第97話 秋風街道と届かぬ矢
フィヨル村の豊穣祭が終わり、レオンたちがグランディアへ戻る少し前。
東街道では、別の戦いが続いていた。
敵は盗賊でも魔獣でもない。
泥と石、そして秋雨でぬかるむ大地だった。
一度踏み固めたはずの路面が、夜の雨でまた崩れ、朝には新しい傷を見せる。
人の手で整え、人の手で守らなければ、道はすぐに荒れ果てる。
「そっちをもう少し掘れ!」
「排水溝を詰まらせるな!」
「橋脚の補強材を運べ!」
澄んだ秋空の下、オスカーの声がよく通る。
兵士たちは汗を流し、人夫たちは土を運び、職人たちは槌を振るう。
作業の合間、遠くで土砂が崩れる鈍い音がした。
兵士たちが一瞬だけ顔を上げる。
この街道は、気を抜けばすぐ牙を見せる。
そんな空気が、現場の誰もを引き締めていた。
街道整備は順調に進んでいたが、順調だからこそ手を止める暇がない。
ガレスから与えられた命令はただ一つ。
東街道を物流の大動脈へ変えること。
フィヨル村の大麦と麦酒、亜麻布、亜麻仁油──どれほど生産量が増えても、運べなければ宝の持ち腐れだ。
冬が来る前に、そして春の商隊が動き出す前に、道を仕上げなければならない。
「隊長」
秋風に銀髪を揺らしながら、シエルが書類を抱えて歩み寄ってきた。
整備中の街道を渡る風は爽やかで、彼女の髪をさらりと撫でていく。
「第三野営地の柵が完成しました」
「物見櫓は?」
「あと三日です」
「早いな」
「職人が優秀ですから」
オスカーは短く頷いた。
余計な褒め言葉はない。
必要な情報だけを受け取り、次の作業へ意識を切り替える。
その無駄のない動きは、いつも通りだった。
「次は?」
「……次、ですか?」
「仕事だ」
「……はい」
シエルは表情を崩さない。
ただ、ほんのわずかに肩が落ちた。
その変化は、風が揺らした草の影ほどに小さく、気づく者はほとんどいない。
副隊長になって一年近く。
義賊時代の副官を含めれば、もっと長い。
共に戦い、共に働き、酒を酌み交わした夜もある。
それでも、この男は変わらない。
仕事に入ると周囲が見えなくなる。
いや──仕事以外でも、大体見えていない。
シエルは小さく息を吐いた。
その吐息は秋風に紛れて、すぐに消えた。
少し離れた場所で、その様子を眺めている男がいた。
ドーガンである。
「若いなあ」
ぽつりと漏れた独り言は、年齢の話ではない。
二人の間に漂う空気のことだ。
なんというか……じれったい。
⸻
昼下がり。
東街道脇の野営地に休憩の合図が響くと、さっきまで土煙とともに充満していた現場の喧騒が、ゆっくりと波が引くように静まっていった。
新しく建てられた小屋は、まるで小さな砦のようにどっしりと構え、周囲には木柵と井戸、物見櫓が整然と並んでいる。
旅人たちが安心して夜を明かせるように──そんな意図が随所に見える施設だった。
シエルは職人たちの作業を手早く確認すると、排水溝の角度がわずかにずれているのを見つけて修正を指示した。
その判断は的確で、職人たちも素直に従う。
副隊長としての彼女の評価は高い。
オスカーはその小屋の影で、一人地図を広げていた。
街道の曲がり、地形の起伏、排水の流れ。
視線は紙の上を丁寧に追い、周囲の気配などまるで耳に入っていない。
そこへ、足音が近づく。
「隊長。昼食です」
シエルだった。
差し出された包みは、丁寧に結ばれた弁当。
秋風に揺れる銀髪が、どこか柔らかい光を帯びて見える。
「……?」
オスカーは視線を地図から外し、弁当へ向けた。
「作りました」
「そうか」
短い返事とともに受け取る。
「助かる」
それで終わりだった。
シエルのこめかみが、わずかにぴくりと動く。
「それだけですか?」
「?」
「いえ……何でもありません」
シエルは静かに席を立った。
オスカーは首を傾げる。
本当に分かっていない。
その鈍さは、ある意味で才能だった。
少し離れた場所では、ドーガンが肩を震わせていた。
吹き出しそうになるのを必死で堪えていた。
「あのぅ」
隣りの兵士が小声で尋ねる。
「どうしたんです?」
「いや」
ドーガンは口元を押さえながら笑った。
「面白くてな」
戦場なら百人を指揮できる男が、一人の女性の気持ちにはまるで気づかない。
世の中は、本当にうまくできている。
⸻
傾いた陽が街道を薄く染め始めた頃、秋風が昼の熱気が冷まし、土の匂いを運んでいた。
その静けさを破るように──小さな騒ぎが起きた。
馬車の車輪が、昨夜の雨で柔らかくなったぬかるみに深く沈み込んでいた。
職人たちが慌てて周囲を掘り返そうとするが、泥は重く、思うように動かない。
「下がれ」
短い声が空気を切った。
オスカーが前へ出る。
その動きは、誰もが見慣れているはずなのに、どこか頼もしさを帯びていた。
彼は車輪の下に手を差し込み、ぐっと力を込める。
筋肉が盛り上がり、泥の抵抗を押し返すように車輪が浮き上がった。
馬車が前へと動き、ぬかるみから抜け出す。
それで終わりだった。
周囲から歓声が上がる。
「さすが隊長!」
「力持ちだ!」
「すげえ!」
オスカーは何事もなかったかのように手を払っただけだった。
その素っ気なさが、むしろ彼らしい。
シエルは──
思わず視線を奪われていた。
昔からそうだった。
強くて、真っ直ぐで、不器用で、責任感が強い。
気づけば目で追ってしまう。
ただ、それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「シエル」
「はい」
「車輪を確認してくれ」
「……はい」
やっぱり気づかない。
本当に気づかない。
少し離れた場所で、ドーガンが肩を震わせていた。
笑いを堪えているのが丸わかりだった。
⸻
夜の帳がゆっくりと野営地を包み込み、焚火の橙色の光だけが、暗がりの中で静かに輪を描いていた。
ぱちぱちと弾ける火の音が、今日一日の疲れをほぐすように響く。
その火を囲むように、ドーガンは腰を下ろし、湯気をふわりと立ちのぼらせる木杯を手の中で温めていた。
向かいにはシエル。
珍しく、彼女の口から愚痴がこぼれていた。
「鈍感なんです」
「そうだな」
「絶対気づいてません」
「そうだな」
「気づくと思います?」
「無理だな」
あまりにも即答で、シエルは思わず頭を抱えた。
ドーガンは笑いを堪えきれず、肩を揺らす。
「だがな」
「?」
「オスカーも大概だが、お前さんも大概だぞ」
「どういう意味です?」
「言葉にしてないだろ」
シエルは口を閉ざした。
焚火の光が、彼女の横顔を静かに照らす。
弁当を作った。
いつも一緒に働いている。
酒を酌み交わしたこともある。
それでも──
胸の内を言葉にしたことは、一度もない。
だから、オスカーが気づかなくても仕方がない。
「男なんてな」
ドーガンは木杯を軽く揺らしながら笑った。
「意外と馬鹿なんだ」
「隊長も?」
「特にあいつは」
断言だった。
シエルは思わず吹き出し、肩の力が少し抜けた。
焚火が揺れ、秋の夜風が頬を撫でる。
遠くでは見張りの兵士たちが交わす声が、静かな夜気に溶けていく。
野営地は穏やかで、どこか温かかった。
「まあ焦るな」
ドーガンが言う。
「街道整備はまだ続く」
「……はい」
「時間はある」
シエルは小さく頷いた。
その仕草は、焚火の光に照らされて柔らかく見えた。
その時、向こうからオスカーの声が響いた。
「シエル」
「はい」
「明日も早い。寝ろ」
「……はい」
素直に返事をすると、オスカーはそれだけ言って去っていった。
いつも通りの、ぶっきらぼうで、真っ直ぐな背中だった。
去り際、オスカーは焚火の火が弱まっているのに気づき、黙って薪を一つ足していった。それだけのことなのに、シエルは胸の奥が少し温かくなる。
シエルはその背中を見送りながら、ほんの少しだけ笑った。
届かない矢かもしれない。
けれど──
まだ諦めるには早い。
街道整備はまだ途中なのだから。
そして、二人の関係もまた──新しい道へ踏み出したばかりだった。




