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辺境領再建記 〜追放された天才文官は、鉄血の女領主をロジカル内政力で救い出す〜  作者: 雅 佳人
第十三章:北風に備える晩秋

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第97話 秋風街道と届かぬ矢

 フィヨル村の豊穣祭が終わり、レオンたちがグランディアへ戻る少し前。

 東街道では、別の戦いが続いていた。


 敵は盗賊でも魔獣でもない。

 泥と石、そして秋雨でぬかるむ大地だった。

 

 一度踏み固めたはずの路面が、夜の雨でまた崩れ、朝には新しい傷を見せる。

 人の手で整え、人の手で守らなければ、道はすぐに荒れ果てる。


「そっちをもう少し掘れ!」

「排水溝を詰まらせるな!」

「橋脚の補強材を運べ!」


 澄んだ秋空の下、オスカーの声がよく通る。

 兵士たちは汗を流し、人夫たちは土を運び、職人たちは槌を振るう。


 作業の合間、遠くで土砂が崩れる鈍い音がした。

 兵士たちが一瞬だけ顔を上げる。

 この街道は、気を抜けばすぐ牙を見せる。

 そんな空気が、現場の誰もを引き締めていた。


 街道整備は順調に進んでいたが、順調だからこそ手を止める暇がない。


 ガレスから与えられた命令はただ一つ。

 東街道を物流の大動脈へ変えること。


 フィヨル村の大麦と麦酒、亜麻布、亜麻仁油──どれほど生産量が増えても、運べなければ宝の持ち腐れだ。

 冬が来る前に、そして春の商隊が動き出す前に、道を仕上げなければならない。


「隊長」


 秋風に銀髪を揺らしながら、シエルが書類を抱えて歩み寄ってきた。

 整備中の街道を渡る風は爽やかで、彼女の髪をさらりと撫でていく。


「第三野営地の柵が完成しました」


「物見櫓は?」


「あと三日です」


「早いな」


「職人が優秀ですから」


 オスカーは短く頷いた。

 余計な褒め言葉はない。

 必要な情報だけを受け取り、次の作業へ意識を切り替える。

 その無駄のない動きは、いつも通りだった。


「次は?」


「……次、ですか?」


「仕事だ」


「……はい」


 シエルは表情を崩さない。

 ただ、ほんのわずかに肩が落ちた。

 その変化は、風が揺らした草の影ほどに小さく、気づく者はほとんどいない。


 副隊長になって一年近く。

 義賊時代の副官を含めれば、もっと長い。

 共に戦い、共に働き、酒を酌み交わした夜もある。


 それでも、この男は変わらない。

 仕事に入ると周囲が見えなくなる。

 いや──仕事以外でも、大体見えていない。


 シエルは小さく息を吐いた。

 その吐息は秋風に紛れて、すぐに消えた。


 少し離れた場所で、その様子を眺めている男がいた。

 ドーガンである。


「若いなあ」


 ぽつりと漏れた独り言は、年齢の話ではない。

 二人の間に漂う空気のことだ。


 なんというか……じれったい。


⸻


 昼下がり。

 東街道脇の野営地に休憩の合図が響くと、さっきまで土煙とともに充満していた現場の喧騒が、ゆっくりと波が引くように静まっていった。

 

 新しく建てられた小屋は、まるで小さな砦のようにどっしりと構え、周囲には木柵と井戸、物見櫓が整然と並んでいる。

 旅人たちが安心して夜を明かせるように──そんな意図が随所に見える施設だった。


 シエルは職人たちの作業を手早く確認すると、排水溝の角度がわずかにずれているのを見つけて修正を指示した。

 その判断は的確で、職人たちも素直に従う。

 副隊長としての彼女の評価は高い。


 オスカーはその小屋の影で、一人地図を広げていた。

 街道の曲がり、地形の起伏、排水の流れ。

 視線は紙の上を丁寧に追い、周囲の気配などまるで耳に入っていない。


 そこへ、足音が近づく。


「隊長。昼食です」


 シエルだった。

 差し出された包みは、丁寧に結ばれた弁当。

 秋風に揺れる銀髪が、どこか柔らかい光を帯びて見える。


「……?」


 オスカーは視線を地図から外し、弁当へ向けた。


「作りました」


「そうか」


 短い返事とともに受け取る。


「助かる」


 それで終わりだった。

 シエルのこめかみが、わずかにぴくりと動く。


「それだけですか?」


「?」


「いえ……何でもありません」


 シエルは静かに席を立った。

 オスカーは首を傾げる。

 本当に分かっていない。

 その鈍さは、ある意味で才能だった。


 少し離れた場所では、ドーガンが肩を震わせていた。

 吹き出しそうになるのを必死で堪えていた。


「あのぅ」


 隣りの兵士が小声で尋ねる。


「どうしたんです?」


「いや」


 ドーガンは口元を押さえながら笑った。


「面白くてな」


 戦場なら百人を指揮できる男が、一人の女性の気持ちにはまるで気づかない。

 世の中は、本当にうまくできている。


⸻


 傾いた陽が街道を薄く染め始めた頃、秋風が昼の熱気が冷まし、土の匂いを運んでいた。

 その静けさを破るように──小さな騒ぎが起きた。


 馬車の車輪が、昨夜の雨で柔らかくなったぬかるみに深く沈み込んでいた。

 職人たちが慌てて周囲を掘り返そうとするが、泥は重く、思うように動かない。


「下がれ」


 短い声が空気を切った。

 オスカーが前へ出る。

 その動きは、誰もが見慣れているはずなのに、どこか頼もしさを帯びていた。


 彼は車輪の下に手を差し込み、ぐっと力を込める。

 筋肉が盛り上がり、泥の抵抗を押し返すように車輪が浮き上がった。

 馬車が前へと動き、ぬかるみから抜け出す。


 それで終わりだった。


 周囲から歓声が上がる。


「さすが隊長!」

「力持ちだ!」

「すげえ!」


 オスカーは何事もなかったかのように手を払っただけだった。

 その素っ気なさが、むしろ彼らしい。


 シエルは──

 思わず視線を奪われていた。


 昔からそうだった。

 強くて、真っ直ぐで、不器用で、責任感が強い。

 気づけば目で追ってしまう。

 ただ、それだけだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


「シエル」


「はい」


「車輪を確認してくれ」


「……はい」


 やっぱり気づかない。

 本当に気づかない。


 少し離れた場所で、ドーガンが肩を震わせていた。

 笑いを堪えているのが丸わかりだった。


⸻


 夜の帳がゆっくりと野営地を包み込み、焚火の橙色の光だけが、暗がりの中で静かに輪を描いていた。


 ぱちぱちと弾ける火の音が、今日一日の疲れをほぐすように響く。

 その火を囲むように、ドーガンは腰を下ろし、湯気をふわりと立ちのぼらせる木杯を手の中で温めていた。


 向かいにはシエル。

 珍しく、彼女の口から愚痴がこぼれていた。


「鈍感なんです」


「そうだな」


「絶対気づいてません」


「そうだな」


「気づくと思います?」


「無理だな」


 あまりにも即答で、シエルは思わず頭を抱えた。

 ドーガンは笑いを堪えきれず、肩を揺らす。


「だがな」


「?」


「オスカーも大概だが、お前さんも大概だぞ」


「どういう意味です?」


「言葉にしてないだろ」


 シエルは口を閉ざした。

 焚火の光が、彼女の横顔を静かに照らす。


 弁当を作った。

 いつも一緒に働いている。

 酒を酌み交わしたこともある。

 それでも──

 胸の内を言葉にしたことは、一度もない。


 だから、オスカーが気づかなくても仕方がない。


「男なんてな」


 ドーガンは木杯を軽く揺らしながら笑った。


「意外と馬鹿なんだ」


「隊長も?」


「特にあいつは」


 断言だった。

 シエルは思わず吹き出し、肩の力が少し抜けた。


 焚火が揺れ、秋の夜風が頬を撫でる。

 遠くでは見張りの兵士たちが交わす声が、静かな夜気に溶けていく。

 野営地は穏やかで、どこか温かかった。


「まあ焦るな」


 ドーガンが言う。


「街道整備はまだ続く」


「……はい」


「時間はある」


 シエルは小さく頷いた。

 その仕草は、焚火の光に照らされて柔らかく見えた。


 その時、向こうからオスカーの声が響いた。


「シエル」


「はい」


「明日も早い。寝ろ」


「……はい」


 素直に返事をすると、オスカーはそれだけ言って去っていった。

 いつも通りの、ぶっきらぼうで、真っ直ぐな背中だった。


 去り際、オスカーは焚火の火が弱まっているのに気づき、黙って薪を一つ足していった。それだけのことなのに、シエルは胸の奥が少し温かくなる。


 シエルはその背中を見送りながら、ほんの少しだけ笑った。


 届かない矢かもしれない。

 けれど──

 まだ諦めるには早い。


 街道整備はまだ途中なのだから。

 そして、二人の関係もまた──新しい道へ踏み出したばかりだった。

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