第61話:谷の影とセレスの危機
さらに進むにつれ、輸送路の両側に立つ木々は無残に焼け落ち、灰色の幹だけが槍のように突き立っていた。
地面には巨大な爪痕が走り、風に乗って焦げ臭い匂いが鼻を突く。
「……ここ、ほんとに通るの?」
リィナが耳を伏せて警戒し、周囲をキョロキョロ見回した。
「通らなきゃ、巣には近づけない」
悠真は短く答える。
「逆に言えば、この荒れ具合は“何か”がここを縄張りにしているって証拠だ」
セレスが横目で彼をちらりと見た。
「肝が据わってるっていうか……もう腹が決まりすぎてるっていうか。あなたって、本当に退く理由を探さない人ね」
「性分だよ」
悠真は肩をすくめた。
「怖いからって立ち止まるより、先を見据えてる方が冷静でいられるんだ」
その言葉に、セレスはほんの一瞬だけ口元を緩めた。
そして自然な動作を装うように、体を寄せる。肩が軽く触れた。
「……でも、そう、そういうところよ」
「セレス! 距離感おかしい!」
リィナが即座に反応し、耳をピクピク立てて抗議した。
「風よ、風」
セレスは澄ました顔で言い返す。
「この谷、横風が強いんだから」
リィナが大きくため息をつく。
「言い訳が雑すぎる……」
悠真は苦笑いを浮かべた。
「今は集中しよう。冗談言ってる場合じゃない」
そう言いながらも、耳の先が少し赤くなっていた。
「未知の場所ほど危険は増すわ」
セレスは前を向いたまま、低く続ける。
「……こういう場面で油断すると、一気に持っていかれるものよ」
三人は足音を殺し、奥へと進んだ。
岩肌に吹きつける風は、まるで巨大な獣がすぐ近くで羽を休めているかのようだった。
「……この音」
セレスが小声でつぶやく。
「風じゃなくて……呼吸みたい」
「呼吸……?」
リィナが尻尾をぴんと立てて振り向いた。
「ええ。巨大な何かが、私たちを見張ってるみたい」
悠真は二人に軽く目配せし、谷底を指差す。
「――巣は、あの先だ」
夕陽が山の向こうに沈み、谷間は急速に暗さを増していく。
風は冷たく、どこか血の匂いを含んでいるように感じられた。
三人のシルエットが、薄暗い峡谷に細く長く伸びる。
谷の奥へさらに踏み込むと、音の方向感覚が狂い始めた。
切り立った崖に反射して、あらゆる方向から不気味なうなりが響く。耳が正しく機能しなくなるほどだ。
「……まるで音の迷路」
リィナが片耳を押さえ、猫のように身を低くする。
「風の流れが複雑すぎて、どっちが正解か、わからない……」
その瞬間、風が不意に激しくなり、岩肌が震えた。
砂粒が雨のように降り注ぎ、視界を埋め尽くす。
悠真は咄嗟に盾を召喚して、二人の前に立った。
「二人とも、くっついてろ!」
轟音とともに、谷の奥から巨大な影がゆっくりと動き始めた気配がした。
「大丈夫……でも、風が耳を裂きそうで痛いにゃ」
リィナが耳を伏せ、顔をしかめる。
セレスが額を押さえ、片膝をついた。
「魔力が……速すぎる。消耗が激しすぎて、収支が合わないわ……」
魔力感知を維持するだけで、体が重い。
乱気流が魔力を乱し、無駄に消費させているようだ。
悠真は咄嗟に彼女の腕を支えた。
「セレス、無理するな」
その手に触れ、セレスは一瞬だけ視線を伏せる。
リィナが横目でチラリと見て、耳をピクッと動かした。
「気を抜くなよ」
悠真の声に緊張が滲む。
谷の奥から、かすかな羽音が聞こえ始めた。
最初は一羽かと思ったが、次第に複数だとわかった。
「集まってる」
セレスが立ち上がりながら低く呟く。
「数は読めない……最悪よ」
リィナが矢を一本抜き、弓に番える。
「じゃあ、迎え撃つまで! ここで引き返すよりマシ」
三人とももう後戻りはできないと悟り、谷底へ進む。
崖の上では、風と溶け合うように巨大な影が旋回し始めていた。
やがて視界が開け、断崖が折り重なる広大な空間が現れる。
「あそこ……グリフ谷」
リィナがつぶやく。
古い石碑が風に晒されて立っていた。
風化した文字はほとんど消えかけているが、かろうじて――
「帰らずの翼」
悠真は剣の柄を握り直し、苦笑を浮かべた。
「帰らずの翼、か……縁起でもない名前だな」
「でも、あなたのことだから引き返す気なんてないんでしょ?」
セレスがかすかに笑い、顎を上げる。
「きっと、ここは飛行魔物にとって“城”なんでしょうね。視界の高さ、風の流れ、滑空の角度。全て“狩る”ために作られた設計図のようだわ」
言葉を切った途端――
風が激しくなり、巨大な影が峡谷の壁すれすれを滑るように横切った。
鋭い羽音を残して急上昇し、上空へ消えていく。
「見た……?」
リィナが耳を伏せ、弓を構えて声を潜めた。
「ああ」
悠真が剣を抜きかける。
「索敵の一匹ね」
セレスが目を細め、息を整える。
「本体はもっと奥……」
だがその時、悠真は気づいた。
セレスの足元に集まる冷気が、いつもより頼りなく薄い。
彼女の顔色も、わずかに青ざめている。
「……セレス?」
「平気……よ」
セレスは即答したが、吐く息が白く、顔色が悪い。
この風に触れた瞬間から、魔力がすっと削られていく――まるで空気そのものが魔力を喰らっているかのように。
「……違うわ。乱気流のせいだけじゃない」
セレスが小さく呟く。
「この風が……私の魔力を直接吸ってる」
「セレス、無理するな。少し下がってろ」
悠真が低く言い、彼女の腕を強く支えた。
「足場と視界だけで十分だ」
「それが……できないの」
セレスは額を押さえ、膝を震わせる。
「探知を止めれば位置がわからなくなる。でも続けると……消費が速すぎる」
「セレス……少し休んで!」
リィナが不安げに耳を伏せ、駆け寄る。
セレスの足元に、頼りない冷気が一瞬だけ霜を結んだ。
だが気流に飲み込まれ、跡形もなく散ってしまう。
「……大丈夫」
セレスは強がって笑おうとしたが、唇がわずかに震えていた。
「ごめんね。計算じゃ、まだ持つはずだったのに……最悪の相性だわ」
そのとき――谷の奥から、複数の羽音が重なって響き始めた。
一つじゃない。群れだ。
悠真は顔を上げ、剣を構える。
薄暗い高みで、風を裂くように巨大な影が、また一匹、また一匹……と増えていく。
「……来るぞ!」
悠真が鋭く告げた。
セレスは歯を食いしばり、最後の一押しで魔力を巡らせた。
だがそのたびに、体から何かが確実に奪われていくのを感じる。
――この谷では、戦う前に力尽きるかもしれない。
冷たい風が、三人の背中を撫でた。
上空からは鋭い風切り音。
――本格的な襲撃が、始まる。
ありがとうございます。
ここからが“分岐点”です。
次回『谷の深淵と群れの襲撃』
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