亡くなったおじいさんからの手紙
薄い霧が街全体を白く覆う朝、アリスは街の中心部にある小さなパン屋「ココット」へと向かっていた。
煙突からは煙が上がっておらず、ガラス窓の奥は暗く静まり返っている。
店を一人で仕切っているのは、二十歳になったばかりの青年・ショーンだ。
半月前、この店を半世紀にわたって守り続け、街の人々に愛されてきた彼の祖父が、突然この世を去ってしまったのだった。
アリスが扉を押すと、カウベルが「ガラガラ」と力なく鳴った。
カウンターの奥で、ショーンが力なく顔を上げた。
作業着の白いエプロンは粉っぽく汚れ、その瞳には濃いクマが刻まれていた。
「アリスちゃん……おはよう。ごめんね、今日はまだパンが焼き上がっていないんだ。生地がうまく膨らまなくてね……」
彼の傍らには、捏ね鉢の中で固く小さく丸まったままの小麦粉の塊が転がっていた。
祖父という大きな存在を失い、一人で伝統の味を守ろうと焦るショーンの心は、完全に挫けかけていたのだ。
「ううん、ショーンさん。パンを買いに来たんじゃないの。お手紙だよ」
アリスが差し出した手紙の宛名を見た瞬間、ショーンの身体が硬直した。
「小麦粉まみれの、自慢の孫へ」
力強く、どこかわしづかみにしたような不格好な文字。
間違いなく、亡くなった祖父の筆跡だった。
だが、祖父が息を引き取ってから、すでに二週間以上が経っている。
「どうして……おじいちゃんの手紙が……?」
「差出人のない手紙と一緒に、夕焼け郵便局に届いていたの。読んであげて」
ショーンは震える指で封を開け、掠れた文字を目で追った。
便箋からは、ほのかにイースト菌と古い木桶の香りが立ち上っていた。
『ショーンへ。
お前がこの手紙を読んでいるということは、わしはもうお前の隣で生地の捏ね方を教えることはできていないのだろうな。
お前はいつも「自分にはセンスがない」「おじいちゃんのような美味しいパンが焼けない」と悩んでいたな。
だがな、ショーン。
お前が捏ねる生地は、最初はいつも固かった。
不器用で、時間がかかってな。
けれど、お前は途中で投げ出さなかった。
手のひらが赤くなっても、汗を流しながら何度も何度も生地に向き合い続けた。
わしはな、お前のその泥臭く真っ直ぐな手が大好きなんだ。
お前が焼くパンは、わしのものよりずっと優しくて、温かい。
お前の想いがこもっているからだ。
自信を持ちなさい。
お前はもう、立派なパン職人だ。
店を頼んだぞ。
今まで一緒にパンを焼いてくれて、本当にありがとうな』
便箋がショーンの指からこぼれ落ちそうになった。
彼は手紙を胸に固く抱きしめ、古びたパン捏ね台の上に突伏した。
「おじいちゃん……! 僕……僕、もっと頑張るから……! 逃げたりしないから……!」
堰を切ったように溢れ出すショーンの涙が、小麦粉の散らばる台の上を濡らし、小さな固まりを作っていく。
それは彼が不器用にも前へ進もうとする、決意の証のようだった。
それから数時間後。
「ココット」の煙突から真っ白な煙が立ち上り、焼き立ての香ばしいパンの匂いが秋の街いっぱいに広がった。
店先には、かつての祖父の笑顔によく似た、晴れやかな顔でパンを並べるショーンの姿があった。




