深紅のダイイングメッセージ
事件が起きる前の名探偵は、だいたい機嫌がいい。
私立青葉ヶ丘高校二年、久堂景もそうだった。長い前髪をかき上げ、教室の後ろの窓に片足を乗せ、春風に制服の裾をはためかせながら言うのが好きだった。
「犯人はこの中にいる!」
「いねえよ」
「てやんでぇ!!」
「逆ギレすんな」
これが昼休みの、いつもの光景である。
もっとも久堂がただの変人でないことは、学校中が知っていた。去年、文化祭の売上金紛失事件を解決したのも、商店街の連続いたずらを暴いたのも、修学旅行で起きた“消えた木刀事件”を三分で終わらせたのも彼だ。本人はそのたびに「すべてわかった」と言っていたし、実際、だいたいわかっていた。
だからこそ、同じクラスの有馬礼司が真顔で言ったとき、久堂も少しだけ考えた。
「今度の土曜、うちの親戚の館に来てくれないか」
「断る」
「まだ理由を言ってない」
「金持ちの親戚の館、という時点で嫌な予感しかしない」
「遺産相続の話があるんだ」
「もっと嫌だな」
「それで、親族が妙にぴりついてて……念のため、お前にいてほしい」
「ボディーガード扱いか」
「探偵だろ」
「高校生だ」
渋々、という顔を作りながら、久堂は内心では少し浮かれていた。館。遺産。険悪な親族。これで何も起きなかったら、そのほうが不自然である。
土曜の午後、二人を乗せた車は山道を登り、霧の向こうに古い洋館を現した。
御厨家の館は、いかにも館だった。黒ずんだ石壁。重たい鉄門。長い廊下。やたら肖像画の多い階段。外では空がぐずつき、風が木々を鳴らしている。玄関で出迎えた老執事の背筋が定規のようにまっすぐなのも、雰囲気づくりに一役買っていた。
「いいな」
「何が」
「全部だ。床が軋むのも、暖炉が無意味にでかいのも、誰かが毒を盛りそうな食堂も」
「楽しそうだな」
「不謹慎ではない。探究心だ」
館の主は、資産家の御厨源造。七十を過ぎても声が太く、杖を鳴らして歩く老人だった。集まっていたのは、有馬の父である源造の甥、住み込み秘書の鷺沼、家政婦の桐江、顧問弁護士の間宮、そして老執事の黒崎。全員、笑顔がうすい。
夕食の席で、源造がワインをひと口飲んで言った。
「わしもいつ死ぬかわからん。財産の整理をしておこうと思ってな」
その瞬間、食卓の空気がすっと冷えた。
有馬の父は咳払いをし、家政婦は目を伏せ、秘書の鷺沼だけが無表情のまま書類を整えた。四十代半ば、痩せぎすで、髪をきっちり撫でつけた男。目元が妙に乾いて見える。
久堂はスープを飲みながら、その全員を順番に見た。
「どうだ」
「何が」
「全員、怪しい」
「始まったな」
「しかも、ちゃんとそれぞれ違う種類に怪しい」
「やめろ。親戚の前で楽しむな」
食後、書斎で始まった話し合いは案の定まとまらなかった。配分の話になるたび空気が悪くなり、外では雷が鳴り、ついには電話線まで不調になった。追い打ちみたいに、裏手の山道が崩れたらしいという報告も入る。
「完璧だな」
「何が」
「状況が」
「お前だけだよ嬉しそうなの」
十時過ぎ、話し合いは打ち切られた。源造が不機嫌になったからだ。館の者たちはそれぞれの部屋へ引き上げ、有馬も久堂を客間まで送っていく。
「言っとくけど、絶対うろつくなよ」
「うろつかない」
「信用できない」
「ぼくはただ、少し館内の構造を把握したいだけだ」
「それをうろつくって言うんだよ」
有馬は本気で嫌そうな顔をしたが、久堂は気にしなかった。
館の時計が十一時を打つ。
廊下は静まり返り、客室の明かりもひとつずつ消えていった。
そして全員が寝た。
少なくとも、そう見えた。
*
翌朝。
館に響いたのは、甲高い悲鳴だった。
「きゃあああああっ!」
有馬は飛び起きた。部屋を出ると、他の部屋からも人がばたばたと飛び出してくる。寝ぐせのついた顔、寝巻きのままの顔、何が起きたかわからず青ざめている顔。
悲鳴を上げたのは家政婦の桐江だった。二階廊下の奥で腰を抜かし、震える指で床を指さしている。
その先に、血だまりがあった。
そしてその真ん中に、久堂景が倒れていた。
「……え?」
有馬の足が止まる。
うつ伏せで、ぴくりとも動かない。白いシャツの腹のあたりが真っ赤に染まり、床にも血が広がっている。すぐそばには、血で書かれたらしい奇妙な印まで残っていた。
一本の斜線。
半円。
七つの点。
どう見ても、それっぽい。
「く、久堂……?」
有馬が声をかける。
返事はない。
執事の黒崎が顔を強ばらせ、弁護士の間宮が恐る恐る近づく。源造も杖をつきながら現れ、秘書の鷺沼は蒼白になって立ち尽くしていた。
「し……死んでる……?」
誰かが、かすれた声で言った。
館の空気が一瞬で凍りつく。
有馬は血の気の引いた顔で、床の記号を見た。
ダイイングメッセージだ。
よりによって、こいつはこんな状況でまでそれをやったのか。
いや待て、その前に。
「久堂!? おい、久堂!」
返事はない。
窓の外では、昨夜の嵐が嘘みたいに空が明るい。
そして物語は、前夜へ戻る。
*
探偵は、こういう夜に寝るべきではない。
久堂景も、当然寝ていなかった。
客間を抜け出し、懐中電灯片手に廊下を進み、書斎の前で足を止める。扉の隙間から中をのぞくと、人影があった。
背の高い男。
細い肩。
撫でつけた髪。
秘書の鷺沼だった。
鷺沼は机の引き出しではなく、その奥の金庫を開けていた。そこから取り出したのは相続書類ではない。古い帳簿らしきものだ。ぱらぱらと確かめ、慌てたように懐へ入れる。
怪しい。
かなり怪しい。
というか、普通に黒い。
久堂は一歩、後ろへ下がった。その瞬間、床がきしんだ。
しまった。
振り向くより先に、腹に鈍い衝撃が突き刺さった。
「……え?」
一拍遅れて、ありえない熱と痛みが来る。
視界が揺れた。腹を見ると、細いナイフが刺さっている。その向こうに黒い影がいた。顔はよく見えない。だが、影はためらいなくナイフを引き抜き、そのまま闇の向こうへ走り去った。
ぽたり、と血が落ちた。
久堂景は名探偵である。
そして今、名探偵として極めて重要な局面に立たされていた。
そう。
ダイイングメッセージを、どうするかである。
「落ち着け……ぼく……」
壁に手をつき、床に膝をつく。痛い。かなり痛い。思ったよりずっと痛い。でも意識はまだある。
犯人はおそらく鷺沼だ。
ならば名前を書くか。
いや、だめだ。
それでは美しくない。
「違う……もっとこう……」
何がもっとこうなのか、自分でもよくわからない。
血を指先につけ、床に線を引く。
すぐ消えるような、弱い線だった。
名前直書きは単純すぎる。
頭文字だけでは雑。
漢字は画数が多い。
ローマ字は気取っている。
記号化か。
鷺を絵にする?
無理だ。鳥類に関する画力がない。
沼を波線で?
いや、沼って波立つかな。
「くっ……」
腹が痛い。
冷静に考えて、今やるべきはたぶん止血だ。
でもここで雑な仕事を残すのは、探偵としてどうなのか。
彼は本気で考えた。
ダイイングメッセージとは、ただ犯人を伝えるためのものではない。
死に瀕した名探偵が最後に示す、知性のきらめきである。
見た者が「なんだこれは」と首をひねり、天才だけが解く。
そういうものだ。
斜線を書く。
「これは……嘴っぽい」
半円を書く。
「沼……ではないが、水辺感はある」
そして点を七つ打つ。
「これは何だ……?」
自分で書いておいてわからない。
だが、何か深みが出た気はした。
問題は、深みと伝達は別だということだった。
「待て、これじゃ全然……」
そこまで考えたところで、視界がぐにゃりと歪んだ。
まずい。
思ったより出血している。
久堂は壁にもたれ、荒い息を吐いた。体が重い。眠い。いや、これはたぶん寝たらまずいやつだ。
「せめて……“ぬ”ぐらい……」
血でひらがなを書こうとして、途中でやめた。
だめだ。
直接的すぎる。
それに汚い。
名探偵の最期として、字面が汚いのは困る。
「てやんでぇ……」
もはや何に対して怒っているのか、自分でもよくわからなかった。
そして久堂景は、その場で意識を失った。
*
朝の廊下に戻る。
「どいてください!」
弁護士の間宮が膝をつき、久堂のそばへしゃがみこんだ。顔色は悪いが、さっきまでの取り乱し方は少し引いている。職業柄、こういうときに冷静になるタイプらしい。
有馬は息を詰めて、その手元を見た。
間宮は久堂の首元に指を当てる。
数秒。
さらにもう一度、確かめる。
そして顔を上げた。
「……いや」
「いや?」
「生きてます!」
「はあ!?」
一斉に声が上がった。
桐江が「えっ」と言い、執事が「なんと」と言い、源造が「やかましい朝だな」と言った。有馬だけはその場にへたりこんだ。
「生きてんのかよ!」
「お前は……死んでる判定が早すぎるんだよ……」
床から、かすれた声がした。
久堂だった。毛ほども格好はついていないが、生きている。ものすごく不本意そうな顔で、薄く片目を開けている。
「しゃべった!」
家政婦がまた悲鳴を上げる。
「そりゃしゃべるだろ、生きてるんだから!」
有馬もつられて叫ぶ。
そこから先は、案外あっさり進んだ。
嵐がおさまって電話が復旧し、警察が来る。書斎の金庫から消えた帳簿、鷺沼の部屋から見つかった裏金の記録、凶器のナイフの指紋。さらに、源造が昨夜「昔の会計も全部洗い直す」と言ったことが、鷺沼を追い詰めた動機として浮かび上がった。
鷺沼は長年、御厨家の資産の一部を横領していたのだ。
証拠を並べられ、鷺沼はやがてうなだれた。
「……その通りです」
事件は解決した。
密室トリックも、華麗な推理勝負もなかった。
あったのは横領、焦り、物理証拠、そして死にかけた高校生探偵の無駄に芸術性の高い血文字である。
警部が床の印を見下ろして言う。
「で、これは?」
「ダイイングメッセージです」
担架に乗せられた久堂が答えた。
「本当に?」
「本当にです」
「解読すると?」
「鷺沼になります」
「どうやって?」
久堂は真顔で言った。
「まず斜線は鷺の嘴を抽象化したものです」
「無理があるな」
「半円は沼」
「だいぶ無理があるな」
「七つの点は……」
久堂が少し黙る。
「七つの点は?」
「……深みです」
「深み?」
有馬が顔を覆った。
「お前それ、途中でわけわかんなくなっただけだろ」
「違う。情報の層を増やした」
「言い方だけかっこいいな」
「それと“ぬ”を書こうとはした」
「書けよ」
「美しくないと思った」
「死にかけてるときに美しさを気にするな」
警部はしばらく黙っていたが、やがて久堂の肩を軽く叩いた。
「まあ、助かってよかったよ」
「ありがとうございます」
「次があるなら」
「ないほうがいいですね」
「ものすごく簡単に書いてくれ」
「……善処します」
「善処じゃなくて約束しろ」
有馬が即答した。
久堂は担架の上で少しだけ天井を見た。
名探偵として、今回の件から学べることは多い。
まず、夜の館を単独でうろつくのは危険。
次に、刺されたらかなり痛い。
そして最後に、ダイイングメッセージに芸術点はいらない。
「有馬」
「何だ」
「今回の件で、ひとつ悟った」
「嫌な予感しかしない」
「名探偵に必要なのは、難解な暗号ではない」
「おっ、やっとわかったか」
「まず止血」
「そうだよ」
「その次に、犯人のフルネームをでかく書く勇気」
「最初からそうしろ!」
担架が揺れる。
久堂は少しだけ笑って、すぐ腹を押さえて顔をしかめた。
その様子を見て、有馬も笑った。
警部も、弁護士も、執事もつられて少し笑った。
鷺沼だけはうつむいたままだった。
窓の外には、昨夜の嵐が嘘みたいな青空が広がっていた。
事件が起きる前の名探偵は、だいたい機嫌がいい。
だが事件のあとも機嫌がいい探偵は、少し反省したほうがいいのかもしれない。
もっとも久堂景は、救急車へ運ばれる直前、懲りもせずこう言ったが。
「でもまあ……朝いったん死体扱いされたのは、演出的には悪くなかった」
「二度とやるな」
「やるつもりはない。結果的にそうなっただけだ」
「結果が最悪なんだよ」
春の風が、館の前庭の木々をやさしく揺らした。




