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「さて……」


 リピチアが帰ったのを見届けて、ニックはトゥルーディオとともに部屋へと入る。「お前たちも結構嘘つきだな」とトゥルーディオとトゥルーディアに苦笑いした。


「まさか吸血鬼に襲われた──なんて話を持ってくるとは思わなかったよ。でも、俺も呼べるし医者としてのリピチア先生も呼べるし。良い手だ。クルスか?」

「ええ」


 旦那さまが考えたんですよ、とトゥルーディオは頷く。火事のくだりは無茶かと思ったんですけどね、とばつが悪そうに笑って。

 部屋の扉を閉め、トゥルーディアが二言三言を少女に呟く。頷くように布の袋が揺れて、細い腕が自らで布をとった。


 現れたのは雪のような白銀の髪と、それから菫色の美しい瞳。

 

「君……お母さんにそっくりだ」

 

 予想はしていたものの、実物を目にしてニックは思わず呟いてしまった。見たことのある顔だ。懐かしく、昔に亡くしてしまった友人に良く似た利発そうな顔。留めておこうとした言葉はぽろりとこぼれ落ちてしまった。心の中の一番柔らかい部分を突かれたようだった。


「はっ?」


 意表を突かれたような声を出したのはトゥルーディアだ。すまない、と一言謝って「クルスを呼んできてくれるか」とトゥルーディオへ向き直る。トゥルーディオはひとつ頷いて部屋を出ていった。


「その……。君は俺のことを知らないだろう? いや、俺も君のことをよく知っているという訳じゃないんだが……」


 訝しむような菫の瞳がニックを真っ直ぐに見つめている。困ったような、少し怖がるような顔で見てくるものだから、ニックは苦笑いして「急にこんなことを言われたら、誰だってびっくりしてしまうよな」と頬を人差し指でかいた。自分がクルースニクであるせいもあるかもしれないとニックは銀の髪をいじってしまう。

 怖がらせないように青い瞳で優しく微笑んで、よかったら少しだけ昔話をさせてほしい、と少女の菫色の瞳を見つめた。


 少女の顔立ちは親しかったあの二人にそっくりだ。けれど、不安そうな顔はあの二人のどちらにも似ていない。本当にあの二人の子供なのだ、とニックは心のどこかで納得した。ソルセリルやルティカルから“あの二人の娘”の存在は聞いていたものの、ようやく実感した。腑に落ちた、とでもいうべきか。

 目の前にいる娘はあの二人のどちらにも似ているけれど、そのどちらでもない。掴み所のなかった白昼夢が形を成したようだった。


 菫の瞳をもった少女はトゥルーディアの方をちらりとみてから、トゥルーディアが頷いたのを確認し、ニックに視線を戻した。そしてこわごわと頷く。


「……良かった。君を怖がらせたくはないからな。俺は……君のお父さんとお母さんの友達なんだ。凄く昔のね。ランテリウス・ザルニーツァ・メイラーと、サーリャ・リョート・メイラー。君のお父さんとお母さんだろう?」


 少女の表情が変わったのにトゥルーディアは気付いた。嘘でしょう、とでもいう顔だ。否定というよりは驚愕だろう。


 トゥルーディアも驚いた。

 この少女はメイラー家の娘だったのか、と。


 ニックがクルスに口止めした理由がわかる。ソルセリルもルティカルも、きっとこの娘の身を案じているはずだ。この少女が捨てられた詳しい経緯は知らないが、あの二人はすすんで身内を捨てるタイプではないからだ。

 その上、こうなった(・・・・・)今、クルースニクたちとシステリア家、メイラー家の関係がややこしくなりそうなのは明白だ。


 それでもニックがぽろりと溢してしまったのは──やはり、彼が情に厚い者だからなのだろう。ニックも隠し通した方が都合が良いことはわかっている。それでも口にしてしまった。そこにかつての友人を重ねてしまったのだ。友人が産み、愛した娘。そんな子がこんなことになってしまった上、怯えている。そんな状況を見てしまえば彼は放ってはおけなかったのだ。優しい言葉をかけて、慰めてしまいたくなったのだろう。それを愚かなことだと切り捨てることは今のトゥルーディアには出来なかった。


「その顔だと、ランテリウス(お父さん)サーリャ(お母さん)のことは覚えているのかな。君には初めて会うけれど、サーリャにそっくりで驚いてしまってさ。──ああ、でも口許はランテリウスっぽいな」


 そうなの、と少女の唇が動く。ニックの目元は愛しげに緩んでいた。うん、と優しく頷く。


「ランテリウスもサーリャも、君を祝福してこの世に迎え入れたのだろうな。あの二人が相好を崩して君を育てている光景が目に浮かぶようだ。君のことは親友の俺にも内緒だったくらいだからね、相当に大事にしていたに違いないよ。世界のすべてのものから、君を守りたかったはずだ」


 ニックの口調はいつもよりずっと優しく、殊更に甘かった。ルティカルと会話するときも大概甘いし優しいものだが、この子に向けるそれはもっとだわ、とトゥルーディアは藤色の瞳でニックを見つめる。怯えている“子供”を目の前にしたときの“保護者”としてのそれ。どうにか緊張をといて、心を開いてもらおうとするかのような。


 この人は本当にずるい、とトゥルーディアは二人を見守る。トゥルーディアがゆっくりと解してきた少女の心を、警戒を、ニックは簡単にほぐしてしまった。


 トゥルーディアにはランテリウスのこともサーリャのことも解らない。二人の話には混ざれない。ずるい、と子供じみたことを思ってしまう。けれど、それでも少女がニックを拒絶しなかったことにほっとした。嬉しいと思ってしまった。


「……君は本当に、あの二人の子供なんだなあ。優しそうな顔も、賢そうな瞳も。そうか。……そうか、本当に良かった。助かって……助かって、本当に良かった」


 まるで泣きそうな声に少女はおろおろとし、助けを求めるようにトゥルーディアの手を握る。「ニック様にとって、ランテリウス様もサーリャ様も本当に大事なお友達だったんですよ」とトゥルーディアは少女の手を握り返した。


「貴女が生きていてくれて、この人は嬉しく思っているんです」


 トゥルーディアの言葉に少女はぽかんとした顔になる。理解できないとでもいうように。どうして嬉しく思うの、と口が動いた。魔女なのに、と困惑した顔が続ける。


「そんなことは関係のないことです。貴女が何であろうと、わたくしもこの人も気にしない。この人にとって貴女は大事なご友人の娘であり、その生を祝福したいと思える存在。それだけのこと(・・・・・・・)なんですよ。そこには理屈も筋合いもないのです」


 トゥルーディアの言葉にも理解できない、という顔をしてから、娘はニックの青い瞳を見つめて躊躇うように口を動かす。お母様とお兄様は、と唇が動いたのをトゥルーディアは祈るような気持ちで見つめていた。


「……君のお母様は」


 君が森に連れていかれてからすぐに、とニックが静かに答える。ニックの言葉に耳をすませていた少女の、菫の瞳いっぱいに涙がたまった。それはすぐに頬を滑り落ちていく。ぽたぽたと雫がベッドに垂れる。手でぬぐってもぬぐっても、次から次へとあふれでてくる涙を誰もとめられない。


 ごめんな、とニックが苦しそうに口にする。何の救いにもならないことをこのクルースニクは知っているだろう、とトゥルーディアも苦しく思った。何の役に立てなくても、救えなくても、謝らずにはいられない時がある。今がその時だったのだ。差し出せるのは涙をぬぐうハンカチだけだ。今の彼女の悲しみに差し出せる手など無い。


 誰も彼女を救えなかった。救ったのは森に棲んでいたという【魔女(リラ)】だけで、今となってはその魔女も死んでしまったのだ。たったひとりぼっちで森に追いやられる気持ちを、トゥルーディアもニックも完全に理解することは出来ない。理解することは出来ないから寄り添うのだ。少しでもその痛みが和らぐように。ごめんな、とニックは何度も繰り返した。泣きじゃくり、何度も華奢な肩が震える。見ていて痛々しかった。トゥルーディアは何度も小さい背中を撫でた。薄く、骨の浮いた背中。今すぐにでも抱き締めてやりたかった。自分よりずっと年下の子が泣きじゃくっているのを見ていたくはなかった。


「君のお母様には会えないけれど、お兄様になら会えるよ」


 連れてこようか、と落ち着かせるように穏やかに声をかけたニックに娘は勢いよく首を振った。縦ではなく、横に。

 それが予想外だったのか、ニックは「どうして?」と驚いたように尋ねる。トゥルーディアの手をぎゅっと握って、声のでない唇が「めいわくをかけてしまう」とはっきり動いた。魔女だから、とお決まりの言葉が諦めたように紡がれる。そっと娘の睫毛が伏せられた。そうか、と落胆したような声がニックから漏れる。その意味をトゥルーディアも痛感していた。


 魔女だからという理由で森へ捨てられた娘だ。その上義理堅い。今さら兄のところへ戻ったとしても、その兄に迷惑がかかるとなればこの娘は首を縦には振らないだろう。ニックもそれを悟ったようだった。


 彼女は【魔女である】ことのリスクをよく知っているし、自分がどういう目で見られるのかも分かっている。だから兄には会わない。自分が【魔女である】ことで兄にまで迷惑が及ぶ可能性があることを分かっているのだ。


 その推測が正しいことをニックもトゥルーディアも分かっている。だから余計に辛かった。


 ひみつにして、と娘はニックに願った。涙をぬぐいながら、それでも青の瞳を真っ直ぐに見つめて。お兄様にはいわないで、と。


「……わかった」


 ニックには頷くことしか出来なかった。きっと彼女とルティカルは仲が良かったのだろう。クルスから話を聞く限り、彼女が森に捨てられてからサーリャと何度も探しに向かったとのことだし、見た目に反して愛情深く優しい気性の持ち主のルティカルが、目の色を違えたくらいで妹を邪険にするとも思えない。彼女の反応を見るに、彼女もルティカルを慕っているようだ。それ故にもどかしい。


「俺たちだけの秘密にしておこう。君のお兄様には話さない」


 ルティカルもソルセリルも、オスカーだってこの娘が【魔女】だなんてこれっぽっちも気にしないだろう。ニックだって確かめたいものを確かめたら──彼女の“魔女の印”の有無を確認したら──すぐに会わせてやりたいと思っていた。この娘もそれを望むだろうと思っていたのに。


 誠実で真面目な性分ゆえに彼女は自分を消して(・・・)しまうのだ。そしてそう仕向けてしまったのは、そう仕向けているのは、少なからず【クルースニク】のせいだとも思っている。住んでいた小屋に放火されたのだろうという話も聞いているし、実際にあの日動いていたクルースニクが二名いるのも知っている。


 命を脅かされた経験は彼女のなかから拭い去ることはできないし、それが残した傷跡が癒えることもない。


 魔女である自分に安寧の暮らしは与えられない。自分がいては迷惑がかかる。そういうことをこの娘は知ってしまったのだ。気付いてしまったのだ。それが間違いであることには気付けずに。


 大事な弟子の窮地を救ったという娘を助けられない事実は、クルースニクであるニックの心を柔らかく、深く抉る。心臓を握りつぶされたように苦しかった。クルースニクであるから伸ばせる手もあれば、クルースニクであるからこそ伸ばせない手もある。


 ニックの顔をじっと見て、それから娘はどこか恨むような色を菫の瞳に滲ませた。


 ──オスカーにも言わないで。


 ゆっくりと動いた唇から、ニックは目をそらせなかった。


 ──あの人がわたしを殺そうとしたの。


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