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第1話:底の底と黒い服の男

場すえの街角にある地下のバー。

換気扇の鈍い回転音と、氷がグラスにぶつかる小さな音だけが静まり返った店内を満たしていた。


カウンターの端で、リュウ——本名、岩崎竜雄(いわさき たつお)はグラスを握ったまま突っ伏していた。

店内を照らす薄暗いネオンの光が、オイルの染みついた彼のジャケットと、無精髭の伸びた頬を無機質に照らしている。画面の中で繰り広げられていたアリーナの狂乱など、まるで別世界の出来事のように遠い。


「……粗悪な合成ウイスキーで肝臓を潰すには、ちと夜が長すぎるんじゃないかい?」


いつの間にか、隣のバースツールに誰かが腰掛けていた。

着古した、しかし仕立ての悪くない黒いスーツ。深く被った帽子の影から、鋭い眼光を覗かせている老齢の男だ。


リュウは顔も上げず、重い声で呟く。


「……消えろ。説教を聞くために金を払ってんじゃねえんだ」


「つれないねぇ、元・陸上自衛軍のA級ビークル乗りのエリート様は。……岩崎竜雄くん」


自分の本名を呼ばれ、リュウの身体がピクリと跳ねた。ゆっくりと頭を持ち上げ、濁った目で隣の男を睨みつける。


「……何者だ、お前」


「ただの野良のマッチメーカーさ。鉄と油の匂いがする場所に、金を運ぶのが仕事でね」


黒い服の老人は、胸ポケットから厚みのある電子カードを取り出し、滑らせるようにリュウのグラスの脇へ置いた。画面には、B級クラフトマンクラスの出走サインと、提示された契約金の桁数が点滅している。


「あるワークスが困っていてね。マシンはあるが、まともにアームとステアリングを連携させられる骨のある『デュエルドライバー』がいない。そこへ行くと、軍でA級ビークルを転がしていたお前さんの腕なら……一晩でその惨めな生活とおさらばできる大金になる」


「デュエルだと……? ふざけるな。あんなのはただの鉄のぶつけ合いだ。軍の走りと一緒にするな」


吐き捨てるリュウに、老人は不敵な笑みを深めた。


「そうかい? だが、お前さん一人じゃない。二人乗り(ツーマンセル)のB級シングルアームだ。……もう一人、同じように路上でくすぶっている『同僚』を思い当たるんじゃないか?」


老人はリュウの軍歴どころか、元同僚の存在まで調べ上げていた。意図的に二人をペアで引きずり出そうとしている。リュウの目の奥に、冷たい警戒の色が走る。


「……なにが目的だ」


「ただの仲介さ。連絡を待っているよ、岩崎。お前たちの叩き叩かれ、擦り減ったその腕……まだ死んじゃいまい?」


老人が静かに店を去った後、リュウは残されたカードの金額表示を凝視していた。

やがて、重い溜息とともにポケットからボロい通信端末を取り出す。短いダイヤル音の末、出た相手の第一声は、酷くダミ声で、それでいて懐かしい怒声だった。


『……なんだよリュウ、こんな真夜中に。俺は今、家賃の催促から逃げ回って忙しいんだよ』


リュウは酒で焼けた喉を鳴らし、苦笑交じりに呟いた。


「ガンビー……。ツケを払う気はあるか?」


『ああ?』


「金になる仕事だ。……また、お前と乗ることになるかもしれん」


受話器の向こうで一瞬の静寂の後、ガンビーの「ふざけんな」という呆れ交じりの笑い声が弾けた。


これが、二人が再び地獄のサーキットへと足を踏み入れる、すべての始まりだった。


(第1話:終わり)

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