第1話:「はじめて、髪を任せた人」
―「はじめて、髪を任せた人」
東京の美容院は、どうしてこんなに緊張するんだろう。
鏡に映る自分を見ながら、水瀬奏は小さく息を吐いた。
上京して半年。
大学生活には少し慣れてきたものの、美容院だけは未だに苦手だった。
地元では母親に予約を取られ、なんとなく通っていた小さな美容室。
適当に座って、適当に切ってもらって、それで終わり。
けれど東京は違う。
おしゃれな店。
眩しい店員。
聞き慣れないメニュー。
会話。
距離感。
何もかも居心地が悪かった。
SNSで評判の店に行ってみたこともある。
学生向けの安いチェーン店にも入った。
けれど毎回、
「なんか違う」
と思ってしまう。
今日も、本当は来るつもりじゃなかった。
伸びた前髪が鬱陶しくて、
授業帰りにスマホを見ながら適当に予約しただけ。
通された席に座ってから、
(帰りたい……)
と早速後悔していた。
「お待たせしました〜」
軽い声が降ってきて、奏は顔を上げる。
「担当する一ノ瀬です」
現れた男を見て、
奏は思わず固まった。
黒に近いダークアッシュの髪。
ゆるく流れたセンターパート。
耳元には小さなピアス。
シャツの袖をラフにまくった腕。
そして何より、
人懐っこい笑顔。
「あれ、緊張してる?」
鏡越しに目が合う。
「……あ、いや」
「してるじゃん」
くすっと笑われ、
奏はさらに居心地が悪くなった。
(無理かも、この人)
距離が近い。
美容師特有の明るさというか、
初対面なのに踏み込んでくる感じが苦手だった。
「大学生?」
「あ、はい」
「へえ、東京来たばっか?」
「……なんでわかったんですか」
「雰囲気?」
軽い。
適当。
なのに妙に会話が続く。
一ノ瀬玲は自然な動作で奏の髪を触った。
「髪質めっちゃいいね」
「ちゃんと手入れしたらもっと化けそう」
指先が耳に触れそうになって、
奏は肩を揺らした。
「はは、びっくりした?」
「……美容院、あんまり慣れてなくて」
「あー、なるほどね」
玲は納得したように頷く。
「じゃあ今日は頑張って喋んなくていいよ」
「必要なことだけ聞く」
その言い方が思ったより優しくて、
奏は少しだけ肩の力を抜いた。
「今、気になるとこある?」
「前髪が……重いのと……」
「うん」
「あと、なんか……垢抜けなくて」
言った瞬間、
少し恥ずかしくなった。
けれど玲は笑わなかった。
むしろ真面目な顔で奏を見る。
「じゃあ変えよっか」
その一言が、
妙に自然に聞こえた。
カット中、
玲は必要以上に話しかけてこなかった。
でも時々、
「その髪、右だけハネやすい?」
「寝癖つきやすいタイプだよね」
と、驚くほど自然に言い当ててくる。
鏡越しに目が合うたび、
なんとなく落ち着かなかった。
軽そうなのに、
ちゃんと見ている。
そのギャップが、
調子を狂わせる。
「はい、こんな感じ」
最後にワックスを整えられ、
玲が鏡を向ける。
奏は思わず、
目を見開いた。
「……え」
違う。
いつもの自分じゃない。
重かった前髪は少し軽くなって、
なのに落ち着いていて、
どこかちゃんとして見える。
頑張ってる感じがないのに、
ちゃんとおしゃれだった。
「似合うじゃん」
玲が笑う。
「その顔ならもっと自信持っていいのに」
胸の奥が、
少しだけざわついた。
会計を終え、
店を出ようとした時だった。
「水瀬くん」
振り返る。
玲は受付カウンターに肘をつきながら、
いつもの軽い笑みを浮かべていた。
「次も俺指名してよ」
冗談みたいな口調。
きっと、
他の客にも同じことを言ってる。
なのに。
「……はい」
その瞬間、
奏はもう、
次もここに来るつもりになっていた。
読んでいただきありがとうございます!
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大学生の水瀬奏が、一ノ瀬玲に出会う話です。
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