表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/16

島に一人だけいる女

 九月十七日。

 日付はたぶん合っている。腕時計は止まったが、嵐の前に船内で見た日めくりだけは覚えていた。


 この帳面は、救命ボートに積んであった防水袋の中から出てきた。もとは航海日誌の予備だ。こういうときに書くためのものじゃないだろうが、頭の中身を並べておかないと、何が本当で何が思い込みか分からなくなりそうで気味が悪い。


 俺の名は真島遼、三十歳。遠洋のまぐろ漁船に乗っていた。

 嵐で船が割れた。


 音が先だった。船体の腹の底から、鉄が耐えきれずに泣くような音がして、それから全部が一気に傾いた。照明が消え、機関の唸りが途切れ、真っ黒な海が甲板の上に立った。誰かが怒鳴っていたが、何を言っていたのか分からない。分かったのは、考えるより先にボートへ飛ぶしかないということだけだ。


 助かったのは三人。

 船長の梶田。

 甲板員の寺門。

 それと俺。


 他の連中がどうなったかは、書きたくない。見えたものまで本当だったとは限らないが、あの夜の波は、人間の数なんて最初から勘定に入れていなかった。


 ボートは二日流された。水は少ない。食い物は乾パンが数枚。三人とも口数が減った。寺門だけは時々、舌打ちみたいに笑った。

「船長の勘も、海じゃ当たらねえな」

 梶田は返さなかった。返す元気がないのか、相手にする気がないのか、見ていても分からなかった。


 三日目の朝、島が見えた。


 岩が多く、輪郭の刺々しい島だった。砂浜は狭い。木はあるが、南の島の絵みたいに明るくはない。潮風に削られた葉が、みんな同じ向きに傾いている。島全体が、ずっと片側から押され続けてきたみたいな形をしていた。


 上陸してまずやったのは水探しだ。

 それから火。

 それから高い場所。


 そういう順番は、考えなくても体が覚えている。俺はそういうところだけは役に立つ。役に立たない話は苦手だ。慰めも祈りも、腹の足しにはならない。


 島の中央近くに、岩の割れ目から水がしみ出す場所があった。飲めなくはない。火も起こせた。高台から海を見ても、船影はなかった。


 それだけなら、運が悪い難破で済んだ。


 おかしかったのは、その日の夕方だ。


 島の北側を回っていた寺門が、妙な声を出して俺たちを呼んだ。

 行ってみると、木立の奥に、古い船が半分埋まっていた。


 船といっても、形の残り方はひどい。船腹は割れ、肋骨みたいな骨組みだけがむき出しで、蔓がその間を這っていた。木の船だったらしい。かなり昔のものだ。けれど、その近くにはもっと新しい時代のものもあった。アルミの鍋、ガラス瓶、ブリキ缶、プラスチックの箱。難破船が一度だけでなく、何度もここに流れ着いているのが一目で分かった。


「こんな島、海図にあったか」

 寺門が言った。

 梶田は首を振った。

「知らん」


 人の痕跡もあった。

 焚き火の跡。

 粗末な小屋の残骸。

 岩に打ちつけた釘。

 木に刻まれた線。正の字みたいに日を数えた跡。


 ただ、妙だったのは、どれも長く続いた暮らしには見えないことだ。

 どの痕跡も、途中で終わっている。

 諦めたように。

 あるいは、急に必要なくなったように。


 その翌日、女を見つけた。


 島の南側、風を避ける崖のくぼみに、小屋が一つあった。過去の漂流者たちの残骸をつぎはぎしたような作りで、船板と錆びた板金と白い布が組み合わさっていた。そこに、若い女がいた。


 白いシャツに、色の抜けたスカート。

 裸足。

 髪は長いが、荒れていない。

 顔立ちは整っていたが、まずそこより先に変だと思ったのは、こちらを見ても驚かなかったことだ。


 まるで、来るのが分かっていたような顔をしていた。


「人がいるのか」

 寺門が先に言った。

 女は少し首を傾げた。

「いるでしょう」


 声は静かだった。若いのに、妙に乾いて聞こえた。


 梶田が一歩前に出た。

「君、一人か」


 女は答える前に、俺たち三人の顔を順に見た。値踏みではなく、確認するような目つきだった。

「今は」


 その返事が、妙に耳に残った。


 名はミナだと言った。苗字は言わない。いつからこの島にいるのか聞いても、

「長いです」

 としか言わない。食べ物は魚と貝、たまに島の果実。水場も知っていた。火の起こし方も慣れていた。人間が一人で生きていくのに必要なことを、一通り持っている感じだった。


 だが、どう見ても、長く孤独だった人間の雰囲気ではない。

 目だけが、変に落ち着いていた。


 寺門はすぐに笑顔を作った。

「助かったな。こりゃ運が残ってた」

 ミナは笑わなかった。

「そうでしょうか」


 俺はその時点で、この女は好きじゃないと思った。

 美人だからとか、怪しいからとか、そういう話じゃない。

 なんというか、会話の中に手応えがない。こっちの投げた言葉が、ちゃんと返ってきているのに、届いた感じがしないのだ。


 夜、梶田がぼそりと言った。

「あの子は、ここにいてはいかん感じがする」

 俺は同意した。

 寺門は鼻で笑った。

「逆だろ。俺らが来るのを待ってたんだよ」


 その日から、三人の様子がずれ始めた。


 寺門は露骨だった。魚を多く獲ればミナに持っていく。貝を剥く。小屋の補修を手伝う。声色まで変わった。あいつはもともと女好きだが、それにしても速すぎた。


 梶田は逆だった。口数が減り、ミナを見つめる時間が増えた。ある夕方、浜で女と話している船長の背中が見えた。近づくと、梶田が低い声で言っていた。

「……すまなかった」

 ミナは何も答えなかった。

 波の音だけがしていた。


 夜、俺は船長に聞いた。

「知り合いですか」

 梶田はしばらく黙り、それから言った。

「娘に似ている」

 初耳だった。船長に娘がいたとは知らなかった。

「亡くしたんだ。ずっと前に」

 それだけ言って、火の向こうを見た。


 寺門にその話をしたら、あいつは怪訝な顔をした。

「娘? 何言ってんだ。あの女、俺にそんな話してねえぞ」

「してないだろ。船長が勝手にそう言ってるだけだ」

「いや、そうじゃねえ。あの女、船長にはきついよ。俺には優しい」


 俺はそこで嫌な感じがした。

「優しいって、何を言われた」

 寺門は少し考え、にやついた。

「秘密」


 その笑い方が、普段の寺門のものと少し違っていた。


 三日後、古い手帳を見つけた。


 島の北側の難破船の中、崩れた木箱の底に、防水布に包まれて残っていた。紙は黄ばんでいたが読めた。戦前のものらしい。達筆ではないが丁寧な字で、男が書いた日記だった。


 内容は、最初の数ページで俺の手を止めた。


 難破。

 漂着。

 男三人。

 島。

 そして、若い女が一人。


 冗談みたいだった。


 そこにはこう書いてあった。


 ――女は我々を恐れない。

 ――同じ言葉を言っているはずなのに、受け取り方が三人で違う。

 ――彼女は嘘をつかぬように思える。だが、真実を渡しているとも思えぬ。

 ――聞く側が、勝手に欲しいものを見ているのではないか。


 俺は手帳を閉じた。

 そのまま波打ち際まで行って、しばらく立っていた。

 腹の底が冷えた。


 夕方、小屋へ戻ると寺門がいなかった。梶田もいない。

 ミナは一人で魚を焼いていた。


「二人は」

「森の方です」


 それだけだった。

 俺は走った。


 森の奥で、先に見つけたのは寺門だった。木の根元に倒れていた。死んではいない。頭を打って気を失っていた。近くの地面には、争った跡があった。折れた枝。擦れた土。

 少し離れた崖の縁に、梶田の帽子が落ちていた。


 下を見たが、暗くてよく見えない。

 呼んでも返事はなかった。


 寺門が目を覚ましたのは夜半すぎだ。火の前で、水を飲ませるとすぐに喚いた。

「船長が狂ったんだ。あの女を隠すなって」

「隠す?」

「あいつ、俺の邪魔ばっかりしやがる。ミナは俺と行くって言ってたんだ」


 俺は何も言わなかった。

 寺門の額は熱かった。目の焦点も落ち着かない。

 だが、本当に熱のせいだけとも思えなかった。


 翌朝、梶田の姿は見つからなかった。

 帽子だけだ。


 寺門は昼まで黙っていたが、午後になるとふらふらとミナの小屋へ向かった。慌てて追うと、あいつは小屋の前で立ち尽くしていた。

 ミナが言った。

「この島では、欲しい形のものが見えやすくなります」

「何だと」

「だから、だめになるのが早いんです」


 寺門が振り返った。目が赤かった。

「おまえには分からねえよ、真島。あの人は俺にだけ、本当のことを言う」


 あの人。

 寺門がそう呼んだ瞬間、背筋がぞっとした。昨日まで「女」だの「ミナ」だの言っていた男が。


 俺は寺門を殴った。倒して、縛った。

 そうでもしないと、あいつはそのまま海へでも歩いていきそうだった。


 その夜、俺はミナの小屋へ行った。包丁を持って。


 殺すつもりだったのかは、自分でも分からない。

 少なくとも、確かめるつもりだった。

 人間かどうか。

 化け物かどうか。

 あるいは、もっと別の厄介な何かなのか。


 小屋の前に立つと、ミナは中から言った。

「入ってください」


 俺は包丁を握ったまま入った。

 中は質素だった。寝床。鍋。乾かした魚。壁に吊られた古い布袋。

 生活の匂いはある。だが、持ち主の歴史みたいなものが薄い。


「おまえは何者だ」

「人です」

「梶田も、寺門も、おかしくなった」

「最初から、少しずつそうでした」


 その言い方が腹に立った。

「おまえがそうしたんじゃないのか」

「私は、言われたことに答えただけです」


「何を」

「探していることに」


 俺は黙った。

 ミナは火を見たまま続けた。

「あなたたちは、ここへ来る前から、それぞれ別のものを失っていました。島では、それが近く見えます。手が届きそうに思える。だから壊れます」


「おまえは平気なのか」

 そのとき初めて、ミナがこちらを見た。

「平気に見えますか」


 その顔には、疲れも怒りも悲しみも薄かった。

 ただ、どれも長く使い切って、表に出す量が残っていないように見えた。


「昔の手帳を読んだ」

 俺が言うと、ミナは少しだけ目を伏せた。

「たくさんあります。読む人はあまりいません」


「おまえはいつからここにいる」

「長いです」

「何年だ」

「数えなくなりました」


 そこでようやく、ひどく単純なことに気づいた。

 小屋の中には、女物らしいものがほとんどない。櫛も化粧道具もない。衣類も少ない。あるのは、漂着物を寄せ集めた生活だけだ。ここは「女が暮らした場所」じゃない。

 ただ「誰かが一人で生き延びた場所」だ。


「おまえも、流れ着いたのか」

 ミナはすぐには答えなかった。

「……最初は」


 その一言だけで充分だった。


 俺は包丁を下ろした。

 ミナは続けた。

「みんな、助かる方法を考えます。でも、三人いると、たいてい途中で一人欠けます。二人になると、もっとだめです。最後に一人残ると、やることが減ります。待つことしかなくなる」


「救助は来ないのか」

「来たことはあります」

「じゃあなぜ」

「連れていかれなかったから」


 意味が分からなかった。

 だが、その時の俺には、分からないことを問い詰める力が残っていなかった。


 翌朝、寺門がいなくなっていた。縛った蔓が切られていた。

 浜へ行くと、ボートも消えていた。押し出した跡がある。

 海は静かだった。

 水平線まで何もない。

 あいつがどこへ向かったのか、考えるだけ無駄だった。


 それから二日、俺は救助のための火を絶やさないようにした。

 高台へ上がり、海を見る。

 雨水を溜める。

 魚を獲る。

 古い手帳を読む。


 手帳は一冊ではなかった。

 時代の違う帳面が、何冊も見つかった。どれにも似た記述があった。難破。漂着。数人の男。島に一人の女。食い違う言葉。ズレる認識。減っていく人数。


 そして、最後まで残った者の字は、だいたい途中から変わる。

 簡潔だった文が、短くなる。

 日付が抜ける。

 人称が曖昧になる。

 書く相手が、自分ではなく、まだ来ていない誰かになっていく。


 嫌な仕組みだった。

 まるでこの島そのものが、待ち方を覚えさせるみたいで。


 五日目の朝、沖に船影が見えた。


 最初は蜃気楼かと思った。

 だが違った。白い船体。細い煙。こちらへは来ていないが、確かに現実の形だった。


 俺は火を焚いた。布を振った。喉が裂けるほど叫んだ。

 船は進路を変えない。

 見えているのに、届かない。

 あんなもの、海では珍しくも何ともないはずなのに、その時の俺には、世界の意地悪さそのものに見えた。


 振り返ると、少し離れた浜にミナが立っていた。

 いつもと同じ顔で、船を見ていた。


「見えてるのか」

「ええ」

「なぜ来ない」

「たぶん、向こうには向こうの海があるんでしょう」


 意味の分からない答えだった。

 腹が立った。

 だがそれ以上に、疲れていた。


 その夜、俺は古い手帳を抱えて寝た。

 夢は見なかった。たぶん。


 朝、潮が引いた浜で、新しい帳面を見つけた。


 俺のものだった。


 角の擦れ具合。表紙についた焦げ跡。最後の数ページを破って、火種に使った覚えのある切れ方。

 間違えようがない。


 震える手で開くと、見慣れた字が並んでいた。

 俺の字だった。


 途中までは、たしかに今まで書いた記録そのものだった。

 だが、その先に、まだ書いていないはずの続きがあった。


 ――火を見ていると、帰りたい気持ちが減る。

 ――名前はまだあるが、呼ぶ相手がいない。

 ――そのうち、来た者の顔だけを確かめるようになる。

 ――三人いると安心する。最初はいつも三人だから。

 ――女が一人でいたのではない。最後に残った者が、一人で女をしていただけだ。


 そこまで読んで、俺は帳面を閉じた。

 息ができなかった。


 浜の向こうで、ミナがこちらを見ていた。

 風で髪が揺れていた。

 年齢の分からない顔だった。


 俺はその日記を海へ投げようとして、できなかった。

 代わりに、北側の難破船のそばへ持っていった。

 古い手帳が並べられていた場所に、戻すためだ。


 並んだ帳面の背表紙は、潮と時間でみんな同じ色にくすんでいた。

 そのいちばん端に、まだ今朝の潮の匂いがする、俺の帳面がもう置いてあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ