第0話 プロローグ『約束の果て』
――その転生は、失敗ではなかった
誰にも気づかれないまま、たった一つだけ運命は書き換えられた
その日、世界はまだ何も知らない
◇
数千年前
長き戦争の末
魔界の王と人間界の女王は、互いの命と引き換えに争いへ終止符を打つ
静寂
血に染まる大地
折れた剣
崩れ落ちた二つの影
もはや、その身体は微塵たりとも動かない。吹き抜ける風が砕けた剣の傍らを撫でながら二人の間を通り過ぎ、その足元へ淡い青白い光が広がっていく。幾重にも重なる魔法陣は二人を包み込むように浮かび上がり、巡る術式だけが、淡い輝きを繰り返す。
王にのみ許された転生魔術。
命を代償に、その魂を未来へ繋ぐ最後の秘術。
乾いた足音が静寂へ落ちる。近付いた影は倒れ伏す二人の前で足を止め、青白く巡る術式を見つめたまま、小さく肩を震わせる。
「王である二人が、なんとも哀れな姿だ。」
くつり。喉の奥で漏れた笑いが、静まり返った 空気へゆっくりと滲んでいく。
「まさか己の命に転生魔術を施すとは……。」
その笑みは消えない。
「実に愉快な茶番劇。ましてや、世とはそんなに 美しいものではない。」
片手をかざし、低く紡がれた詠唱が夕暮れへ溶け、指先から滲み出た赤黒い魔力は、幾筋もの細い糸を描くように青白い術式へ静かに流れ込む。
指先の周りには小さな火の粉のような魔力の欠片が舞い、詠唱の一節ごとに空気そのものが重く沈んでいくのが分かった。
ぽたり。
一滴の雫が触れた瞬間、穏やかに巡っていた魔法陣が小さく震え、その最奥から禍々しい赤黒い術式がじわりと滲み始めた。まるで清らかな水に墨を一滴垂らしたように、赤黒い色は円環の隅々まで容赦なく広がっていく。
一文字。
また一文字。
青白い紋様は赤黒い術式に侵され、その輝きを失いながら塗り替えられ広がっていく。神聖な輝きは少しずつ濁り、最後の一文字が染まる頃には、魔法陣には禍々しい赤黒い輝きだけが巡っていた。
誰にも知られることなく。
世界は何も変わらない。
変わるのは、運命だけ。
影の口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「悲劇になるか、喜劇になるか。」
「それもまた、一興。」
その言葉だけを残し、影は夕暮れの闇へ溶けていく。その笑い声の余韻だけが、しばらく風の中に残っていた。誰に聞かれることもなく、誰に見咎められることもなく。
◇
その報せは、やがて各種族へ広がっていった。
本来、王族の転生は死と共に始まる。命が尽きても、その力と意思は新たな王へ受け継がれ、再び種族を導いていく。それは幾千年もの時を経ても、誰一人として疑うことのなかった、この世界の理。
魔王も女王も生誕を告げる報せは届かない。
それでも異変は世界へ少しずつ影を落とし、拭いきれない不安だけが時と共に広がっていく。
いずれ、自分達の種族にも同じことが起こるのではないか。
その答えを求めるように、魔王亡き魔界を預かる炎の四天王、吸血鬼の長、精霊族の長、獣人の族長――
王亡きそれぞれの世界を預かる者達は、それぞれの思惑を胸に一つの場所へ集う。
そこは、どの世界にも属さぬ天空の神殿。
果てなく広がる雲海の上には白い大理石で築かれた巨大な神殿が静かに佇む。種族長たちは各々の歩幅で長い回廊を進み、天を支えるように立ち並ぶ柱の間を抜けていく。その歴代の長達が幾度となく向き合ってきた巨大な円卓だけが据えられた部屋が待ち受けている。
重厚な扉が軋む音とともに開く───。
燃えるような紅い瞳を宿した炎の四天王は、大股で部屋に踏み込むと豪快に椅子を引き、我先に腰をおろした。その姿を一瞥した吸血鬼の長は、椅子へ積もった僅かな誇りを指先で丁寧に払い落とし、何事もなかったように背もたれへ身を預ける。少し遅れて姿を現した精霊族の長は小さく息を吐きながら気怠そうに席へ着き、最後に部屋に入った獣人の族長は、円卓を囲む者たちの顔をゆっくりと見渡してから、自らの席へ腰を下ろした。
互いに言葉はない。
衣擦れだけが耳に届き、重い椅子が床を擦る音だけが静まり返った神殿の奥深くへと溶けていく。
◇
誰も口を開こうとはしなかった。同じ空間に集いながらも、互いに何を考えているのか、誰にも分からなかった。
トン。
乾いた音だけが神殿へ響く。
炎の四天王は頬杖をついたまま退屈そうに円卓を指先で叩き、吸血鬼の長は頬杖をついたまま窓へ視線を向け、精霊族の長は椅子へ深く身を沈め、俯いたまま瞳を閉じる。獣人の族長だけが円卓を叩き続ける炎の四天王の指先へ目を向けた。
トン。
誰も動かない。
トン。
乾いた音が止む。
ギィ……。
再び扉が開き、陽光を映したような金色の髪を揺らす一人の天界人が、皺ひとつない白い装束を纏ったまま静かに姿を現す。
その足取りは誰よりも遅れてきたとは思えないほど穏やかで、皆のもとへ歩み寄ると、炎の四天王の隣にぽつりと空いた席には目もくれず、そのまま卓上へ腰を掛けた。
その瞬間、それまで乾いた音を刻み続けていた四天王の指先が止まる。天界人はそんな反応さえ意に介さぬまま四人をゆっくり見渡し、小さく口元を緩めた。
「諸君の悩みは理解している。我が身を案ずるのは当たり前……だが、助けはしない。君たち種 族の危機を防ぐ契約を結ぼう。」
「遅れてきた割に、仕切りやがって……気に入ら んな。」
四天王は苦々しく吐き捨てるのを横目に、吸血 鬼の長は肩を竦める。
「好きにすればいい。私達では話は進まぬ。」
精霊族の長は何も言わず頷き、獣人の族長だけが最後まで黙ったまま天界人を見つめ続けていた。四人の反応を見届けた天界人は満足そうに微笑むと、片手をかざした。
円卓の中央へ淡い金色の魔法陣が浮かび上がり、幾重にも重なる術式がゆっくりと巡り始める。
溢れ出した光は一枚、また一枚と白い契約書を形作り、それぞれの席の前へ音もなく舞い降りた。
契約書の最下部には、誰のものでもない光の文字が刻まれている。
互いに視線を交わすと、何も言わぬまま契約書へ名を記していく。
「では、契約成立だ。」
天界人が席を立ち、扉の向こうへ姿を消しても、しばらくの間、誰一人その場を動こうとはしなかった。
炎の四天王は円卓へ視線を落としたまま、握り締めた拳をゆっくりと解く。魔王亡き魔界を、この手でどう守っていけばいいのか。答えの出ない問いだけが、いつまでも胸の奥にわだかまっていた。
吸血鬼の長は息をひとつ吐き、窓の外に広がる雲海へ目を向ける。契約という言葉の裏に、どれほどの代償が潜んでいるのか。それを知りながらも、他に道がないことも、また分かっていた。
精霊族の長は膝の上で組んだ指先へ視線を落としたまま、動かない。獣人の族長だけが、そんな三人の様子を順に見渡し、やがて誰にともなく小さく呟いた。
「これで、良かったのだろうか。」
その問いに、答える者はいなかった。
やがて四人はそれぞれ部屋を後にし、重い扉の向こうへと消えていく。誰もいなくなった神殿には、巨大な円卓だけが残された。
その日交わされた契約は、数千年の時を経てもなお受け継がれ、やがて種族の垣根を越えて未来を担う者達が集う学び舎となる。
――蒼天学園。
そして今、その運命の続きを知らぬまま、一人の少年が卒業式を迎えていた。




