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第83話: 血に染まった剣が、悠真を呼ぶ

医療区画は、戦場の喧騒から切り離された別世界だった。


消毒薬の匂い、布が擦れる音、命が戻る吐息と途切れる心音が、同じ空気の中で混ざり合っている。


悠真がテントに入った瞬間、数人の治療兵が慌てて立ち上がった。


「悠真様が……このような場所に?」


将校から連絡を受け、彼は足を運んだ。


「どうしても本人に渡したいと、女兵が強く望んでいる」とのことだった。


今は忙しい時期だったが、剣を預かる以上、直接会って話を聞くべきだと判断した。


案内された奥の簡易寝台で、毛布に包まれた一人の女兵が横たわっていた。


顔色は蒼白。腹部には分厚い包帯が巻かれ、血の匂いがまだ残っている。


だが、彼女は目を開けていた。


悠真と視線が合った瞬間、その瞳が、ほんのわずかに揺れた。


「……来て、くれたんですね」


声は掠れている。それでも、逃げない意志だけははっきりしていた。


「無理に話さなくていい」


「いえ……今じゃないと……」


彼女は弱々しく毛布の端を引き寄せた。下から、布に包まれた細長い物体が現れる。


「……これを」


悠真が受け取ろうとすると、彼女は一瞬だけ、手を引いた。


躊躇。ためらい。そして、決意。


「……父の、形見です」


空気が、わずかに張りつめた。


「前線で戦って……倒れました」


「最後まで、剣を離さなかったって……」


包みが少しずれ、刃が覗く。


刃こぼれ、黒ずんだ紋様、魔族特有の歪な鍛造痕。


人の手による剣とは、決定的に違う“癖”が刻まれている。


そして――


血が染み込んだ部分だけ、

紋様が異様に濃く浮かび上がっていた。


まるで、

生き物の血を吸って“目覚めた”かのように。


「……呪われています」


彼女は、隠さなかった。


「魔族の呪いに触れて……こうなったって」


「もう、武器としては使えないかもしれないって……皆、捨てろって言います」


一度、目を伏せる。


「でも……捨てられなくて」


ゆっくりと、悠真を見上げた。その瞳には、薄い涙が浮かんでいた。


「父が……命を賭けて守ったものなんです」


「私が捨てたら、父を裏切ることになる気がして……」


言葉が、静かに胸へ沈んでくる。


戦利品でも、素材でもない。“想い”の形をした剣だった。


「あなたの進化なら……」


彼女は、わずかに息を整えた。


「この呪いを……救えるんじゃないかって……」


その瞬間、悠真の中で“進化”の意味が少しだけ変わった。


強くするための力じゃない。

壊すための力でもない。


間違ってしまったものを、正しい場所に戻す力として――。


悠真は慎重に剣へと手を伸ばした。


触れた瞬間、微かな違和感が走る。


ずしりと重く、ただの金属とは違う、何かを「閉じ込めている」ような嫌な密度だった。


(……見えない?)


鑑定をかけようとしたが、情報が途中で途切れる。


薄い膜を一枚隔てたように、剣の正体がぼやけていた。


(封呪……いや、隠蔽系の術式か)


拒絶ではない。ただ「これ以上見るな」と、静かに警告されている感覚。


悠真は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに彼女の言葉を思い出した。


父の形見。呪われてしまった剣。それでも捨てられない想い。


理由は通っている。


むしろ、こういう剣だからこそ、

封じるための術が施されていても不思議じゃない。


悠真は、ゆっくりと剣を受け取った。


「……預かります」


それは承諾であり、同時に“責任を引き受ける”という意味だった。


彼女――ヴァルミラの目が、わずかに潤んだ。


「ありがとうございます……」


「すぐに何かするわけじゃありません。状態を見て、どう扱うか決めます。勝手に壊したりはしません」


その言葉に、彼女の肩から力が抜けたように見えた。


「それだけで……十分です……」


その瞬間――


ヴァルミラの胸の奥で、

小さな歯車が、ゆっくりと噛み合った。


(……通った)


表情は最後まで、弱々しい少女のままだった。


悠真が踵を返す。


剣を抱えた背中を、

彼女は霞む視界の向こうで見送った。


悠真がテントを出て、布の隙間からその背中が見えなくなった瞬間、

彼女の唇が、ほとんど動かないほど小さく歪んだ。


(……完璧。計算通り)


(進化は、願いを叶える力……そうでしょう? 悠真)


夜気が肌を冷やし、戦場特有の鉄と土と血の匂いが肺に入り込む。


――どこか、落ち着かない。


(……さっきより、重い?)


錯覚かもしれない。


だが、触れている指先に、微かな脈のようなものが伝わってくる。


もっと静かで、浅く、息をするような振動。


「……気のせい、か」


これまで何百何千と進化させてきた。


進化の前触れは、もっとはっきりしていたはずだ。


魔力の奔流。

空気の軋み。

世界が一瞬、別の位相に引き込まれる感覚。


だが、この剣は違う。


あまりに静かで、

あまりに“内側”に閉じている。


歩くたび、布越しに剣の柄が掌に触れる。


そのたび、

何かがこちらを確かめるように、

わずかに応じる。


(……嫌な感じじゃない。それが逆に不気味だった)


“眠っているものが、

目を開けかけている”みたいだ。


補給路沿いの簡易通路に入ったとき、

悠真は無意識に剣を抱え直した。


その瞬間だった。


――ピリッ。


静電気のような刺激が、指先を走る。


ほんの一瞬。

だが、はっきりと。


(……今のは)


足が止まる。


空気が、変わったわけじゃない。

音が消えたわけでもない。


それなのに。


剣だけが、世界から一歩、前に出た。


布の上からでも分かる。

魔力が、じわりと滲み出している。


「……まさか」


その瞬間。


世界が、ほんのわずかに歪んだ。


雷鳴もない。

光も爆発もない。


ただ、空気が“裏返る”感覚。


悠真の視界に、見慣れたものが浮かびかける。


淡い、光の文字。


(……早すぎる。まだだ)


条件が整っていない。

意志も、覚悟も、まだ定まっていない。


「……待て」


思わず、声が漏れた。


剣は応えない。


だが、確実に“こちらを掴み返して”いる。


まるで――触れたのは、お前だ。とでも言っているようだった。


悠真は歯を食いしばる。


「今は、進化させない」


そう言い聞かせるように、

剣を布の奥へと押し戻す。


すると、光の文字は、

完全に浮かびきる前に霧散した。


魔力の滲みも、

潮が引くように収まっていく。


……だが、完全に消えたわけではなかった。


剣の奥に、“進化を待つ状態”が確かに生まれてしまった。


(封じてたんじゃない……誘導しているのか?)


鑑定を拒む膜。触れただけで反応する構造。


誰かが、最初から「進化に至る道」を設計しているかのようだった。


その“誰か”の顔が、脳裏に浮かぶ。


震える声。

薄い涙。


しかしその奥で、なぜか揺るがなかった瞳。


(……本当に、ただの女兵だったのか?)


疑念が、胸の奥に静かに沈殿していく。


守られる側だったはずの存在が、

もし“用意した側”だったとしたら――。


悠真は、腕の中の剣を見下ろした。


今はまだ、

ただの“異様な剣”にすぎない。


だが、一度でも進化が始まれば、

それはもう止められない。


進化は、触れただけで起こる。


必要なのは、

持ち主の意思と、

剣に刻む“願い”だけ。


(……まずいな)


この剣は、もう迷っていない。


向かう先を、最初から決めている。


静かで、

深くて、

取り返しのつかない場所へ。


背筋を、細い氷の指がゆっくりと這うような感覚がした。


まだ進化は起きていない。

しかしそれは止まっているわけではなかった。

ただ、引き金に指がかかったまま、息を潜めて待っているだけだった。

ありがとうございます。


この先、戻れません。


次回『魔将の微笑みと、目覚める魔剣』


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