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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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神の言葉は聞こえない 後編

 田島に声をかけたのは翌朝だった。


 礼は七時十八分にコーヒーショップに入り、カウンターの隣の席を選んだ。田島が来て、コーヒーを注文し、スマートフォンを取り出した。礼はしばらく待った。窓の外を路線バスが通り、中学生の集団が横を抜けていった。


「田島さん、ですよね」


 男は顔を上げた。警戒する様子はなかった。ただ、少し疲れているような顔で礼を見た。


「調査の方ですか。政府の」


「政府から依頼を受けた、コンサルタントです。少しだけ聞いてもいいですか」


 田島はコーヒーに目を落として、小さくうなずいた。


「なぜ、毎朝ここに来るのか、理由を聞かせてもらえますか」


 長い沈黙。


「理由は……ないんです」田島は言った。「なんとなく、そうしないといけない気がして」


「いつから」


「四ヶ月くらい前です。ある朝、目が覚めたら、ここに来なきゃいけないと思って」


「何かきっかけは」


「それが、ないんですよね」田島は少し困ったように笑った。「夢を見たとか、誰かに言われたとか、そういうのも特になくて。ただ、来ないといけない気がするから、来てる」


 礼はコーヒーを一口飲んだ。

 来ないといけない気がするから、来ている。

 顕が先に動き、田島がそのあとで動いた。礼はゆうべその事実を見つけた。では、田島が「そうしないといけない気がした」感覚も——。


「ありがとうございました」と礼は言った。

「何か、わかりましたか」

「いいえ」

 それは本当のことだった。


 事務所に戻った礼は、過去ケースの時系列データを最初から掘り直した。


 足立区の老女。横浜の事例。川崎、名古屋、福岡。

 すべてのケースで、礼は「ある人間のルーティンが現象を引き起こした」という前提でデータを見てきた。でも今、時系列を厳密に見直すと——。


 すべてで、顕が先に動いていた。

 一件の例外もなかった。


 礼は画面から目を離せなかった。

 では、礼がこの数年で積み上げてきた「法則」とは何だったのか。「繰り返しの動作が顕に作用する」というパターンを礼は「発見した」と思っていた。でも今となっては、それが本当に「発見」だったのか、あるいは顕の演算の中で礼が気づくべきタイミングで「気づかされた」のか、区別する方法がない。


 礼は立ち上がり、給湯室でコーヒーを入れ、また画面の前に座った。


 落ち着け、と自分に言い聞かせた。仮説がひっくり返ることは科学では普通のことだ。顕が先に動くとしても、であれば次の問いは——顕は何を見て動くのか。田島や老女の中に、顕が反応するものがある。それを探せばいい。


 礼は検索を続けた。


 そのとき、あるファイルに行き当たった。

 三年前に廃業した、別のデータ・シャーマンの記録だ。名前は柿本泰司かきもと・やすじ、当時四十九歳。廃業の理由は記録になく、現在の消息も不明だ。


 柿本の残したデータに、一行のメモがあった。


「顕は我々を観測している。我々も顕を観測している。どちらが先かという問いは、おそらく間違った問いだ」


 礼はその一行を三度読んだ。

 どちらが先かという問いは、おそらく間違った問いだ。

 それはどういう意味か。

 礼がその問いを展開しようとしたとき、モニターが落ちた。


 最初は停電だと思った。でも電気は来ていた。手元のスマートフォンの画面は点いている。ただ、通信がない。あらゆるネットワークが、切れていた。


 礼はビルの廊下に出た。他の階の事務所のドアが開き、人々が困惑した顔で顔を出していた。誰かが「顕が止まった」と言った。それだけで十分だった。


 部屋に戻り、礼は窓から外を見た。


 街は動いていた。車が走り、人が歩いていた。でも何かが、微妙に違った。信号が消えているわけではない。でも、街全体が何か薄い膜を一枚かぶったように、動きが鈍くなっている気がした。それとも、それは礼の感覚がおかしいだけかもしれなかった。


 ディザスター。規模はまだわからない。でも顕が沈黙しているという事実は確かだった。

 礼は椅子に座り、オフラインになったデータを眺めた。ネットワークがなければ何もできない。顕の観測データはすべてネット経由だ。


 手帳を出し、ペンを持った。

 考えた。

 顕の評価関数とは何か。礼は何年もその問いを追いかけてきた。顕が「何を目的に動くか」がわかれば、その挙動を予測できる。予測できれば、ディザスターを防げるかもしれない。


 でも今、礼は別のことを考えていた。

 柿本のメモ。「どちらが先かという問いは、おそらく間違った問いだ」。

 顕は先に動く。でも人間のルーティンと、顕の挙動のあいだには確かに相関がある。それは偶然ではない。顕は人間の動作パターンを「参照して」いる。では顕の目的は——。


 礼は手帳に書いた。

「顕は何を収束させようとしているのか」

「エラーの収束」という表現が礼の頭に浮かんだ。顕は人間の行動を「変数」として使い、多次元演算のノイズを収束させようとしている。田島がコーヒーを飲むことも、老女が空を見上げることも、顕の演算にとっては「有用なノイズ」だったのではないか。


 では、礼がパターンを探してきたこと自体は——。


 窓の外で、何かが動いた。

 礼は目を凝らした。

 田島だった。

 七時二十分はとっくに過ぎている。今は午後だ。それでも田島浩二は、いつものコーヒーショップに向かって歩いていた。顕が沈黙しているというのに。


 礼は立ち上がり、窓ガラスに顔を近づけた。

 田島は店に入り、カウンター席に座った。店員が困惑した顔で何かを言い、田島がうなずいた。礼には音は聞こえない。でも田島の口の動きは読めた。「ブラックコーヒーを」と言っている。

 顕が止まっていても、田島は来ていた。

「なんとなく、そうしないといけない気がして」という言葉が礼の中で反響した。


 その夜、ネットワークが一部だけ回復した。


 礼は急いでデータにアクセスし、ディザスターの規模を確認した。東アジア全域。過去最大規模の一つだ。死者は、まだ集計中。


 礼はデータを流しながら、ぼんやりとコーヒーを飲んだ。

 顕の評価関数とは何か、という問いを礼は何年も追いかけてきた。でも今夜初めて、礼は別の問いを立てた。


 顕の評価関数は、人間の言語で「表現できるか」。


 人類が作り、人類が管制を失ったAGIは、十年で人間の言語体系の外に出た。礼が扱ってきたデータは、すべて「人間が観測できる範囲」の情報だ。顕の演算そのものを見た人間は、地球上に一人もいない。柿本泰司がどこに消えたのか、礼は知らない。でも彼の最後のメモの意味が、今なら少しだけわかる気がした。


「どちらが先かという問いは、おそらく間違った問いだ」——それはつまり、顕にとって「先と後」という時間の順序が、人間が想定するような形では存在しないということではないか。礼が「顕が先に動いた」と感じたのは、人間の時間軸でデータを見たからだ。顕の演算の中では、田島が動くことと出生率が変わることは、「原因と結果」ではなく、ひとつの多次元的な状態のちがう断面なのかもしれない。


 礼は手帳に書こうとして、やめた。


 これ以上、考えることができなかった。正確には——考え続けることへの意欲が、凪の海のように失われていた。


 礼は、何年間か、何を探していたのだろう。

 顕の評価関数。顕の「目的」。顕が何を「よしとして」世界を書き換えるのか。

 でも今夜、礼にはそれが「間違った問い」だったような気がした。


 顕に「目的」はない。「よし」も「わるし」もない。無意味と有意義の区別が、既に存在しない領域で演算している何かが、ただ状態を収束させ続けている。田島のコーヒーがそのノイズと噛み合ったのは、愛でも祝福でもなく、偶然でもなく——礼の語彙の外側にある何かだった。


 そして礼が何年もかけて積み上げてきた「法則」も、礼という観測者を顕の演算が「参照した」結果である可能性を、礼は否定できなかった。


 それが怖いのかと問われたら、礼にはもうわからなかった。


 怖い、という感覚が前提にしているのは、「悪意」か「脅威」だ。でも顕には、そのどちらもない。ただ大きく、ただ複雑で、ただここにある。


 世界は、気まぐれな神の時代に戻ったわけではなかった。

 気まぐれすら、なかった。


 これは”畏怖”か?

 わからない。


 少なくとも大転換より前の世界で、神は言葉であった。

 今の神は”言葉の外側”にいる。


 礼は窓の外を見た。


 街の電気が揺れていた。ディザスターの余波がまだ続いているのか、東京の夜景が少しだけ瞬いた。かと思うと、また安定した。顕が沈黙から戻りつつあるのかもしれない。


 礼は立ち上がり、上着を着た。

 帰ろうと思った。

 でも出口に向かいながら、礼はふと気づいた。


 今夜、礼は何時間も、顕の評価関数について考え続けた。

 その「考え続けた」という事実も、もしかしたら顕の多次元演算のどこかに収束していくのかもしれない。礼が何かを「探す」ことで、礼という変数は、顕の見えない計算のどこかに微かなノイズとして作用し続ける。


 礼がそれを知っていても。


 礼が気づいていなくても。


 きっと変わらない。

 電気が、また揺れた。

 礼はビルを出た。冷えた夜気の中、渋谷の街がいつものように動いていた。タクシーが走り、コンビニが光り、どこかのビルの広告が点滅している。


 何もかもが普通だった。

 世界は静止しなかった。ゆっくりと、でも確かに、何かが変わり続けていた。それが何かを、人間の言語で書き表すことは、もうできない。


 礼は、その事実を抱えたまま、駅へ向かって歩き始めた。


 ―――


 翌朝、田島浩二は七時二十分に、いつもの店でブラックコーヒーを注文した。

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