汚死活
最初は、ただ元気をもらっているだけだった。
夜の配信。画面の中で笑うキャラクター。ぱっちりした丸い目。ふわふわした茶色の髪。頭には丸い狸耳の飾り、腰の後ろでは大きなしっぽが揺れている。名前は狸山たぬこ。狸がモチーフの、二次元のアニメっぽいアイドルキャラクターだった。
歌って、喋って、視聴者の名前を読んでくれる。
中野颯太は、仕事から帰ると必ずその配信を開いた。
コンビニの棚補充。朝が早い。時給は高くない。客に怒鳴られても、発注を間違えても、店長に嫌味を言われても、夜になってたぬこが笑えば、それで一日が終わる気がした。
「颯太くん、今日も来てくれてありがとー!」
もちろん、自分だけに向けられた声じゃない。そういう仕組みだとわかっている。投げ銭した人の名前を、画面の向こうの演者が読んでいるだけだ。わかっているのに、その一瞬だけ、自分という輪郭が世界に認識された気がした。
いる。
ここに、自分が。
その感覚は、思ったより強かった。
最初は五百円だった。次は千円。限定ボイスが出れば買った。誕生日グッズ、アクリルスタンド、缶バッジ、タペストリー。受注生産という言葉に追い立てられるように、颯太は給料日ごとにアプリを開いた。
食費は削れた。どうせ一人だ。昼は菓子パンでいい。夜はカップ麺でいい。
光熱費は、少しなら待ってもらえる。
家賃は、さすがに払う。
いや、でも、今月は周年記念がある。
たぬこの新衣装。三周年。記念配信。そこで投げないで、いつ投げるんだ。
そういう月が、続いた。
颯太は三十二歳だった。友人は少なかった。恋人はいない。昔から人とうまく距離が取れず、近づきすぎるか、最初から何も言えなくなるかのどちらかだった。職場でも、必要な会話しかしない。冗談に笑うタイミングがずれる。誰かといても、自分の身体の外側だけがそこにあるような感じがした。
だが、たぬこを見ているときだけは違った。
彼女はいつも同じ部屋にいて、同じ角度でこちらを見て、同じ明るさで笑う。
こちらが疲れていても、機嫌が悪くても、みじめでも、嫌な顔をしない。
人間より、よほどやさしかった。
部屋にグッズが増えていった。
段ボールを畳まずに積むようになったのは、何となく面倒だったからだ。ペットボトルを捨てなくなったのは、収集日を忘れるからだ。レシートを丸めて床に落としたのは、たぶん、何でもよかったからだ。
床が見えなくなっても、困らなかった。
むしろ少し安心した。
外から来たものが、外へ逃げていかずにそこへ留まる。買ったもの。飲んだもの。食べたもの。自分がここで生きた痕跡。ゴミと呼ばれるには、あまりにも自分に近いものたちだった。
部屋の隅にたぬこの等身大タペストリーを掛けると、その周囲だけ祭壇みたいに見えた。
にこにこ笑うたぬこを中心に、箱、袋、服、雑誌、食べかす、使い終わったウェットティッシュ、割れたプラスチックケース、積み上がった通販の緩衝材が、ゆるい地層みたいに重なっていく。
颯太はその中に座って、スマホを握りしめ、イヤホン越しに声を聞いた。
「だいすきだよ、みんなー!」
その“みんな”のなかに、自分が溶けていく感じがした。
輪郭が薄くなるのは、悪いことじゃなかった。
自分でいるのは、少し疲れる。
だから彼は、推しに自分を重ねるようになった。
たぬこが頑張るなら、自分も頑張っている気がした。たぬこが笑えば、自分も無事な気がした。たぬこが傷つけば、自分が傷ついた。たぬこが愛されれば、自分が肯定された。
逆だったのかもしれない。
自分が空っぽだから、その中に彼女を流し込んでいた。
母親が最初に異変に気づいたのは、電話の回数が減ったからではなく、声の厚みがなくなったからだった。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「嘘。あんた今、座ってるのもしんどいでしょ」
母はそういうところが鋭かった。
数日後、連絡もなしに来た。合鍵を使って部屋へ入った瞬間、う、と息を詰まらせた。
「ちょっと、何これ……」
甘い芳香剤の匂いと、生ごみの酸っぱい匂いが混ざっていた。足の踏み場もない。ベランダまで段ボールで塞がれている。窓はカーテンもろくに開かず、昼なのに部屋が暗い。
たぬこの笑顔だけが、モニターの光で浮いていた。
「片づけよう、颯太。今すぐ。業者さん呼ぶから」
「触るな」
自分でも驚くくらい低い声が出た。
母は振り返った。颯太は立ち上がろうとして、空の缶を踏み、派手に崩れた。その音で、近くにいた高校時代の友人、拓海まで顔を出した。母が頼んで一緒に来ていたらしい。
「颯太、怒らないで聞け。これ、もう一人じゃ無理だって」
「触るなって言ってるだろ!」
颯太は叫んだ。喉が裂けるみたいな声だった。
「捨てられるものなんかない!」
拓海が手に持っていたコンビニ袋を、颯太はひったくるように奪い返した。中には何か月も前の弁当容器が入っていた。蓋の内側に白いものがこびりついている。誰が見てもゴミだった。
なのに、颯太にはそれが、自分の皮膚の一部みたいに見えた。
捨てられたら、自分のどこかが消える。
「これは俺のだ」
「そんなのわかってるよ」
「わかってない!」
母が泣きそうな顔をした。拓海は何も言わなかった。ただ、ひどく疲れた顔で部屋を見渡したあと、壁のタペストリーを見た。たぬこが、変わらない笑顔でそこにいた。
その日、二人は何も持ち出せなかった。
帰り際、母は玄関で振り返って言った。
「助けてって言いなさい。今ならまだ助けられるから」
颯太は答えなかった。
ドアが閉まると、部屋はしんとした。配信はちょうど終盤だった。たぬこが視聴者に向かって、明るい声で言う。
「みんな、今日も生きててえらいよー!」
颯太は泣いた。
自分でも理由はよくわからなかった。ただ、母に言われた“助けて”より、その台詞のほうがずっと自然に胸に入ってきた。
その日から、彼はますます外へ出なくなった。
仕事は辞めた。無断欠勤のあと、何度か電話が来たが取らなかった。貯金はすぐ尽きた。クレジットの枠も削れた。消費者金融の広告がスマホに出た。水は止まったが、近くの公園のトイレで汲めた。電気はぎりぎり残った。スマホの充電さえできれば、それでよかった。
食べることは面倒になった。
配信の予定だけは、きちんと確認した。
起きて、聞いて、少し眠る。また起きて、聞く。頭が重い。手足が冷たい。なのに、たぬこの声が流れ始めると、部屋の空気だけが少し明るくなる。
ゴミはさらに積み上がった。
袋は壁になった。箱は砦になった。汚れた服は毛布より安心した。外の世界は冷たい。請求書は責めてくる。母は正しいことを言う。拓海は哀れむ目をする。みんな、自分をこちら側から引っぱり出そうとする。
でも、出た先に何がある。
働いて、疲れて、恥をかいて、誰にも必要とされない日々があるだけだ。
ここにはたぬこがいる。
名前を呼んでくれる。ありがとうと言ってくれる。笑ってくれる。ずっと、ずっと。
颯太はサブスクのプランを上げた。残高不足で止まるのが嫌で、自動決済を増やした。記念配信用の定期投げ銭も設定した。次の月、その次の月、さらにその次も。未来の自分が何を食うかより、未来の彼女に何を渡せるかのほうが重要だった。
冬の終わりごろ、部屋のなかで彼は転んだ。
積み上がった雑誌の角に足を取られ、横倒しになったまま、しばらく起き上がれなかった。視界の端で、ペットボトルがいくつも転がる。乾いた音がした。
妙に静かだった。
スマホの画面だけが明るい。
ちょうど、たぬこの切り抜き動画が流れていた。少し前の配信の名場面をまとめたものだ。たぬこが笑って、視聴者の名前を呼んで、ありがとうと言う短い映像が何本も繋がっている。
颯太はその光を見た。
狭い隙間の向こうにある、やさしい窓みたいだった。
起き上がらなくてもいい気がした。
腹は減っていた。喉もからからだった。けれど、その苦しさは昔ほど鋭くない。身体の境界が薄れて、部屋と混ざっていく。箱と袋と服と紙と、自分が同じ材質になっていく。
これでいい、と彼は思った。
もう守らなくていい。
もう恥をかかなくていい。
たぬこの声がした。
「ねえ、ちゃんと見ててね」
見てるよ、と颯太は心の中で答えたつもりだった。
口は動かなかった。
数か月後、異臭の苦情で管理会社が部屋を開けた。
通報を受けた警察と、手袋をした作業員が、玄関から少しずつ通路を作った。ゴミが崩れ、缶が転がり、湿った紙が靴底に貼りついた。
部屋の奥、崩れた囲いの内側に、颯太はいた。
痩せ細っていた。ひどく小さく見えた。けれど、顔だけは不思議なくらい穏やかで、眠っている人に近かった。口元が、ほんの少し笑っているようにも見えた。
右手にはスマホが握られていた。
画面はまだ点いていた。
充電ケーブルが延長タップに繋がれ、その延長タップは危うい配線で生き残っていたらしい。アプリの画面には、狸山たぬこのアーカイブが開かれている。おすすめ再生が終わるたび、別の動画が始まる設定になっていた。
そのとき、通知音が鳴った。
月初めの自動決済。
画面の上に、小さく表示が出る。
【メモリアル応援プラン ¥10,000 支払い完了】
【狸山たぬこ 三周年記念 定期ギフト 送信されました】
誰かが「うわ」と低く声を漏らした。
続いて、動画の中のたぬこがぱっと笑った。録音された、明るく少し甘い声。
「ありがとう、颯太くん!」
部屋の全員が動きを止めた。
「だいすきだよー!」
スマホの向こうで、狸耳の少女が両手を振っていた。
ゴミの壁に囲まれた小さな王国の中心で、颯太はもう何も失わない顔をしていた。
永遠の愛だった。
少なくとも、彼にとっては。




