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第84話: 魔将の微笑みと、目覚める魔剣

補給路の向こうで、誰かが名を呼んでいた。


雑音に紛れて、はっきりとは聞き取れない。


だが悠真は、振り返らなかった。


今は、剣から意識を離したくなかった。


歩くたび、布越しに伝わる感触が、さっきよりも“確か”になっている。


鼓動ではない。だが、ただの錯覚とも思えない。


(……落ち着け)


自分に言い聞かせる。


進化は意思がなければ始まらない。


まだ、何も命じてない……はずだ。


そう思った、次の瞬間だった。


背後で、誰かが駆ける足音。


乱れた呼吸。切羽詰まった声。


「悠真様……っ!」


振り向くと、治療兵の一人が立っていた。顔色が悪い。


「さ、さきほどの女兵……容体が急変しました……!」


胸が、わずかに強く鳴る。


「急変?」


問い返した声は、思ったより低かった。


治療兵は一瞬だけ息を詰まらせ、必死に言葉を整える。


「脈は一度、安定してたんですが……理由が分からないまま……急に、落ち始めて……意識も……戻ったり、遠のいたりで……」


「今は、呼びかけても、ほとんど反応がありません……!」


悠真は、剣を握る手に力を込めた。


先程よりも明らかに強く、布の下で何かが脈打っているような――


錯覚だと言い聞かせても、もう誤魔化せないほどに。


――まるで、急げと言われているみたいだ。


「……今すぐ行きます」


短くそう告げ、歩き出す。


治療兵は慌てて前を走り出した。


補給路を引き返す間、剣は再び静まり返っていた。


だがそれは、眠っているというより――息を潜めて、待っている沈黙だった。


医療テントに入ると、空気が違った。


騒がしさではない。張りつめた静けさが、張り付くように漂っている。


簡易寝台の上で、女兵は横たわっていた。


目は開いている。だが、焦点が合っていない。


「……来て、くれたんですね」


声は、前よりもかすれていた。


それなのに、不思議と芯があった。


「……無理に喋るな。体を休めないと」


「……だめ……今、言わないと……間に合わない……」


悠真は、ゆっくりと寝台の傍へ寄る。剣を抱えたまま。


彼女の視線が、剣に落ちた。一瞬だけ、確かな安堵が浮かぶ。


「……お願い、があります」


逸らさず、悠真を見る。


「……もし、その剣が呪われているのなら……」


「……父の魂も……ずっと苦しんだまま……ですよね……?」


唇がわずかに震える。


だが、瞳の奥は妙に澄んでいた。


「それでも……あなたなら」


「終わらせて、くれますか?」


テントの中の空気が、止まった。


それは“武器を強くしてほしい”という願いじゃない。


“誰かの終わりを、引き受けてほしい”という言葉だった。


悠真は剣を見る。そして、彼女を見る。


偶然じゃない。


この場に呼ばれた理由を、否定できなかった。


「……終わらせるっていうのが、救うって意味なら」


ゆっくりと、剣を持ち替える。


「……俺がその救いを引き受ける」


その瞬間だった。


剣の内側で、何かが“はっきりと”目覚めた。


布越しにも伝わるほど、確かな反応。


抑えきれない脈動が膨張を続け、今にも爆発する寸前のように膨れ上がっていた。


女兵の瞳が、ほんの一瞬だけ――安堵ではない、喜びに近い色を帯びた。


進化は、まだ始まっていない。


だが、“始めるための言葉”は、すべて揃ってしまった。


剣が、静かに熱を帯び始めている。


燃えるような熱じゃない。氷の奥で何かがひび割れ、砕け散る直前に似た――不吉な温度。


悠真は、無意識に息を止めた。


(……来る)


まだ触れてもいない。進化させると決めたわけでもない。


それなのに剣は、もう勝手に“進化の輪郭”をなぞり始めている。


(……こんな前兆は、今までなかった)


「……本当に、いいんですか」


最後の確認だった。


「進化はやり直せません。結果が望んだものと違っても……絶対に戻せないんです」


女兵は、かすかに微笑んだ。


「戻らなくて、いいんです」


その言葉は、覚悟なんかじゃなかった。もう、ただの断定だった。


「……父は」


「戦場で、何度も“戻れない選択”をしてきた人でした」


彼女は深く息を吸い、吐き、絞り出すように続けた。


「だから……最後くらい」


「報われても、いいと思うんです」


悠真は、剣の柄を強く握り直した。


(報われる、か……)


進化は万能じゃない。救済になることもあれば、破壊になることもある。


だが今は、彼女の言葉を否定できなかった。


「……分かりました」


低く、決意を込めて。


(この剣が背負わされてきた“終わらないもの”を、今、ここで――)


「始めます」


そして、心の奥で、はっきりと命じた。


――進化しろ!


その瞬間。


剣の奥で、何かが“ほどけた”。


爆発はない。光も雷鳴も衝撃もない。


ただ、空気が重く、重く沈み込んだ。


世界が、一瞬だけ呼吸を止めたみたいに。


女兵は待っていたかのように目を閉じると、ぎゅっと胸元を掴んだ。


悠真はその仕草を見逃さなかった。


「……?」


指が布を掻きむしり、爪が食い込む。


今まで必死に抑え込んでいた何かが、一気に解放される。


次の瞬間。


空気の底で、“歪み”が走った。


剣と女兵の間に、見えない線が強制的に結ばれる。


(……繋がった?)


直感が、激しく警鐘を鳴らす。


だが、もう遅かった。


剣が、はっきりと“こちら側”へ踏み出してきた。


これが進化の始まりだ。何百回と見てきた、あの感覚そのもの。


「……しまっ――!」


言葉が喉で潰れる。


その時。


女兵の体から、微かな――いや、


とんでもなく濃密な魔力が滲み出した。


弱々しいものではない。


長い間、押し殺し、封じ込め、息を潜め続けた“圧縮された意志”が、今、溢れ出していく。


「……ユウマ」


静かで、冷たい声。


もう誤魔化す必要はない。


女兵は目を閉じたまま、唇を歪めた。


「ここまで来れば……もう、誰も止められないわ」


治療兵が「……?」と、


言葉にならない違和感を感じ取った。


その瞬間、彼女の表情から、弱々しい少女の仮面がゆっくりと溶け落ちていく。


声のトーンが変わる。


震えも、怯えも、消えていた。


「……っ、待、て……!」


悠真の口から、焦りが溢れ出す。


「だめだ、止まれ……!」


分かってる。


制御できない。


それでも、言葉が勝手にこぼれ落ちる。


もう進化は「起きるかどうか」の段階じゃない。


「どう完成するか」だけが残されている。


その刹那――


テントの外で爆発的な魔力の奔流が弾けた。


床を蹴り砕く衝撃と突風。


セレスだ。


索敵を張り続けていた彼女が、“最悪の反応”を捉えて、


ほぼ瞬間移動並みの速度で飛び込んでくる。


「悠真っ!!」


ほぼ同時に、リィナの必死に追いすがる足音。


だが――


もう、遅い。


剣は完全に目を覚ました。


悠真の手の中で、“進化を待つ剣”は、“進化を始める器”へと変わり、


今まさに、取り返しのつかない一歩を、踏み出そうとしていた。


女兵の唇が、ゆっくりと動く。


「……ありがとう、ユウマ」


その声は、どこか遠く、どこか嬉しそうで――


唇の端が、わずかに吊り上がる。


そこに浮かんだのは……弱々しい少女のものとは全く違う、甘く、そして残酷な微笑みだった。


「……ほら、感じるでしょう?


この剣が、私と一つになりたがっているのを」


静かで、冷たく、しかし底知れぬ余裕と勝利の愉悦を湛えた声。


そこにいたのは、四大魔将の一人として長く戦場を生きてきた、ヴァルミラその人だった。


次の瞬間、


剣が、眩い光を放ち始めた。


同時に、悠真の胸の奥で、強烈な違和感が爆発した。


これは、ただの武器の進化ではない。


何かが、大きく、取り返しのつかない方向へ歪み始めている――そんな戦慄と共に。

ありがとうございます。


ここからが“分岐点”です。


次回『ヴァルミラ、最後の微笑み』


★での応援、励みになります。

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