第45話: 人間じゃない奴ら
石畳が途切れ、泥と煤の混じった細い小路が続いていた。
日が傾きかけ、影がじわりと伸びる頃、悠真たちはエルムの案内で貧民区へと足を踏み入れた。
軋む板橋を渡ると、濁った水が溜まる浅い溝が走り、壊れかけた木壁がひゅうひゅうと風を鳴らしていた。
煮詰まった魚の腐臭と、湿った焚き付けの煙、甘くねばつくような煤の匂いが、鼻の奥を刺すように絡みついてくる。
「こっちです……」
エルムは薬包を胸に抱えたまま、先を行く。
歩幅は小刻みだが速い。小さな背中が、焦りと罪悪感で硬くこわばっていた。
「もうすぐ……この角を曲がれば」
少年は自分に言い聞かせるように、掠れた声で呟いた。
奥まった路地の突き当たりに、粗末な板小屋があった。
つぎはぎの扉を押し開けると、湿気を含んだ冷気が肌にまとわりつき、胸の奥まで冷やした。
薄暗い室内には、古い毛布にくるまれた少女が横たわっている。
十歳ほどだろう。青白い頬に汗がにじみ、血の気のない乾いた唇から、途切れ途切れの咳が響いた。
「リオナ……」
エルムは膝をつき、震える指で毛布を整える。
少女はぼんやりとした瞳を上げ、小さな声で呟いた。
「……お兄ちゃん……どこ行ってたの……?
帰ってこないから……ひとりで……怖かった……」
その小さな一言に、エルムの肩がびくりと大きく震えた。
「ごめん……ごめんな……
でも、もう大丈夫だよ。
ほら、薬、持ってきたんだ」
無理に笑顔を浮かべようとしたが、目尻に滲んだ涙を隠しきれなかった。声が掠れ、喉が小刻みに震えていた。
「これできっと……楽になるから……」
悠真たちは息を潜め、静かに見守った。
窓代わりの穴から差し込む夕陽が、漂う埃を金色に照らし、少女のやつれた顔を痛々しく浮かび上がらせていた。
「……効くの……?」
リオナの声は糸のように細く、頼りなかった。
目はうるみ、唇は乾いて白く割れている。
「効くさ。今度は、ちゃんとした薬草師からもらったんだ。
ちょっと待ってろよ」
エルムは言葉を続けようとして喉を詰まらせた。
手が震えて、
「……ううっ……
これくらいしか……俺には、これくらいしかできねえけど……!」
少年は薬包みを開いた。薄緑の液体が瓶の中で揺れ、薬草の苦い匂いが部屋に重く広がった。
悠真がそっと膝を折り、背中に手を添えた。
「少し水で薄めると飲みやすくなる」
「ありがとう……」
エルムは木椀に井戸水を注ぎ、薬を垂らし、匙で丁寧に混ぜた。
「ほら、少しずつ……」
リオナは咳をこぼしながらも、一口ずつ、懸命に飲み込んでいく。
数口目を過ぎた頃、呼吸がわずかに楽になったのか、強張っていた眉がほぐれた。
「……あったかい」
リオナがほっと息を漏らし、かすかに微笑みを浮かべる。その微笑みは、痛々しいほど儚く、胸に刺さった。
エルムは思わず目を潤ませ、
「もう少しだけ我慢な、これで熱は下がるから」と囁いた。
安堵のあまり、彼は震える指で妹の額にそっと手を当てた。掌に伝わる熱が、彼の胸をさらに締めつけた。
その様子を見ながら、リィナが小声で言った。
「あの子、ずいぶん前から寝込んでるみたいにゃ。
部屋も湿気がひどいし……普通の風邪だけじゃなさそう」
セレスは壁を指先でなぞり、灰色の粉を確かめた。
「煤が厚く積もってる……燃料の匂いも普通じゃない。
これじゃ気管を痛めても不思議じゃないわ」
悠真は窓辺に寄り、外を覗いた。
裏手に積まれた荷袋――その一部に、赤墨で塗られた薄い三日月の印が見えた。
「あれ?……月影商会の符に見えるんだけど」
「見える、というか……そのままだにゃ」
リィナが眉を寄せる。
「なんでこんな場所に?」
エルムは唇を噛みしめて答えた。
「最近、路地のあちこちに置かれるようになったんだ。
煤の匂いもその頃から強くなって……リオナの咳も止まらなくなった」
リィナは眉を吊り上げる。
「ってことは、商会の荷が原因ってこともあるんじゃない?
普通の薪なら、こんな匂いはしないよ」
セレスが静かに頷く。
「何かを燃やしている……それが、もし魔具の処理だとしたら、その煙が貧民区に降り注いでいることになる。
放っておくわけにはいかないわ」
悠真の胸に、重いものが沈んだ。
刻印、煤、咳――つながり始める影に、嫌な予感が静かに広がっていく。
リオナがまた激しく咳き込み、エルムは慌てて背をさすった。
「大丈夫だよ。すぐ良くなる……兄ちゃん、そばにいるから」
毛布を直しながら、エルムはちらりと悠真たちを見た。
その目には、不安と罪悪感と、それでも何かしたいという強い焦りが、複雑に混じり合っていた。
「なぁ……俺、何か手伝えないかな。抜け道とか、住んでる人のこととか……知ってることなら何でも話すから。俺……このままじゃ貰ってばかりで……本当に申し訳なくて……」
悠真はゆっくり首を振った。
「気にするな。今は妹を看ることが一番だよ」
エルムは俯きながらも、拳を強く握った。
「うん、わかった。けど、リオナが元気になったら……俺にも、何か手伝わせてくれ」
外では夕暮れが藍色へ沈み、冷たい風が屋根をなでていく。
遠く、犬の遠吠えが反響し、路地にぽつぽつと灯りがともり始めた。
セレスは胸に小さく祈りを結び、静かに言った。
「この街を蝕んでいるもの……もう見て見ぬ振りはできない」
薬を届けた翌日。
悠真たちは宿の一室に集まっていた。
窓の外では市場の喧噪が高まり、荷車の車輪が石畳を軋ませている。
「あの刻印……やっぱり気になるにゃ」
リィナが尾をぱたぱたと揺らしながら言う。
セレスは机に広げた羊皮紙を指で軽く叩いた。
描かれているのは市場周辺の地図と、昨晩彼女が確認した刻印の位置だ。
「ただの商人符なら、こんな複雑な構造にはしないわ。
あれは魔力を一か所に集中させたり、流れを強引に引き寄せたりする導印そのものよ。
つまり……商売とは全く関係のないもの」
悠真は腕を組み、眉を寄せた。
「でも、なぜそんなことを……」
「さあ、わからない。ただ一つ確かなのは、月影商会が表向きの顔を借りて、
裏で『危険な』何かと繋がっているってことよ」
セレスはきっぱりと言い切った。
「裏社会か……嫌な響きだにゃ」
リィナは顔をしかめた。
悠真は昨日の光景を思い返した。
「エルムの話だと、あの刻印付きの荷袋が路地に置かれてから、
奇妙な病気が流行り始めたんだ。
何かを燃やした煙が、風に乗って流れ込んでいる」
「その『何か』が問題にゃ!」
結局――真相を突き止めるには、街の住人から直接話を聞くしかない。
◇
最初に向かったのは、宿の食堂で働く給仕の娘だった。
栗色の髪を三つ編みにした少女は、注文の合間を縫って耳を貸してくれた。
「三日月の印……? ああ、最近よく見かけるわよ」
娘は声を落としながら言った。
「裏路地を通る荷馬車の帆布に描かれてたわ」
「何を運んでたのか分かる?」
悠真が尋ねる。
「そこまでは。ただ……夜中、市場の裏手で見たの。布に包んだ木箱が山ほど積んであって、人に見られたくない感じだったわ」
彼女は不安そうに目を伏せ、指先を小さく震わせた。
「それに、関わった人が次の日にいなくなった、なんて噂まであるの。怖いから、私も最近は見ないふりをしてるけどね」
◇
次に話を聞いたのは、街を回る行商の青年だ。
荷籠を下ろし、汗を拭いながら言う。
「北方領行きの荷が増えてるな。この一月で急にだ。
で、妙な話も聞く。普段なら毛皮や塩が主力なのに、今は金にならん魔具や薬草が運ばれてるらしい」
「薬草……どんな?」
セレスが身を寄せる。
「聞いた話じゃ、『死者の眠り草』って禁制品らしいよ。
毒消しにも鎮静にも使えるんだけど、加工次第で強力な幻覚剤にもなるんだって。
月影商会が大量に仕入れてるって話だ」
悠真は思わず顔を曇らせた。
「幻覚剤……それを北方に?」
青年は肩をすくめる。
「詳しくは知らないけど、北方領で変な病が流行ってるらしい。
咳と高熱、それに意識が混濁するって。
だから薬草の需要が跳ね上がってるんじゃないかな」
悠真たちは短く、意味深な視線を交わした。
咳と高熱――リオナの症状に、確かに重なる。
夜。
彼らは酒場の扉を押した。
酒と汗の濃厚な匂い、割れた笑い声が一気に押し寄せてくる。
カウンターで杯を磨いていた店主は、筋骨の目立つ強面の男だった。
セレスが銀貨をそっと滑らせると、男は目だけで合図し、声を潜めた。
「あんたら……三日月の印を追ってるのか。物好きなこった」
「知ってることだけでいい。教えて?」
セレスの声音は静かだが、芯の通った響きがあった。
店主は一拍おいてから、唇を歪める。
「“月影商会”って呼ばれる連中の印だ。
ただの商会じゃねぇ。
表の商売は飾りで、裏じゃ魔具や禁制品を扱ってる」
「……目的は?」
悠真が身を寄せる。
「わからん。ただ、北方領にやたら荷を送ってるのは確かだ」
店主はさらに声を落とした。
「それとな……昔から噂があってな。月影商会の裏には――」
彼は周囲を素早く一瞥し、ほとんど息だけで囁いた。
「“人間じゃない奴ら”……人の皮を被ったような、目が死んだ連中が潜んでるって話だ。
深入りしすぎるんじゃねえぞ」
「に、人間じゃない……?」
リィナの耳がぴんと立ち、尾の動きがぴたりと止まった。
空気が一瞬でひりつき、重く淀んだ。
ただの噂で片付けられるような響きでは、決してなかった。
第45話、感謝です。
物語はさらに深くなります。
次回『三日月の試練』
面白ければ★お願いします。




