島に一人だけいる女
九月十七日。
日付はたぶん合っている。腕時計は止まったが、嵐の前に船内で見た日めくりだけは覚えていた。
この帳面は、救命ボートに積んであった防水袋の中から出てきた。もとは航海日誌の予備だ。こういうときに書くためのものじゃないだろうが、頭の中身を並べておかないと、何が本当で何が思い込みか分からなくなりそうで気味が悪い。
俺の名は真島遼、三十歳。遠洋のまぐろ漁船に乗っていた。
嵐で船が割れた。
音が先だった。船体の腹の底から、鉄が耐えきれずに泣くような音がして、それから全部が一気に傾いた。照明が消え、機関の唸りが途切れ、真っ黒な海が甲板の上に立った。誰かが怒鳴っていたが、何を言っていたのか分からない。分かったのは、考えるより先にボートへ飛ぶしかないということだけだ。
助かったのは三人。
船長の梶田。
甲板員の寺門。
それと俺。
他の連中がどうなったかは、書きたくない。見えたものまで本当だったとは限らないが、あの夜の波は、人間の数なんて最初から勘定に入れていなかった。
ボートは二日流された。水は少ない。食い物は乾パンが数枚。三人とも口数が減った。寺門だけは時々、舌打ちみたいに笑った。
「船長の勘も、海じゃ当たらねえな」
梶田は返さなかった。返す元気がないのか、相手にする気がないのか、見ていても分からなかった。
三日目の朝、島が見えた。
岩が多く、輪郭の刺々しい島だった。砂浜は狭い。木はあるが、南の島の絵みたいに明るくはない。潮風に削られた葉が、みんな同じ向きに傾いている。島全体が、ずっと片側から押され続けてきたみたいな形をしていた。
上陸してまずやったのは水探しだ。
それから火。
それから高い場所。
そういう順番は、考えなくても体が覚えている。俺はそういうところだけは役に立つ。役に立たない話は苦手だ。慰めも祈りも、腹の足しにはならない。
島の中央近くに、岩の割れ目から水がしみ出す場所があった。飲めなくはない。火も起こせた。高台から海を見ても、船影はなかった。
それだけなら、運が悪い難破で済んだ。
おかしかったのは、その日の夕方だ。
島の北側を回っていた寺門が、妙な声を出して俺たちを呼んだ。
行ってみると、木立の奥に、古い船が半分埋まっていた。
船といっても、形の残り方はひどい。船腹は割れ、肋骨みたいな骨組みだけがむき出しで、蔓がその間を這っていた。木の船だったらしい。かなり昔のものだ。けれど、その近くにはもっと新しい時代のものもあった。アルミの鍋、ガラス瓶、ブリキ缶、プラスチックの箱。難破船が一度だけでなく、何度もここに流れ着いているのが一目で分かった。
「こんな島、海図にあったか」
寺門が言った。
梶田は首を振った。
「知らん」
人の痕跡もあった。
焚き火の跡。
粗末な小屋の残骸。
岩に打ちつけた釘。
木に刻まれた線。正の字みたいに日を数えた跡。
ただ、妙だったのは、どれも長く続いた暮らしには見えないことだ。
どの痕跡も、途中で終わっている。
諦めたように。
あるいは、急に必要なくなったように。
その翌日、女を見つけた。
島の南側、風を避ける崖のくぼみに、小屋が一つあった。過去の漂流者たちの残骸をつぎはぎしたような作りで、船板と錆びた板金と白い布が組み合わさっていた。そこに、若い女がいた。
白いシャツに、色の抜けたスカート。
裸足。
髪は長いが、荒れていない。
顔立ちは整っていたが、まずそこより先に変だと思ったのは、こちらを見ても驚かなかったことだ。
まるで、来るのが分かっていたような顔をしていた。
「人がいるのか」
寺門が先に言った。
女は少し首を傾げた。
「いるでしょう」
声は静かだった。若いのに、妙に乾いて聞こえた。
梶田が一歩前に出た。
「君、一人か」
女は答える前に、俺たち三人の顔を順に見た。値踏みではなく、確認するような目つきだった。
「今は」
その返事が、妙に耳に残った。
名はミナだと言った。苗字は言わない。いつからこの島にいるのか聞いても、
「長いです」
としか言わない。食べ物は魚と貝、たまに島の果実。水場も知っていた。火の起こし方も慣れていた。人間が一人で生きていくのに必要なことを、一通り持っている感じだった。
だが、どう見ても、長く孤独だった人間の雰囲気ではない。
目だけが、変に落ち着いていた。
寺門はすぐに笑顔を作った。
「助かったな。こりゃ運が残ってた」
ミナは笑わなかった。
「そうでしょうか」
俺はその時点で、この女は好きじゃないと思った。
美人だからとか、怪しいからとか、そういう話じゃない。
なんというか、会話の中に手応えがない。こっちの投げた言葉が、ちゃんと返ってきているのに、届いた感じがしないのだ。
夜、梶田がぼそりと言った。
「あの子は、ここにいてはいかん感じがする」
俺は同意した。
寺門は鼻で笑った。
「逆だろ。俺らが来るのを待ってたんだよ」
その日から、三人の様子がずれ始めた。
寺門は露骨だった。魚を多く獲ればミナに持っていく。貝を剥く。小屋の補修を手伝う。声色まで変わった。あいつはもともと女好きだが、それにしても速すぎた。
梶田は逆だった。口数が減り、ミナを見つめる時間が増えた。ある夕方、浜で女と話している船長の背中が見えた。近づくと、梶田が低い声で言っていた。
「……すまなかった」
ミナは何も答えなかった。
波の音だけがしていた。
夜、俺は船長に聞いた。
「知り合いですか」
梶田はしばらく黙り、それから言った。
「娘に似ている」
初耳だった。船長に娘がいたとは知らなかった。
「亡くしたんだ。ずっと前に」
それだけ言って、火の向こうを見た。
寺門にその話をしたら、あいつは怪訝な顔をした。
「娘? 何言ってんだ。あの女、俺にそんな話してねえぞ」
「してないだろ。船長が勝手にそう言ってるだけだ」
「いや、そうじゃねえ。あの女、船長にはきついよ。俺には優しい」
俺はそこで嫌な感じがした。
「優しいって、何を言われた」
寺門は少し考え、にやついた。
「秘密」
その笑い方が、普段の寺門のものと少し違っていた。
三日後、古い手帳を見つけた。
島の北側の難破船の中、崩れた木箱の底に、防水布に包まれて残っていた。紙は黄ばんでいたが読めた。戦前のものらしい。達筆ではないが丁寧な字で、男が書いた日記だった。
内容は、最初の数ページで俺の手を止めた。
難破。
漂着。
男三人。
島。
そして、若い女が一人。
冗談みたいだった。
そこにはこう書いてあった。
――女は我々を恐れない。
――同じ言葉を言っているはずなのに、受け取り方が三人で違う。
――彼女は嘘をつかぬように思える。だが、真実を渡しているとも思えぬ。
――聞く側が、勝手に欲しいものを見ているのではないか。
俺は手帳を閉じた。
そのまま波打ち際まで行って、しばらく立っていた。
腹の底が冷えた。
夕方、小屋へ戻ると寺門がいなかった。梶田もいない。
ミナは一人で魚を焼いていた。
「二人は」
「森の方です」
それだけだった。
俺は走った。
森の奥で、先に見つけたのは寺門だった。木の根元に倒れていた。死んではいない。頭を打って気を失っていた。近くの地面には、争った跡があった。折れた枝。擦れた土。
少し離れた崖の縁に、梶田の帽子が落ちていた。
下を見たが、暗くてよく見えない。
呼んでも返事はなかった。
寺門が目を覚ましたのは夜半すぎだ。火の前で、水を飲ませるとすぐに喚いた。
「船長が狂ったんだ。あの女を隠すなって」
「隠す?」
「あいつ、俺の邪魔ばっかりしやがる。ミナは俺と行くって言ってたんだ」
俺は何も言わなかった。
寺門の額は熱かった。目の焦点も落ち着かない。
だが、本当に熱のせいだけとも思えなかった。
翌朝、梶田の姿は見つからなかった。
帽子だけだ。
寺門は昼まで黙っていたが、午後になるとふらふらとミナの小屋へ向かった。慌てて追うと、あいつは小屋の前で立ち尽くしていた。
ミナが言った。
「この島では、欲しい形のものが見えやすくなります」
「何だと」
「だから、だめになるのが早いんです」
寺門が振り返った。目が赤かった。
「おまえには分からねえよ、真島。あの人は俺にだけ、本当のことを言う」
あの人。
寺門がそう呼んだ瞬間、背筋がぞっとした。昨日まで「女」だの「ミナ」だの言っていた男が。
俺は寺門を殴った。倒して、縛った。
そうでもしないと、あいつはそのまま海へでも歩いていきそうだった。
その夜、俺はミナの小屋へ行った。包丁を持って。
殺すつもりだったのかは、自分でも分からない。
少なくとも、確かめるつもりだった。
人間かどうか。
化け物かどうか。
あるいは、もっと別の厄介な何かなのか。
小屋の前に立つと、ミナは中から言った。
「入ってください」
俺は包丁を握ったまま入った。
中は質素だった。寝床。鍋。乾かした魚。壁に吊られた古い布袋。
生活の匂いはある。だが、持ち主の歴史みたいなものが薄い。
「おまえは何者だ」
「人です」
「梶田も、寺門も、おかしくなった」
「最初から、少しずつそうでした」
その言い方が腹に立った。
「おまえがそうしたんじゃないのか」
「私は、言われたことに答えただけです」
「何を」
「探していることに」
俺は黙った。
ミナは火を見たまま続けた。
「あなたたちは、ここへ来る前から、それぞれ別のものを失っていました。島では、それが近く見えます。手が届きそうに思える。だから壊れます」
「おまえは平気なのか」
そのとき初めて、ミナがこちらを見た。
「平気に見えますか」
その顔には、疲れも怒りも悲しみも薄かった。
ただ、どれも長く使い切って、表に出す量が残っていないように見えた。
「昔の手帳を読んだ」
俺が言うと、ミナは少しだけ目を伏せた。
「たくさんあります。読む人はあまりいません」
「おまえはいつからここにいる」
「長いです」
「何年だ」
「数えなくなりました」
そこでようやく、ひどく単純なことに気づいた。
小屋の中には、女物らしいものがほとんどない。櫛も化粧道具もない。衣類も少ない。あるのは、漂着物を寄せ集めた生活だけだ。ここは「女が暮らした場所」じゃない。
ただ「誰かが一人で生き延びた場所」だ。
「おまえも、流れ着いたのか」
ミナはすぐには答えなかった。
「……最初は」
その一言だけで充分だった。
俺は包丁を下ろした。
ミナは続けた。
「みんな、助かる方法を考えます。でも、三人いると、たいてい途中で一人欠けます。二人になると、もっとだめです。最後に一人残ると、やることが減ります。待つことしかなくなる」
「救助は来ないのか」
「来たことはあります」
「じゃあなぜ」
「連れていかれなかったから」
意味が分からなかった。
だが、その時の俺には、分からないことを問い詰める力が残っていなかった。
翌朝、寺門がいなくなっていた。縛った蔓が切られていた。
浜へ行くと、ボートも消えていた。押し出した跡がある。
海は静かだった。
水平線まで何もない。
あいつがどこへ向かったのか、考えるだけ無駄だった。
それから二日、俺は救助のための火を絶やさないようにした。
高台へ上がり、海を見る。
雨水を溜める。
魚を獲る。
古い手帳を読む。
手帳は一冊ではなかった。
時代の違う帳面が、何冊も見つかった。どれにも似た記述があった。難破。漂着。数人の男。島に一人の女。食い違う言葉。ズレる認識。減っていく人数。
そして、最後まで残った者の字は、だいたい途中から変わる。
簡潔だった文が、短くなる。
日付が抜ける。
人称が曖昧になる。
書く相手が、自分ではなく、まだ来ていない誰かになっていく。
嫌な仕組みだった。
まるでこの島そのものが、待ち方を覚えさせるみたいで。
五日目の朝、沖に船影が見えた。
最初は蜃気楼かと思った。
だが違った。白い船体。細い煙。こちらへは来ていないが、確かに現実の形だった。
俺は火を焚いた。布を振った。喉が裂けるほど叫んだ。
船は進路を変えない。
見えているのに、届かない。
あんなもの、海では珍しくも何ともないはずなのに、その時の俺には、世界の意地悪さそのものに見えた。
振り返ると、少し離れた浜にミナが立っていた。
いつもと同じ顔で、船を見ていた。
「見えてるのか」
「ええ」
「なぜ来ない」
「たぶん、向こうには向こうの海があるんでしょう」
意味の分からない答えだった。
腹が立った。
だがそれ以上に、疲れていた。
その夜、俺は古い手帳を抱えて寝た。
夢は見なかった。たぶん。
朝、潮が引いた浜で、新しい帳面を見つけた。
俺のものだった。
角の擦れ具合。表紙についた焦げ跡。最後の数ページを破って、火種に使った覚えのある切れ方。
間違えようがない。
震える手で開くと、見慣れた字が並んでいた。
俺の字だった。
途中までは、たしかに今まで書いた記録そのものだった。
だが、その先に、まだ書いていないはずの続きがあった。
――火を見ていると、帰りたい気持ちが減る。
――名前はまだあるが、呼ぶ相手がいない。
――そのうち、来た者の顔だけを確かめるようになる。
――三人いると安心する。最初はいつも三人だから。
――女が一人でいたのではない。最後に残った者が、一人で女をしていただけだ。
そこまで読んで、俺は帳面を閉じた。
息ができなかった。
浜の向こうで、ミナがこちらを見ていた。
風で髪が揺れていた。
年齢の分からない顔だった。
俺はその日記を海へ投げようとして、できなかった。
代わりに、北側の難破船のそばへ持っていった。
古い手帳が並べられていた場所に、戻すためだ。
並んだ帳面の背表紙は、潮と時間でみんな同じ色にくすんでいた。
そのいちばん端に、まだ今朝の潮の匂いがする、俺の帳面がもう置いてあった。




