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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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12/16

深紅のダイイングメッセージ

 事件が起きる前の名探偵は、だいたい機嫌がいい。


 私立青葉ヶ丘高校二年、久堂景くどう・けいもそうだった。長い前髪をかき上げ、教室の後ろの窓に片足を乗せ、春風に制服の裾をはためかせながら言うのが好きだった。


「犯人はこの中にいる!」

「いねえよ」

「てやんでぇ!!」

「逆ギレすんな」


 これが昼休みの、いつもの光景である。


 もっとも久堂がただの変人でないことは、学校中が知っていた。去年、文化祭の売上金紛失事件を解決したのも、商店街の連続いたずらを暴いたのも、修学旅行で起きた“消えた木刀事件”を三分で終わらせたのも彼だ。本人はそのたびに「すべてわかった」と言っていたし、実際、だいたいわかっていた。


 だからこそ、同じクラスの有馬礼司が真顔で言ったとき、久堂も少しだけ考えた。


「今度の土曜、うちの親戚の館に来てくれないか」

「断る」

「まだ理由を言ってない」

「金持ちの親戚の館、という時点で嫌な予感しかしない」

「遺産相続の話があるんだ」

「もっと嫌だな」

「それで、親族が妙にぴりついてて……念のため、お前にいてほしい」

「ボディーガード扱いか」

「探偵だろ」

「高校生だ」


 渋々、という顔を作りながら、久堂は内心では少し浮かれていた。館。遺産。険悪な親族。これで何も起きなかったら、そのほうが不自然である。


 土曜の午後、二人を乗せた車は山道を登り、霧の向こうに古い洋館を現した。


 御厨みくりや家の館は、いかにも館だった。黒ずんだ石壁。重たい鉄門。長い廊下。やたら肖像画の多い階段。外では空がぐずつき、風が木々を鳴らしている。玄関で出迎えた老執事の背筋が定規のようにまっすぐなのも、雰囲気づくりに一役買っていた。


「いいな」

「何が」

「全部だ。床が軋むのも、暖炉が無意味にでかいのも、誰かが毒を盛りそうな食堂も」

「楽しそうだな」

「不謹慎ではない。探究心だ」


 館の主は、資産家の御厨源造。七十を過ぎても声が太く、杖を鳴らして歩く老人だった。集まっていたのは、有馬の父である源造の甥、住み込み秘書の鷺沼、家政婦の桐江、顧問弁護士の間宮、そして老執事の黒崎。全員、笑顔がうすい。


 夕食の席で、源造がワインをひと口飲んで言った。


「わしもいつ死ぬかわからん。財産の整理をしておこうと思ってな」


 その瞬間、食卓の空気がすっと冷えた。


 有馬の父は咳払いをし、家政婦は目を伏せ、秘書の鷺沼だけが無表情のまま書類を整えた。四十代半ば、痩せぎすで、髪をきっちり撫でつけた男。目元が妙に乾いて見える。


 久堂はスープを飲みながら、その全員を順番に見た。


「どうだ」

「何が」

「全員、怪しい」

「始まったな」

「しかも、ちゃんとそれぞれ違う種類に怪しい」

「やめろ。親戚の前で楽しむな」


 食後、書斎で始まった話し合いは案の定まとまらなかった。配分の話になるたび空気が悪くなり、外では雷が鳴り、ついには電話線まで不調になった。追い打ちみたいに、裏手の山道が崩れたらしいという報告も入る。


「完璧だな」

「何が」

「状況が」

「お前だけだよ嬉しそうなの」


 十時過ぎ、話し合いは打ち切られた。源造が不機嫌になったからだ。館の者たちはそれぞれの部屋へ引き上げ、有馬も久堂を客間まで送っていく。


「言っとくけど、絶対うろつくなよ」

「うろつかない」

「信用できない」

「ぼくはただ、少し館内の構造を把握したいだけだ」

「それをうろつくって言うんだよ」


 有馬は本気で嫌そうな顔をしたが、久堂は気にしなかった。


 館の時計が十一時を打つ。


 廊下は静まり返り、客室の明かりもひとつずつ消えていった。


 そして全員が寝た。


 少なくとも、そう見えた。


     *


 翌朝。


 館に響いたのは、甲高い悲鳴だった。


「きゃあああああっ!」


 有馬は飛び起きた。部屋を出ると、他の部屋からも人がばたばたと飛び出してくる。寝ぐせのついた顔、寝巻きのままの顔、何が起きたかわからず青ざめている顔。


 悲鳴を上げたのは家政婦の桐江だった。二階廊下の奥で腰を抜かし、震える指で床を指さしている。


 その先に、血だまりがあった。


 そしてその真ん中に、久堂景が倒れていた。


「……え?」


 有馬の足が止まる。


 うつ伏せで、ぴくりとも動かない。白いシャツの腹のあたりが真っ赤に染まり、床にも血が広がっている。すぐそばには、血で書かれたらしい奇妙な印まで残っていた。


 一本の斜線。

 半円。

 七つの点。


 どう見ても、それっぽい。


「く、久堂……?」

 有馬が声をかける。


 返事はない。


 執事の黒崎が顔を強ばらせ、弁護士の間宮が恐る恐る近づく。源造も杖をつきながら現れ、秘書の鷺沼は蒼白になって立ち尽くしていた。


「し……死んでる……?」

 誰かが、かすれた声で言った。


 館の空気が一瞬で凍りつく。


 有馬は血の気の引いた顔で、床の記号を見た。


 ダイイングメッセージだ。


 よりによって、こいつはこんな状況でまでそれをやったのか。


 いや待て、その前に。


「久堂!? おい、久堂!」


 返事はない。


 窓の外では、昨夜の嵐が嘘みたいに空が明るい。


 そして物語は、前夜へ戻る。


     *


 探偵は、こういう夜に寝るべきではない。


 久堂景も、当然寝ていなかった。


 客間を抜け出し、懐中電灯片手に廊下を進み、書斎の前で足を止める。扉の隙間から中をのぞくと、人影があった。


 背の高い男。

 細い肩。

 撫でつけた髪。


 秘書の鷺沼だった。


 鷺沼は机の引き出しではなく、その奥の金庫を開けていた。そこから取り出したのは相続書類ではない。古い帳簿らしきものだ。ぱらぱらと確かめ、慌てたように懐へ入れる。


 怪しい。


 かなり怪しい。


 というか、普通に黒い。


 久堂は一歩、後ろへ下がった。その瞬間、床がきしんだ。


 しまった。


 振り向くより先に、腹に鈍い衝撃が突き刺さった。


「……え?」


 一拍遅れて、ありえない熱と痛みが来る。


 視界が揺れた。腹を見ると、細いナイフが刺さっている。その向こうに黒い影がいた。顔はよく見えない。だが、影はためらいなくナイフを引き抜き、そのまま闇の向こうへ走り去った。


 ぽたり、と血が落ちた。


 久堂景は名探偵である。


 そして今、名探偵として極めて重要な局面に立たされていた。


 そう。


 ダイイングメッセージを、どうするかである。


「落ち着け……ぼく……」


 壁に手をつき、床に膝をつく。痛い。かなり痛い。思ったよりずっと痛い。でも意識はまだある。


 犯人はおそらく鷺沼だ。

 ならば名前を書くか。


 いや、だめだ。


 それでは美しくない。


「違う……もっとこう……」

 何がもっとこうなのか、自分でもよくわからない。


 血を指先につけ、床に線を引く。

 すぐ消えるような、弱い線だった。


 名前直書きは単純すぎる。

 頭文字だけでは雑。

 漢字は画数が多い。

 ローマ字は気取っている。

 記号化か。

 鷺を絵にする?

 無理だ。鳥類に関する画力がない。

 沼を波線で?

 いや、沼って波立つかな。


「くっ……」


 腹が痛い。

 冷静に考えて、今やるべきはたぶん止血だ。

 でもここで雑な仕事を残すのは、探偵としてどうなのか。


 彼は本気で考えた。


 ダイイングメッセージとは、ただ犯人を伝えるためのものではない。

 死に瀕した名探偵が最後に示す、知性のきらめきである。

 見た者が「なんだこれは」と首をひねり、天才だけが解く。

 そういうものだ。


 斜線を書く。


「これは……嘴っぽい」


 半円を書く。


「沼……ではないが、水辺感はある」


 そして点を七つ打つ。


「これは何だ……?」

 自分で書いておいてわからない。


 だが、何か深みが出た気はした。


 問題は、深みと伝達は別だということだった。


「待て、これじゃ全然……」

 そこまで考えたところで、視界がぐにゃりと歪んだ。


 まずい。


 思ったより出血している。


 久堂は壁にもたれ、荒い息を吐いた。体が重い。眠い。いや、これはたぶん寝たらまずいやつだ。


「せめて……“ぬ”ぐらい……」


 血でひらがなを書こうとして、途中でやめた。


 だめだ。

 直接的すぎる。

 それに汚い。

 名探偵の最期として、字面が汚いのは困る。


「てやんでぇ……」


 もはや何に対して怒っているのか、自分でもよくわからなかった。


 そして久堂景は、その場で意識を失った。


     *


 朝の廊下に戻る。


「どいてください!」


 弁護士の間宮が膝をつき、久堂のそばへしゃがみこんだ。顔色は悪いが、さっきまでの取り乱し方は少し引いている。職業柄、こういうときに冷静になるタイプらしい。


 有馬は息を詰めて、その手元を見た。


 間宮は久堂の首元に指を当てる。

 数秒。

 さらにもう一度、確かめる。


 そして顔を上げた。


「……いや」

「いや?」

「生きてます!」

「はあ!?」


 一斉に声が上がった。


 桐江が「えっ」と言い、執事が「なんと」と言い、源造が「やかましい朝だな」と言った。有馬だけはその場にへたりこんだ。


「生きてんのかよ!」

「お前は……死んでる判定が早すぎるんだよ……」


 床から、かすれた声がした。


 久堂だった。毛ほども格好はついていないが、生きている。ものすごく不本意そうな顔で、薄く片目を開けている。


「しゃべった!」

 家政婦がまた悲鳴を上げる。

「そりゃしゃべるだろ、生きてるんだから!」

 有馬もつられて叫ぶ。


 そこから先は、案外あっさり進んだ。


 嵐がおさまって電話が復旧し、警察が来る。書斎の金庫から消えた帳簿、鷺沼の部屋から見つかった裏金の記録、凶器のナイフの指紋。さらに、源造が昨夜「昔の会計も全部洗い直す」と言ったことが、鷺沼を追い詰めた動機として浮かび上がった。


 鷺沼は長年、御厨家の資産の一部を横領していたのだ。


 証拠を並べられ、鷺沼はやがてうなだれた。


「……その通りです」


 事件は解決した。


 密室トリックも、華麗な推理勝負もなかった。

 あったのは横領、焦り、物理証拠、そして死にかけた高校生探偵の無駄に芸術性の高い血文字である。


 警部が床の印を見下ろして言う。


「で、これは?」

「ダイイングメッセージです」

 担架に乗せられた久堂が答えた。

「本当に?」

「本当にです」

「解読すると?」

「鷺沼になります」

「どうやって?」


 久堂は真顔で言った。


「まず斜線は鷺の嘴を抽象化したものです」

「無理があるな」

「半円は沼」

「だいぶ無理があるな」

「七つの点は……」

 久堂が少し黙る。

「七つの点は?」

「……深みです」

「深み?」


 有馬が顔を覆った。


「お前それ、途中でわけわかんなくなっただけだろ」

「違う。情報の層を増やした」

「言い方だけかっこいいな」

「それと“ぬ”を書こうとはした」

「書けよ」

「美しくないと思った」

「死にかけてるときに美しさを気にするな」


 警部はしばらく黙っていたが、やがて久堂の肩を軽く叩いた。


「まあ、助かってよかったよ」

「ありがとうございます」

「次があるなら」

「ないほうがいいですね」

「ものすごく簡単に書いてくれ」

「……善処します」

「善処じゃなくて約束しろ」

 有馬が即答した。


 久堂は担架の上で少しだけ天井を見た。


 名探偵として、今回の件から学べることは多い。

 まず、夜の館を単独でうろつくのは危険。

 次に、刺されたらかなり痛い。

 そして最後に、ダイイングメッセージに芸術点はいらない。


「有馬」

「何だ」

「今回の件で、ひとつ悟った」

「嫌な予感しかしない」

「名探偵に必要なのは、難解な暗号ではない」

「おっ、やっとわかったか」

「まず止血」

「そうだよ」

「その次に、犯人のフルネームをでかく書く勇気」

「最初からそうしろ!」


 担架が揺れる。

 久堂は少しだけ笑って、すぐ腹を押さえて顔をしかめた。


 その様子を見て、有馬も笑った。

 警部も、弁護士も、執事もつられて少し笑った。

 鷺沼だけはうつむいたままだった。


 窓の外には、昨夜の嵐が嘘みたいな青空が広がっていた。


 事件が起きる前の名探偵は、だいたい機嫌がいい。

 だが事件のあとも機嫌がいい探偵は、少し反省したほうがいいのかもしれない。


 もっとも久堂景は、救急車へ運ばれる直前、懲りもせずこう言ったが。


「でもまあ……朝いったん死体扱いされたのは、演出的には悪くなかった」

「二度とやるな」

「やるつもりはない。結果的にそうなっただけだ」

「結果が最悪なんだよ」


 春の風が、館の前庭の木々をやさしく揺らした。

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