第一幕 いつもの訪問
「それではアシル様、また伺いますわ」
鈴を転がすような愛らしい声を残し、ニノン・レオノル・ド・ポワリエ公爵令嬢は優雅に一礼した。
「ああ、気を付けて帰るんだよ」
アシル・ベランジェ・ド・レオタールも柔らかく笑みを返す。満足そうに微笑んだニノンは、侍従が開けた扉の向こうへと消えていった。
静寂が戻る。
「ふう……」
肩の力を抜いたアシルは椅子の背に凭れた。
「やっぱりニノン嬢と話していると癒やされるな」
「……ほう」
執務机の前に立っていた側近、クレマン・ジェルマン・ド・アフネル侯爵令息が、感情の読み取れない声を漏らした。
「ジョゼットは真面目だからな。話していても仕事の話ばかりだ。ニノン嬢は他愛ない話をしてくれるから息抜きになる」
「息抜き、ですか」
「悪いことではないだろう?」
アシルは悪びれもせず答えた。本気でそう思っているなら今すぐ王太子位を返上したほうがいい。今はまだ致命的な失敗はしていないが、そろそろ誰かが動くかもしれない。婚約者であるジョゼット・アナイス・ド・ポワリエ公爵令嬢とか。そう考えながらクレマンは目の前の王太子をじっと見た。
ここ数か月、何度も見てきた光景だった。週に2日、多ければ3日。ニノンは王城を訪れ、当然のように王太子の執務室へ顔を出す。滞在時間は30分ほどで長居をするわけではない。紅茶を飲み雑談をし、笑顔で帰っていく。
最初は偶然かと思った。だが、余りにも頻度が高い。そして何より、毎回のようにアシルが執務を中断して休憩と称し会っていることが、クレマンには理解できなかった。
「殿下、本気で、おかしいとは思われないのですか?」
「何がだ?」
きょとんと、本当に意味が解らないという顔だ。その表情を見てクレマンは内心で頭を抱える。
(やはり、自覚がない)
悪意がないことだけは解っている。だからこそ厄介だ。アシルは自分のことをジョゼットが慕っていると思い込んでいる。確かに婚約者への敬意は持っているだろう。信頼関係を築きたいとも思っているだろう。だが、そこに恋慕の情はない。何度か『わたくしは陛下がお決めになった婚約者ですから』という言葉を彼女の口から聞いている。
ニノンが頻繁にアシルの執務室に出入りしていることも、アシルのことを『アシル様』と名で呼んでいることも知っている。ジョゼットは王太子への敬意を表して『アシル殿下』と呼んでいるというのに。どうやら妹がマウントを取るようにジョゼットに告げているらしい。
これまでにも何度か『妹がお邪魔をしていまい、申し訳ございません』『ご迷惑をお掛けせぬよう対処いたしますので』とクレマンら側近に詫びている。妹を甘やかすだけの両親に苦言を呈しつつ、領地にいる後嗣の兄シメオンと対応を相談しているという。だが、結局のところ王太子であるアシルの意向がはっきりしなければ動きようがない。それもあって、彼女への一助になればとこうしてアシルへの尋問をしているのだ。
「ニノン嬢がおかしいとは思われませんか」
「ニノン嬢?」
「どうして婚約者の妹だからというだけで、殿下に会いに来るのですか」
「どうしてと言われても……」
アシルは首を傾げた。
「婚約者の妹だからだろう?」
何を当たり前のことを、とでも言いたげな顔である。王太子殿下はこんなに愚かだっただろうかとクレマンは頭痛を感じる。
「ジョゼットの妹なんだから、遠い他人ではない」
「ですが、婚約者ではありません」
「それはそうだが」
「殿下との間に何らかの関係がある方でもありません」
「いや、だから、婚約者の妹──」
「殿下」
クレマンは遮った。婚約者の妹というだけで思考停止している。
「では、殿下の弟君、マルセル第二王子殿下が『兄上の婚約者だから』という理由だけで、公爵邸のジョゼット嬢のお部屋へ何度も遊びに行ったら、どう思われますか。まだ幼い弟君ですから問題ないとお考えですか?」
「それはおかしいだろう」
アシルは眉を顰めた。
「何故ですか」
「ジョゼットは私の婚約者だぞ。弟とは何の関係もない」
「先ほどの状況と、何が違うのでしょう」
「……」
アシルは答えられない。そんなアシルにクレマンは淡々と言葉を重ねる。
「殿下はニノン嬢は婚約者の妹だから問題ないと仰いました。マルセル殿下も婚約者の弟だから問題ないはずですよね?」
「そ…それは……」
「互いに婚約者の弟妹。同じ立場ではありませんか」
アシルは口を開いたまま固まった。そう言われれば確かに。違いを説明できない。
「いや、でも……」
「でも、なんでしょう?」
「弟と妹では違う気がする」
「どのように?」
「……」
説明できない。飽くまでもアシルの感覚、感想でしかないのだから。それでも疑問を持ったことにクレマンは初めて表情を少しだけ緩めた。意識が変わってくれるのならば、まだ何とかなるかもしれない。
「殿下、私は貴方を責めたいわけではありません」
「そうなのか?」
「ええ。ただ、殿下にはもっと状況を客観的に見ていただきたい」
「……」
「確りと周囲を冷静に客観的に見て考え、判断していただかねばなりません」
アシルは腕を組んだ。確かに弟の例えは判りやすかった。自分なら弟を止める。いや、止めるどころか非常識だと叱るだろう。では、何故、ニノンには何も思わなかったのか。
「……妹だからだと思っていた。ジョゼットの妹だから、家族みたいなものだと」
ぽつりと漏らす。それにクレマンは呆れた。それは彼の中の表面的な言い訳だ。本心を自分で見て見ぬふりをしている。これでは早晩公爵家から婚約者交代を持ち出されるかもしれない。
だが、取り敢えずはその表面の言い訳から崩す。
「婚約者はまだ家族ではありません。況してやその妹は猶更です」
クレマンの声は静かだった。責める響きはない。ただ事実を積み重ねていく。感情を込めてしまえばそれは私情になるからだ。感情を排し事実を積み重ねるクレマンの言葉、それが却ってアシルの胸に引っかかった。
「殿下はニノン嬢がどれほどの頻度で王城に来られているか、把握しておられますか」
「週に一度くらいではないのか?」
「2日から3日です」
「そんなにか?」
思わず聞き返す。言われてみれば確かによく顔を見る。しかし、数えてはいなかった。となれば、今は週に一度の茶会もままならない婚約者よりも多くの時間を共に過ごしていることになる。これはまずいのではないか。
「父君への差し入れを届けに来た、図書室を利用した、庭園を散策した。毎回理由は異なります」
「そう聞いている」
「ですが、記録を確認しました」
クレマンは机の上に1枚の紙を置いた。入城時間、退城時間、目的、滞在場所。更には滞在場所の滞在時間を警護の騎士や職員から聞き取ったもの。
簡潔に纏められた一覧だった。アシルは特に疑問も持たず目を通す。そして首を傾げた。
「短いな」
「はい。図書室も庭園も完全に立ち寄っただけです。滞在時間は5分に満たない。取り敢えず申請した場所へ行ったという、その証拠を残すだけの行動です」
クレマンの言うとおりだ。図書室で調べ物をするにしろ読書をするにしろ5分未満で終わるわけがない。王城図書室では本の貸し出しはしていないから、返却だけで5分かからなかったなどという言い訳はできない。庭園にしても1周軽く散策するだけで30分はかかる。
「差し入れは……使用人に預けて届けさせているだけ? ニノン嬢が届けるわけではないのか」
「そのようです」
「では、残りの時間は」
答えなど分かり切っていた。クレマンの返答を待つまでもないことだ。クレマンはアシルを真っ直ぐに見つめ、答えた。
「殿下の執務室です」
部屋の空気が少しだけ重くなった。アシルは紙を見つめたまま、何も言えない。今迄当たり前だと思っていた光景が、異常だったのだと漸く認識し始めていた。




