてくる。気がつけば家の前だった。
凛斗は何も考えないまま、いつものように玄関の扉を開けた。
◇
「ただいまー。」
「母さん、腹減っ――」
「おかえり。」
聞き慣れない声に、凛斗の言葉が止まる。
何気なくリビングへ目を向けると、銀縁の眼鏡を掛けた端正な男が、湯気の立つ紅茶と読みかけの新聞を前に、何事もなかったかのようにソファへ腰掛けていた。
皺ひとつない白いシャツ。
穏やかな笑み。
その整いすぎた佇まいだけが、この家の景色から浮いて見える。思わず足を止めた凛斗は、小さく眉をひそめた。
「誰? 母さんは?」
男は紅茶のカップを静かに置き、穏やかな笑みを崩さないまま凛斗を見つめる。
「久しぶりだな。凛斗。私のことを忘れてしまったか。」
「……え?」
目の前の男を見つめたまま、小さく首を傾げる。
「俺、あんたのこと知らないんだけど。」
束の間の沈黙。
「私はお前の叔父だ。」
笑みは少しも崩れず、視線がまっすぐ凛斗へ向けられる。その瞳だけが、淡く光を帯びた。
認識干渉。
他者の記憶へ溶け込み、自らの存在を自然なものとして受け入れさせる魔術。
男にとって、それは幾度となく任務で使ってきた、ごく当たり前の術だった。
凛斗へ届いた認識干渉は、その身に触れた瞬間、白い光となって音もなくほどけ、跡形もなく空気へ溶けていく様を男は黙って見つめていた。指先から放たれた術式が、まるで水面に落ちた雫のように一瞬だけ輪郭を広げ、そのまま何事もなかったように掻き消えていく。
凛斗は男の顔をじっと見つめる。
「てかっ誰?!もしかしてなんかの勧誘?」
「いや…そういう話ではなく。」
「じゃあ母さんの不倫相手とか?!」
一度だけ眼鏡の位置を整え、男は息をついた。
「あはは…困りましたね。」
それきり、二人とも口を開かなかった。笑みを浮かべたまま動かない男を前に、凛斗もただ立ち尽くす。居心地の悪い沈黙だけが、リビングをゆっくりと満たしていく。
やがて玄関の扉が開き、買い物袋を提げた母親が慌ただしく帰ってきた。リビングへ入るなり、不思議そうに二人を見比べて小さく首を傾げる。
「あらやだ。そんなところに立って、どうしたの?」
「いや、その前に。」
凛斗は母親へ歩み寄ると、そのまま男を指差した。
「誰、あの人。」
母親は一瞬きょとんと目を丸くしたものの、すぐに吹き出すように笑った。
「何言ってるの。覚えてないの? 母さんの弟よ。小さい頃に一度会ったでしょう。」
そう言うと、それ以上気にする様子もなく買ってきた食材を冷蔵庫へしまい始める。いつもの夕暮れと何ひとつ変わらず、夕飯の支度を進める。
穏やかな笑みを浮かべる男。
戸惑ったまま立ち尽くす凛斗。
同じ部屋にいるはずなのに、二人が見ている世界だけが、どこか噛み合っていなかった。
「あら、そういえば。」
ふと思い出したように振り返った母親は、テーブルへ置かれたパンフレットを手に取る。
「知り合いが学園長をしている学校なんですって。凛斗にどうかって、わざわざ持ってきてくれたのよ。」
差し出された一冊を、凛斗は半ば流されるまま受け取った。
何気なくページをめくる。
目に入るのは、広々としたグラウンドや設備の整った校舎、学園で過ごす生徒たちの姿。どのページからも、恵まれた環境であることは十分に伝わってくる。けれど、それだけで興味を惹かれることはなかった。
そのまま閉じようとした指先が、ふと止まる。最後のページに掲載されていたのは、一枚の授業風景だった。
教室いっぱいに広がる笑顔。その輪の中で、生徒達と肩を並べるように、一人の若い女性が爽やかに微笑んでいる。特別な一枚には見えない。
それでも、なぜかその写真だけはページをめくる手を先へ進ませなかった。
男は凛斗の視線の先を見つめ、笑みを浮かべる。
「気になりますか?」
「気になるっていうか、みんな楽しそうだなぁって。それに、めっちゃ美人だし」
「その方はこの学園の教師ですよ。」
「マジか。先生なの?!」
凛斗はもう一度、その写真へ目を落とした。
「良かったじゃない。」
「こんな学校なかなか無いわよ。」
弾んだ声がリビングへ柔らかく響く。パンフレットから顔を上げると、そこには嬉しそうな笑顔があった。
進路の話になるたび、「大丈夫」と笑ってくれた。定時制高校へ進むと決めた日も、最後まで反対はしなかった。それでも、その笑顔の奥にある不安だけは隠しきれていなかった。今、その面影はどこにもない。肩の力まで抜けたような笑顔。
進路の話をしている時に見てきたどの笑顔よりも、ずっと晴れやかだった。
机の上で開かれたままのパンフレットへ、静かに視線が落ちる。
「まぁ、悪くなさそうだし。俺、この学校にいくよ。」
「本当!?」
その一言に、母親の笑顔がぱっと花開く。
「うん。」
男はそのやり取りを見守りながら、冷めかけた紅茶へそっと口をつけ、その表情は変わらない。それでも肩からは、わずかに力が抜けていった。
◇
その夜。
自室のベッドへ寝転びながら、凛斗は静かに天井を見上げていた。机の上には、蒼天学園のパンフレットが置かれている。
知らない場所。
知らない人達。
知らない生活。
頭の中で思い浮かべようとしてみても、そこにある景色はまだぼんやりとしていた。昼間の出来事を思い返す。眼鏡をかけた謎の男に、パンフレットの中で笑う生徒たち。
そして、あんなに嬉しそうに笑っていた母親の顔。どれも、ほんの数時間前の出来事とは思えないほど静かに胸へ残っていた。退屈だと思っていた毎日は、明日もきっと変わらない。
そう思っていた。
けれど今は、その続きに少しだけ違う景色があるのかもしれないと、そんなことを考えている自分がいた。窓の外では、春を運ぶ夜風が静かにカーテンを揺らす。凛斗は小さく息を吐くと、ゆっくりと目を閉じた。
◇
同じ夜。都内某所のホテルの一室。
窓の外には、無数の光を散りばめた夜景が広がっていた。眼下を流れる車のヘッドライトが、川のように光の筋を描いている。
男は窓辺に立ったまま、その景色をしばらく眺めていた。銀縁の眼鏡には、街の灯りが小さく映り込んでいる。
ブブッ……。
机の上に置かれたスマートフォンの振動に、男は静かに振り返る。通話ボタンを押すと、落ち着いた声だけが暗い室内へ紡がれていく。
「はい。本人の説得は、無事に済みました。」
「近く蒼天学園へお連れすることができます。」
窓の外を、一機の飛行機がゆっくりと光を瞬かせながら横切っていく。男はその軌跡を目で追いながら続けた。
「ご安心ください。すべて、予定通りです。」
通話が途切れる。男は眼鏡を外すと、夜景を映したままの窓へ、もう一度だけ視線を向けた。
窓の向こう、遠く離れた住宅街のどこかで、一人の少年が穏やかな眠りについている。
男の長い一日が終わりを告げた。




