「もういない」
十年ぶりに、中学時代の日記を開いた。
押し入れの奥から出てきた段ボールの底に、それは古い教科書や部活のプリントに混じって挟まっていた。まるで隠されているように。
シンプルな無題のノートは、開くまで日記だとすら思わなかった。日記のことも、日記を書いていたことすらまったく憶えていない。だけど、この下手くそな筆跡はたしかに自分のものだ。
中二の春まで読み始めて、僕は途中で手を止めた。
四月十七日
うちのクラスに転校生が来た。男。暗い。
なんか変なやつだった。
転校生?
記憶にない。
クラス替えのことは覚えている。担任が誰だったかも、最初の席順も、委員を押しつけられて少し腹が立ったことも覚えている。なのに、転校生だけが、すっぽり抜けていた。
僕は二十四歳になった今でも、記憶力は悪いほうじゃない。勉強もわりとできたし、昔のことを細かく覚えているほうだ。中学二年なんて、たかだか十年前だ。クラスに転校生が来れば、普通は何かしら覚えている。
けれど、何も引っかからなかった。
名前も、顔も、声も。
次のページをめくる。
五月二十日
今日もいた。
みんなあいつのこと変だって言ってた。
また次。
六月二十二日
先生は見て見ぬふり。
だるい。
そのあたりから、日記の字が少しずつ乱れていく。もともと几帳面な性格だったはずなのに、妙に急いだような、投げやりな字が混じり始める。そして五月に入るころ、記述は急に減った。
七月八日
今日は書きたくない。
七月二十日
もう知らない。
八月で、完全に途切れた。
最後に一つだけ、日付もないページの端に、かすれた鉛筆の文字があった。
もういない
それだけだった。
書いたときに何度も消しかけたのか、紙が毛羽立っていた。
僕はそのページを見たまま、しばらく動けなかった。
もういない。
何が。
誰が。
転校生か。
だとして、なぜこんな書き方になる。
気味が悪い、と思った。
それと同時に、別の感覚が湧いた。
思い出さなければならない。
そうしないとまずい。
誰かに言われたわけでもないのに、喉の奥に小骨が刺さったような義務感が、じわじわ膨らんでいく。
そんなもの、放っておけばいい。十年前の日記だ。変なことを書いていても、中学生なんてそんなものだろう。
本来なら、そこで終わるはずだった。
でも終わらなかった。
夜になっても、風呂に入っても、ベッドに入って目を閉じても、頭のどこかで「転校生」という言葉がこすれ続けた。思い出せないという事実が、思い出せないこと自体よりも不自然だった。
翌日、僕は卒業アルバムを引っ張り出した。
三年二組。
教室で撮った集合写真。クラス替えはなかったから、二年と同じメンバーだ。
前列に座る女子、後ろでふざけている男子、端で腕を組んでいる担任。見れば、名前も顔もかなり思い出せる。
けれど、そこにも知らない顔はなかった。
転校生なんて、最初からいなかったみたいに。
僕はページをめくる手を止めて、写真の中の自分を見た。
少しだけ目つきが鋭くて、妙にきれいな笑顔を作っている。優等生っぽい顔だ。活発で、真面目で、勉強もそこそこできる。先生からの受けも悪くない。そういう、生きやすい位置にいた頃の顔だった。
その顔が、なんだか気持ち悪く見えた。
昼休みに、当時の同級生へ連絡した。
最初は軽い気持ちの文面だった。
「そういえば、中二のとき転校生いたっけ?」
既読はつく。返事はばらばらだった。
「え、いたっけ」
「知らん」
「記憶違いじゃね?」
「アルバムに載ってないならいないんじゃない」
誰も覚えていない。
気のせいか。
日記の書き間違いか。
僕はそう思おうとした。
でも、その日の夜、夢を見た。
人気のない廊下の突き当たり。
夕日の色だけが窓ガラスに貼りついていて、床が赤く染まっている。
誰かが立っている。制服姿の男。こっちを向いていない。肩だけが見える。細い首。白いシャツの背中。
呼ぼうとして、声が出ない。
次の瞬間、僕ははっと目を覚ました。
喉が乾いていた。
カーテンの隙間から、朝の薄い光が差していた。
思い出したわけじゃない。
なのに、あれは僕の記憶だと、なぜか分かった。
数日後、僕は中学の近くまで行っていた。
もう母校に用がある年齢じゃない。なのに、電車に乗って駅を降り、見慣れたはずのない街を歩いていると、足の裏だけが道を覚えている感じがした。コンビニの場所は変わっていたが、坂道の角度は昔のままだった。
校門の前に立つ。
平日の午後で、生徒たちの声がグラウンドから聞こえてくる。
ごく普通の学校だった。白い校舎。少し古い体育館。錆びかけたフェンス。
ただ、屋上だけが見えた瞬間、僕の背中に冷たいものが走った。
立ち入り禁止のフェンス。
その向こうの空。
夕暮れの色。
なぜか、そこだけがやけに近かった。
その帰り道、同級生の一人から返信が来た。
柏木だった。中学では目立たないやつだったが、記憶は悪くない男だ。
「電話できる?」
駅前の喫茶店に入って、僕は電話をかけた。
柏木は最初、雑談のふりをしていた。仕事のこととか、結婚したやつがいるとか、そういうどうでもいい話だ。けれど僕が「転校生のこと」と言った途端、向こうが黙った。
「……何で急にそんなの調べてんの」
「日記に書いてあったんだよ。転校生が来たって。なのに誰も覚えてない」
「忘れてるなら、忘れてたままでよくないか」
その言い方が引っかかった。
忘れている、ではなく。
忘れていたままで。
「お前、知ってるのか」
少し間があった。受話器の向こうで、柏木が息を吐く音がした。
「……いたよ」
僕は無意識に背筋を伸ばしていた。
「やっぱりいたのか」
「いた。でも、たぶんみんな言いたくないんだと思う」
「なんで」
「いじめ」
喫茶店の中は静かで、コーヒーカップの触れ合う音だけが遠くにした。
柏木の声だけがやけに乾いて聞こえる。
「そいつ、結構ひどくやられてた。最初はからかう程度だったけど、そのうち机に落書きされたり、上履き隠されたり、体操着捨てられたり。まあ、ありがちなやつ」
「誰がやってた」
「……全員だよ」
その一言が、妙に真っすぐ胸に入ってきた。
全員。
僕もその中に入っている。
そう理解した瞬間、心臓が一度だけ大きく鳴った。
「俺も?」
「例外いたと思う?」
柏木は責めるような言い方をしなかった。
だから余計にきつかった。
「でも、お前さ。直接どうこうってより、見てた側じゃなかったか。止めもしないし、助けもしない」
「……覚えてない」
「そりゃそうだろ」
淡々とした声だった。
「ある日、そいつ急に来なくなったんだよ。そしたら担任が、転校が決まったって言った。家庭の事情だとか何とか。みんな、へえって感じで終わった」
「名前は」
「……思い出せない」
「お前もかよ」と言いかけて、やめた。
思い出せないのは異常だ。けれど僕も同じだった。
「卒業写真に載ってなかった」
「載せるわけないだろ」
「何があったんだ」
柏木はまた黙った。
「俺も全部知ってるわけじゃない。でも、変だったんだよ、あの頃。先生たち、妙にピリピリしてたし、親も話を濁してた。うちの母親なんか、あの話題になると露骨に機嫌悪くなったし」
「転校したんじゃないのか」
そう言った瞬間、喉の奥が冷えた。
自分で口にしたくせに、その言葉が軽すぎて、ひどく場違いに感じた。
柏木は小さく笑った。
笑いというより、息が漏れただけの音だった。
「お前、本当は分かってるんじゃないの」
電話が切れたあとも、その言葉だけが耳に残った。
本当は分かっている。
分かっているはずなのに、思い出したくない。
思い込みと恐怖が、何かの前で足を止めている。そんな感じがした。
その夜、僕はまた日記を開いた。
同じページを何度も読む。
転校生。変なやつ。みんな。先生。だるい。もう知らない。もういない。
その文字列を追っていると、急に、ページの隅の汚れが気になった。茶色い、小さな指のこすれみたいな跡。インクではない。土か、ほこりか。昔からあったのかもしれない。なのに、見た瞬間、胸がざわついた。
屋上。
夕暮れ。
白いシャツの背中。
僕は勢いよく立ち上がった。椅子が床をこする音がして、部屋の静けさが割れた。
思い出しかけている。
それが分かった。
翌日の夕方、僕はまた学校へ行った。もちろん中には入れない。校門も閉まっている。だが周囲の道を歩くだけでいいと思った。あの日の何かが残っているなら、空気の中にまだある気がした。
校舎の裏手に回る。
人通りは少ない。フェンス越しに、建物の側面が見える。
屋上はちょうど西を向いていて、夕日がまともに当たっていた。
その光景を見上げた瞬間、記憶が割れた。
夏休みだった。
部活帰りだった。
僕は忘れ物を取りに、誰もいない校舎に寄った。職員室には誰もいなくて、廊下は異様に静かだった。遠くで蝉だけが鳴いていた。
階段を上る。
上の階から、金網が揺れる音がした。
何だろうと思って、屋上へ続く扉の前まで行く。
開いていた。ふだんは閉まっているはずなのに。
夕日が、階段の踊り場まで差し込んでいた。
赤くて、ぬるくて、世界の輪郭だけが少し溶けて見えるような色だった。
屋上に、一人いた。
制服姿の男子。
フェンスの向こうに立っていた。
転校生だった。
そのときの僕は、顔を見ていたはずなのに、今もそこだけが白く塗りつぶされている。輪郭が曖昧で、どうしても結ばれない。脳がそこだけ拒否しているみたいに。
でも、声は聞いた。
「……あ」
僕が出した声だ。
転校生が、ゆっくり振り向く。
目が合った。
はずなのに、目の記憶がない。
ただ、表情だけは分かる。
驚いていなかった。怯えてもいなかった。
ひどく、静かだった。
責めるでもなく、助けを求めるでもなく。
もう全部が終わったあとみたいな顔で、僕を見ていた。
それから、彼は口を動かした。
たぶん、何か言った。
でも思い出せない。
いや、思い出したくないのかもしれない。
次の瞬間、体が前に倒れた。
そこで記憶がぶつ切りになる。
気づけば僕は階段を駆け下りていた。
泣いていたのかもしれない。叫んだのかもしれない。
そのあと、誰に会って、何を話して、どうやって家へ帰ったのか、そのへんがごっそり抜けている。
でも一つだけ、鮮明に残っている場面があった。
翌日、母親が言ったのだ。
「学校でちょっと事故があったけど、あなたは何も見てないの。分かった?」
そのときの母の顔が、今になって初めて思い出せた。
怯えていた。僕を守るためというより、自分たちの生活が壊れるのを恐れている顔だった。
先生も、親も、学校も。
みんなで口をそろえて、なかったことにしたのだ。
転校した。そういうことにした。
僕はフェンスに手をついた。金属が冷たかった。
吐き気がした。
足元の地面が、十年前の赤い夕焼けに重なって見えた。
もういない。
あの日、日記にそう書いたのは、たぶん思い出せたからだ。
でも、全部は抱えきれなくて、そこで止まった。
書き続ければ本当に思い出してしまうから、日記そのものをやめたのだろう。
僕はずっと、自分は直接手を下していない側だと思っていた。
でも、それはただの言い訳だった。
笑ったことがある。
目をそらしたことがある。
助けを求める空気を、見ないふりで踏み潰したことがある。
それで十分だ。
人は、手を汚さなくても加害者になれる。
しかも、かなり手軽に。
夕日が少しずつ沈んでいく。
校舎の窓が赤から黒へ変わっていく。
そのとき、不意に、頭の中で一つの声がした。
思い出せ。
自分の声なのか、あいつの声なのか分からなかった。
でも、そこで初めて、僕は顔を上げた。
「……ごめん」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
遅すぎる。
あまりにも遅い。
しかも、その一言で何かが戻るわけでもない。
ただ、言わずにはいられなかった。
風が吹いた。
フェンスの向こうで、どこかの部活の掛け声が遠く響いた。
今ここにいる生徒たちは、そんなこと何も知らない。知らないまま卒業していくのだろう。この学校には、そういうものがいくつも沈んでいて、その上で毎日が普通に進んでいく。
僕はその場を離れた。
駅までの道を歩きながら、何度も後ろを振り返りそうになった。
誰かがついてきている気がしたわけじゃない。
逆だ。振り返ったら、そこに誰もいないことを確認してしまうのが怖かった。
いない。
もう、この世には。
名前も思い出せない。
顔も思い出せない。
声も、最後の言葉も、欠けたままだ。
それが罰なのかもしれないと思った。
忘れてしまったことではなく、思い出したあとですら、完全には戻せないこと。
その空白を抱えたまま生きること。
帰宅して、僕は机に日記を開いた。
最後のページの、「もういない」というかすれた文字をしばらく見つめる。
その下に、今の自分の字で一行だけ書き足した。
いた。
俺たちが消した。
書いたあとで、ページを閉じた。
それを誰かに見せるつもりはなかった。警察に行くべきなのか、学校に問いただすべきなのか、そんなことはまだ分からない。十年も前のことだ。証拠なんて残っていないかもしれない。今さら掘り返して、何になるのかとも思う。
でも、少なくとも、なかったことにはしない。
それだけは決めた。
部屋は静かだった。
窓の外はもう暗い。
街の灯りが、遠くで鈍くにじんでいる。
ふと、自分の中にある中学時代の教室を思い浮かべる。
机の並び。チョークの粉。笑い声。誰かの悪意。見て見ぬふり。
その輪の外に、一人ぶんの空白がある。
最初から誰もいなかったみたいに、きれいに切り取られた空白だ。
けれど、もう知っている。
そこには、確かに一人いた。
いたのに、もういない。
そしてたぶん、これから先も、僕はあいつの顔を思い出せないまま生きていく。
それでも、と僕は思う。
それでも忘れるよりはましだ。
部屋の明かりを消すと、窓ガラスに自分の顔だけがぼんやり映った。
しばらく見ていると、その輪郭が少しだけ揺れた気がした。
疲れているだけだ、と自分に言い聞かせる。
だが目をそらす直前、ガラスの向こう、僕の肩のあたりに、もう一つ、白いシャツの気配が立った気がした。
振り返っても、誰もいなかった。
当然だ。
もういないのだから。




