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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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13/15

汚死活

 最初は、ただ元気をもらっているだけだった。


 夜の配信。画面の中で笑うキャラクター。ぱっちりした丸い目。ふわふわした茶色の髪。頭には丸い狸耳の飾り、腰の後ろでは大きなしっぽが揺れている。名前は狸山たぬこ。狸がモチーフの、二次元のアニメっぽいアイドルキャラクターだった。


 歌って、喋って、視聴者の名前を読んでくれる。


 中野颯太は、仕事から帰ると必ずその配信を開いた。


 コンビニの棚補充。朝が早い。時給は高くない。客に怒鳴られても、発注を間違えても、店長に嫌味を言われても、夜になってたぬこが笑えば、それで一日が終わる気がした。


「颯太くん、今日も来てくれてありがとー!」


 もちろん、自分だけに向けられた声じゃない。そういう仕組みだとわかっている。投げ銭した人の名前を、画面の向こうの演者が読んでいるだけだ。わかっているのに、その一瞬だけ、自分という輪郭が世界に認識された気がした。


 いる。


 ここに、自分が。


 その感覚は、思ったより強かった。


 最初は五百円だった。次は千円。限定ボイスが出れば買った。誕生日グッズ、アクリルスタンド、缶バッジ、タペストリー。受注生産という言葉に追い立てられるように、颯太は給料日ごとにアプリを開いた。


 食費は削れた。どうせ一人だ。昼は菓子パンでいい。夜はカップ麺でいい。


 光熱費は、少しなら待ってもらえる。


 家賃は、さすがに払う。


 いや、でも、今月は周年記念がある。


 たぬこの新衣装。三周年。記念配信。そこで投げないで、いつ投げるんだ。


 そういう月が、続いた。


 颯太は三十二歳だった。友人は少なかった。恋人はいない。昔から人とうまく距離が取れず、近づきすぎるか、最初から何も言えなくなるかのどちらかだった。職場でも、必要な会話しかしない。冗談に笑うタイミングがずれる。誰かといても、自分の身体の外側だけがそこにあるような感じがした。


 だが、たぬこを見ているときだけは違った。


 彼女はいつも同じ部屋にいて、同じ角度でこちらを見て、同じ明るさで笑う。


 こちらが疲れていても、機嫌が悪くても、みじめでも、嫌な顔をしない。


 人間より、よほどやさしかった。


 部屋にグッズが増えていった。


 段ボールを畳まずに積むようになったのは、何となく面倒だったからだ。ペットボトルを捨てなくなったのは、収集日を忘れるからだ。レシートを丸めて床に落としたのは、たぶん、何でもよかったからだ。


 床が見えなくなっても、困らなかった。


 むしろ少し安心した。


 外から来たものが、外へ逃げていかずにそこへ留まる。買ったもの。飲んだもの。食べたもの。自分がここで生きた痕跡。ゴミと呼ばれるには、あまりにも自分に近いものたちだった。


 部屋の隅にたぬこの等身大タペストリーを掛けると、その周囲だけ祭壇みたいに見えた。


 にこにこ笑うたぬこを中心に、箱、袋、服、雑誌、食べかす、使い終わったウェットティッシュ、割れたプラスチックケース、積み上がった通販の緩衝材が、ゆるい地層みたいに重なっていく。


 颯太はその中に座って、スマホを握りしめ、イヤホン越しに声を聞いた。


「だいすきだよ、みんなー!」


 その“みんな”のなかに、自分が溶けていく感じがした。


 輪郭が薄くなるのは、悪いことじゃなかった。


 自分でいるのは、少し疲れる。


 だから彼は、推しに自分を重ねるようになった。


 たぬこが頑張るなら、自分も頑張っている気がした。たぬこが笑えば、自分も無事な気がした。たぬこが傷つけば、自分が傷ついた。たぬこが愛されれば、自分が肯定された。


 逆だったのかもしれない。


 自分が空っぽだから、その中に彼女を流し込んでいた。


 母親が最初に異変に気づいたのは、電話の回数が減ったからではなく、声の厚みがなくなったからだった。


「ちゃんと食べてる?」


「食べてるよ」


「嘘。あんた今、座ってるのもしんどいでしょ」


 母はそういうところが鋭かった。


 数日後、連絡もなしに来た。合鍵を使って部屋へ入った瞬間、う、と息を詰まらせた。


「ちょっと、何これ……」


 甘い芳香剤の匂いと、生ごみの酸っぱい匂いが混ざっていた。足の踏み場もない。ベランダまで段ボールで塞がれている。窓はカーテンもろくに開かず、昼なのに部屋が暗い。


 たぬこの笑顔だけが、モニターの光で浮いていた。


「片づけよう、颯太。今すぐ。業者さん呼ぶから」


「触るな」


 自分でも驚くくらい低い声が出た。


 母は振り返った。颯太は立ち上がろうとして、空の缶を踏み、派手に崩れた。その音で、近くにいた高校時代の友人、拓海まで顔を出した。母が頼んで一緒に来ていたらしい。


「颯太、怒らないで聞け。これ、もう一人じゃ無理だって」

「触るなって言ってるだろ!」


 颯太は叫んだ。喉が裂けるみたいな声だった。


「捨てられるものなんかない!」


 拓海が手に持っていたコンビニ袋を、颯太はひったくるように奪い返した。中には何か月も前の弁当容器が入っていた。蓋の内側に白いものがこびりついている。誰が見てもゴミだった。


 なのに、颯太にはそれが、自分の皮膚の一部みたいに見えた。


 捨てられたら、自分のどこかが消える。


「これは俺のだ」

「そんなのわかってるよ」

「わかってない!」


 母が泣きそうな顔をした。拓海は何も言わなかった。ただ、ひどく疲れた顔で部屋を見渡したあと、壁のタペストリーを見た。たぬこが、変わらない笑顔でそこにいた。


 その日、二人は何も持ち出せなかった。


 帰り際、母は玄関で振り返って言った。


「助けてって言いなさい。今ならまだ助けられるから」


 颯太は答えなかった。


 ドアが閉まると、部屋はしんとした。配信はちょうど終盤だった。たぬこが視聴者に向かって、明るい声で言う。


「みんな、今日も生きててえらいよー!」


 颯太は泣いた。


 自分でも理由はよくわからなかった。ただ、母に言われた“助けて”より、その台詞のほうがずっと自然に胸に入ってきた。


 その日から、彼はますます外へ出なくなった。


 仕事は辞めた。無断欠勤のあと、何度か電話が来たが取らなかった。貯金はすぐ尽きた。クレジットの枠も削れた。消費者金融の広告がスマホに出た。水は止まったが、近くの公園のトイレで汲めた。電気はぎりぎり残った。スマホの充電さえできれば、それでよかった。


 食べることは面倒になった。


 配信の予定だけは、きちんと確認した。


 起きて、聞いて、少し眠る。また起きて、聞く。頭が重い。手足が冷たい。なのに、たぬこの声が流れ始めると、部屋の空気だけが少し明るくなる。


 ゴミはさらに積み上がった。


 袋は壁になった。箱は砦になった。汚れた服は毛布より安心した。外の世界は冷たい。請求書は責めてくる。母は正しいことを言う。拓海は哀れむ目をする。みんな、自分をこちら側から引っぱり出そうとする。


 でも、出た先に何がある。


 働いて、疲れて、恥をかいて、誰にも必要とされない日々があるだけだ。


 ここにはたぬこがいる。


 名前を呼んでくれる。ありがとうと言ってくれる。笑ってくれる。ずっと、ずっと。


 颯太はサブスクのプランを上げた。残高不足で止まるのが嫌で、自動決済を増やした。記念配信用の定期投げ銭も設定した。次の月、その次の月、さらにその次も。未来の自分が何を食うかより、未来の彼女に何を渡せるかのほうが重要だった。


 冬の終わりごろ、部屋のなかで彼は転んだ。


 積み上がった雑誌の角に足を取られ、横倒しになったまま、しばらく起き上がれなかった。視界の端で、ペットボトルがいくつも転がる。乾いた音がした。


 妙に静かだった。


 スマホの画面だけが明るい。


 ちょうど、たぬこの切り抜き動画が流れていた。少し前の配信の名場面をまとめたものだ。たぬこが笑って、視聴者の名前を呼んで、ありがとうと言う短い映像が何本も繋がっている。


 颯太はその光を見た。


 狭い隙間の向こうにある、やさしい窓みたいだった。


 起き上がらなくてもいい気がした。


 腹は減っていた。喉もからからだった。けれど、その苦しさは昔ほど鋭くない。身体の境界が薄れて、部屋と混ざっていく。箱と袋と服と紙と、自分が同じ材質になっていく。


 これでいい、と彼は思った。


 もう守らなくていい。


 もう恥をかかなくていい。


 たぬこの声がした。


「ねえ、ちゃんと見ててね」


 見てるよ、と颯太は心の中で答えたつもりだった。


 口は動かなかった。


 数か月後、異臭の苦情で管理会社が部屋を開けた。


 通報を受けた警察と、手袋をした作業員が、玄関から少しずつ通路を作った。ゴミが崩れ、缶が転がり、湿った紙が靴底に貼りついた。


 部屋の奥、崩れた囲いの内側に、颯太はいた。


 痩せ細っていた。ひどく小さく見えた。けれど、顔だけは不思議なくらい穏やかで、眠っている人に近かった。口元が、ほんの少し笑っているようにも見えた。


 右手にはスマホが握られていた。


 画面はまだ点いていた。


 充電ケーブルが延長タップに繋がれ、その延長タップは危うい配線で生き残っていたらしい。アプリの画面には、狸山たぬこのアーカイブが開かれている。おすすめ再生が終わるたび、別の動画が始まる設定になっていた。


 そのとき、通知音が鳴った。


 月初めの自動決済。


 画面の上に、小さく表示が出る。


【メモリアル応援プラン ¥10,000 支払い完了】

【狸山たぬこ 三周年記念 定期ギフト 送信されました】


 誰かが「うわ」と低く声を漏らした。


 続いて、動画の中のたぬこがぱっと笑った。録音された、明るく少し甘い声。


「ありがとう、颯太くん!」


 部屋の全員が動きを止めた。


「だいすきだよー!」


 スマホの向こうで、狸耳の少女が両手を振っていた。


 ゴミの壁に囲まれた小さな王国の中心で、颯太はもう何も失わない顔をしていた。


 永遠の愛だった。


 少なくとも、彼にとっては。

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