第二幕 常識という境界線
机の上に置かれた記録を、アシルはもう一度見返した。図書室4分、庭園3分、父親への差し入れは使用人に預けるだけ。残る時間はほぼ全て自分の執務室だった。
「確かにこうしてみると異常だな」
「漸くそう思われましたか」
「だが、悪気はないのだろう。私のところへ行くと正直に申告すれば大仰な手続きを求められるからな」
アシルはそれでもまだニノンを庇う。王太子への面会要請が大仰になるのは当たり前だ。それを嘘をついて会いに来ているのだから、本来なら処罰されて当然の行いだった。その事実に気付いていないのか、或いは解っていて眼を逸らしているのか。
「ジョゼットは忙しいと聞いている。会えないから私のところへ来て、少し話をして帰る。それだけではないのか」
クレマンは静かに首を横へ振った。
「それなら猶更おかしいのです」
「どういう意味だ」
「まず確認いたします。ジョゼット様は現在どちらで王妃教育を受けておられますか」
「王宮だ」
「ここは?」
「王城だ」
「別の建物ですね」
「……ああ」
王城は政務をとる場所。王宮は王族の生活の場であり、王妃教育もそちらで行われる。王都で育った貴族なら、子供でも知っていることだ。
「では、ニノン嬢は殿下になんと仰いましたか」
「姉に会いに来たと」
「では何故王宮ではなく王城へ来られたのでしょう」
アシルは口を開きかける。
「知らなかったのでは──」
しかし最後まで言えなかった。クレマンが待っていたかのように言葉を継ぐ。
「高位貴族令嬢が、王城と王宮の違いを知らないと?」
「いや……」
「貴族なら家庭教育で初期に教わることです」
「……そうだな」
「しかも、姉君は毎日のように王宮へ通っておられる」
「……」
「同じ屋敷に暮らす妹が、それを知らないと本気で思われますか」
思えなかった。アシルは視線を落とす。確かにそれは無理がある。
「では次です」
クレマンは話の内容を一歩踏み込んだ。
「姉君に会いに来たというなら、何故、姉君に会わずに殿下の執務室へと真っ直ぐ来られるのでしょう」
「それは……」
「殿下も、一度も不思議には思われなかったのですか」
そう言われてみれば、ニノンはいつも『お姉様に会いに来ましたの』と笑っていた。実際にジョゼットを訪ねたという話は聞いたことがない。寧ろ──。
「いつも、そのまま私のところへ来ていた……」
「ええ」
「帰るときも」
「そのまま帰られます」
沈黙が落ちた。クレマンはなおも淡々と続ける。
「もう一つ、お尋ねします」
「……なんだ」
「ニノン嬢は、殿下の執務室まで真っ直ぐに来られます。途中の衛士に止められることなく」
「……ああ」
「何故ですか?」
クレマンが鋭く切り込む。これは紛れもなくアシルが考えなしだったのだから、確りと自覚してもらわねばならない。
「……私が許可した」
最初に訪れたとき、侍女や衛士に何度も尋ねられて面倒だったと言われたのだ。
『わたくしはただ、お姉様の婚約者であるアシル様とお話ししたいだけですのに』
そう言われて、衛士に次からはニノンをそのまま執務室まで通してよいと許可を出していた。それは本来、ジョゼットにだけ与えられるべき特権だったはずだ。そのせいで、衛士の一部では『姉が正室、妹は愛妾か』なんてとんでもない噂が囁かれている。
そんなことも忘れて、ニノンが来ることが、止められないことが、いつの間にか当たり前になり、疑問も懐かなくなっていた。
「殿下、そもそも、無位無官の未婚令嬢が、政庁部分に出入りできること自体が異常です」
つまり許可を出したアシルの行動が王太子としては失格なのだ。
「だが、今日は父親に届け物を……」
「公爵閣下へ確認いたしました」
「え?」
「本日です」
アシルは目を瞬かせる。
「公爵はなんと?」
「公爵閣下は使用人が書類を届けに来るとしか伝えていないとのことでした」
「では……」
「公爵家の令嬢でもあり、使用人も同行しておりましたから、門衛も止めませんでした」
アシルが自分の許へ通してもいいと許可を出していることもあり、ニノンはすんなりと王城へと入れた。
「ですが、書類を届ける役目は、執事が果たしております。ニノン嬢は書類を届けてはおりません」
「……そうか」
「執事が公爵閣下の執務室へ向かい、ニノン嬢は別行動です」
「別行動?」
クレマンの答えを聞くまでもなかった。
「真っ直ぐ、殿下の執務室へ」
アシルは思わず額に手を当てた。頭が重い。今迄全く気に留めていなかったことが、繋がっていく。自身の危機意識の欠如。婚約者の妹が望んでいるからと、執務室へ来る許可を与えていた。
王城の図書室や庭園は貴族であれば当日城門で申請すれば訪れることが出来る。だから、王城にニノンが入ることは問題ない。しかし、王城の中でも王太子執務室があるのは政庁エリアだ。ここは簡単に無関係の者が入って良い場所ではないのだ。それなのに、アシルが軽率に許可を与えてしまっていた。
「殿下」
クレマンの声音は責めるものではないはずだった。けれど何処か冷たく棘を感じさせる。それは自身の後ろめたさの所為だろう。
「殿下はお優しい。だから、困っていると言われれば話を聴く。婚約者の妹なら猶更放ってはおけない」
「……ああ」
「ですが、殿下のお優しさは常識という境界線を超えてはなりません」
クレマンは真っ直ぐに刺し貫くようにアシルを見つめた。
「その境界線を越えてしまえば、優しさではなく、軽率さになります」
その一言が深く胸に刺さった。アシルは反論できなかった。優しくしていたつもりだった。困っている婚約者の妹の話を聞いていただけだと本気で思っていた。
だが、もしその行動自体が非常識だったとしたら。もし、その非常識を自分が王太子という立場で赦していたのだとしたら。
自分は一体、どれだけの者に迷惑をかけていたのだろう。そして、自身の非常識な行動が誰を傷つけていたのだろう。
その答えが浮かびそうになった瞬間、アシルは無意識に目を閉じた。まだ、その名前を口にする勇気はなかった。




