第96話 若き番頭の幸福な悲鳴
その日の朝も、ジーク商会の番頭、ギリアム・フォルスは忙しかった。
とにかく忙しかった。
朝、商会の扉を開けた瞬間、机の上に積み上がった書類の山が目に飛び込んでくる。
まるで夜のうちに雪でも降ったかのように、白い紙束が机を覆い尽くしていた。
席に着くなり、ひたすらそれらを片付ける。
契約書に判を押し、注文書を整理し、輸送計画書に目を通し、仕入れ台帳を確認する。
だが、どれだけ処理しても、気づけば新しい束がそっと積み上げられている。
まるで背後で誰かが積んでいるのではと思うほどだった。
夜。
ようやく終わったと椅子にもたれた瞬間、使いの者が新しい依頼を抱えてやって来る。そのたびにギリアムは天を仰ぎ、そして机へ戻る。
「おかしい」
彼は真顔で呟いた。
「どう考えてもおかしい」
誰もいない執務室で独り言ちる。
傍からどれだけ滑稽に見えても、彼は真剣だった。
机の上には契約書、注文書、輸送計画書、仕入れ台帳──
そして大量の見積書。
どれも本物で、どれも急ぎで、どれも重要だった。
数か月前まで、ギリアムは名門ローラン商会の若手幹部だった。
将来は支店長、あるいは本店の重役。
そんな未来が手の届くところにあった。
だが辞めた。
もちろん円満に辞めた。
理由は単純だ。
“元神童”の名が再び商人たちの間で囁かれ始めたからだ。
幼い頃から噂になっていた少年──
商才、計算力、交渉力、すべてが規格外。
ローラン商会の当主の三男であり、ギリアムが若い頃から目をかけていた男。
ジーク・ローラン。
その男が家を出て、旅をし、金と経験を蓄え、いよいよ自分の商会を立ち上げるために動き出した。
ならば賭ける価値がある──
ギリアムは迷わずそう判断した。
彼は安定した未来より、未知の可能性を選んだ。
そして今。
彼は人生最大の後悔と、人生最大の成功を同時に味わっていた。
「忙しい……」
そう呟きながらも、ギリアムの顔は笑っていた。
忙しさの中に、確かな充実があった。
ローラン商会では決して味わえなかった、“明日は何が起きるかわからない”という刺激があった。
そしてその刺激が、たまらなく心地よかった。
⸻
その時、勢いよく扉が開いた。
「ギリアム!」
聞き慣れた声が執務室に響く。ジークだった。
ギリアムは顔を上げ、深いため息を飲み込んでから挨拶した。
「おはようございます」
ジーク商会では、朝でも昼でも夜でも……、挨拶は“おはようございます”だ。
「新しい注文だ」
「はい」
「カウム村の熟成チーズが完売した」
「はい」
「追加で百個」
「はい」
ギリアムは慣れた手つきで書類にさらさらと書き込む。
ここまでは、もう日常の一部だった。
しかし──
「それとエリザ麦酒も追加だ」
「はい」
「大樽で二十樽」
「……はい?」
ペンが止まった。
空気が一瞬だけ固まる。
「二十樽だ」
「聞こえてました」
問題は“聞こえたかどうか”ではない。
内容だ。
「大樽でですか?」
「大樽で二十樽だ」
ジークは平然としていた。
まるで「今日の天気は晴れだ」と言うかのように。
ギリアムはゆっくりと天井を見上げた。
(神様、これは試練ですかね……)
「足りますか?」
「足りないな」
「ですよね」
「だから増産してもらう」
「簡単に言いますね」
麦酒は水ではない。
麦芽が必要で、発酵槽が必要で、樽も倉庫も輸送も必要だ。
それらを揃えるのは簡単ではない。
だがジークは涼しい顔だった。
「売れるからな」
「売れますね」
悔しいが、その通りだった。
エリザ麦酒は予想をはるかに超える人気を博していた。
飲みやすく、香りが良く、品質が安定していて保存が効く。
商人たちが飛びつき、今ではグランディアだけでなく周辺領地からも問い合わせが殺到している。
「あと布だ」
ジークが続けた瞬間、ギリアムの背筋に嫌な予感が走った。
「フィヨル織布ですね」
「そうだ」
「こちらも売れてます」
「売れすぎてる」
その通りだった。
丈夫で軽く、通気性が良い。
職人が喜び、商人が買い、貴族の使用人たちまで注文し始めている。
市場に出した瞬間から、まるでそこには最初から何もなかったかのように売れていった。
「誰だ」
ギリアムは思わず呟いた。
「誰がこんな商品を考えたんだ」
「レオン様だな」
即答だった。
「ですよね」
知っていた。
麦酒も、布も、亜麻仁油も、発酵牧草も、チーズも──
大体あの男だった。
領地運営をしているはずなのに、次々と商品が生まれてくる。
しかも全部売れる。
何なのだろう。あの人。
商人でもないのに、商人以上の発想を持っている。
ギリアムは机の上の書類を見つめながら、心の底から思った。
本当に、この領地は止まらない。
⸻
その時、再び扉が開いた。
「失礼します」
サラだった。
抱えている書類の量を見た瞬間、ギリアムの脳裏に嫌な予感が走る。
彼女があの量を持ってくる時は、決まってろくなことがない。
「行政府の食堂から追加注文です」
「何のです?」
「大麦とカウム村の燻製チーズです。最近、麦粥の注文が増えているそうで」
「またですか」
「はい」
ギリアムは机に突っ伏した。
額が木の天板に触れた瞬間、腹の底からため息が漏れる。
最近はこればかりだった。
チーズが売れる。麦酒が売れる。布が売れる。油が売れる。
商品が増えれば仕事が増え、仕事が増えれば利益が増える。
嬉しい。
だが忙しい。
本当に忙しい。
「大丈夫ですか?」
サラが心配そうに身を屈める。
その声が妙に優しくて、ギリアムは顔を上げざるを得なかった。
「大丈夫です」
彼は姿勢を正し、深呼吸した。
「忙しいだけです」
「大変ですね」
「楽しいですよ」
それは強がりではなく、本心だった。
ローラン商会時代は安定していた。
失敗はしない。成功はする。
だが驚きは少なかった。
毎日が同じで、未来が見えている分、刺激は少なかった。
今は違う。
毎日何かが起きる。
昨日までなかった商品が今日には売れ、
今日までなかった商談が明日には成立する。
毎週、商談が増え、
毎月、新商品が生まれ、
気づけば商会の規模がひと回り大きくなっている。
明日はどうなるか分からない。
だが、明るい未来は確かに見える。
だから面白い。
だから辞めなかった。
だから今も笑っていられる。
ギリアムは机の上の書類を見つめながら、湧き出てくる高揚感を噛みしめた。
この領地は、まだまだ伸びる。
そして自分は、その渦中にいる。
それが、たまらなく嬉しかった。
⸻
夕暮れが街を包み始める頃──
誰そ彼時の柔らかな光が窓辺に滲み、ギリアムはようやく今ある業務に目途を付け、ぼんやり外を眺めていた。
窓の外には、夕陽に染まるグランディアの街並みが広がっている。
行き交う荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、商人たちの声が遠くで重なり、市場にはまだ熱のこもった喧騒が漂っていた。
噂で聞いていたよりも──いや、
自分が知っていた頃よりも、この街は明らかに賑やかになっている。
「変わりましたね」
思わず漏れた独り言は、夕暮れの光に溶けていった。
ほんの数年前に訪れた領都とはまるで別物だ。
あの頃の辺境領は貧しく、発展とは無縁で、商人が足を止める理由もなかった。
だが今は違う。
街道は整備され、
村々は活気を取り戻し、
商人が集まり、
金が動き、
人が流れ込む。
まるで領地そのものが息を吹き返し、未来へ向かって歩き出したかのようだった。
その一端を自分たちが担っているのだと思うと、胸の奥が熱くなる。
その時、背後から足音が近づいた。
振り返ると、ジークが立っていた。
「ギリアム、まだいたのか」
「あなたもですよ」
ギリアムは笑った。
夕陽の名残が二人の影を細く伸ばし、部屋の空気をゆっくりと夜へ染めていく。
しばらく二人で窓の外を眺める。
言葉はなくとも、同じ景色を見ているだけで十分だった。
「後悔しているか?」
ふいにジークが尋ねた。
ギリアムは少しだけ考え、そして迷いなく首を横に振った。
「まさか」
それは偽りのない答えだった。
「忙しいですけど」
「ああ」
「死ぬほど忙しいですけど」
「ああ」
「最高ですよ」
その言葉に、ジークが笑った。
普段は滅多に見せない、柔らかく、どこか誇らしげな笑顔だった。
窓の外には、夕陽に染まるグランディア。
発展していく街。
未来へ向かう領地。
そして──
まだまだ増えそうな仕事。
ギリアムは深く息を吐いた。
「次は何が来るんでしょうね」
「さあな」
ジークは肩を竦める。
だが二人とも知っていた。
きっとまた何か始まる。
この領地は止まらない。
そしてその渦の中にいる自分たちが──たまらなく面白かった。




