第71話 蒼と漆黒の瞳、北壁の傷
秋はまだ遠い。
だが、夏の終わりは確かに近づいていた。
夕暮れの領都グランディア。
領主館の執務室には、橙色の陽光が斜めに差し込み、机の上に積まれた書類の山を柔らかく照らしていた。
その最上段に置かれているのは──
護衛騎士隊長ガレスが提出した、北方砦強化計画の最新報告書。
エリザベートは静かに紙をめくった。
城壁の補強、物見櫓の増設、兵舎の拡張──どの項目も、砦の弱点を的確に突き、現実的な範囲で最大の効果を狙ったものばかりだ。
監視体制の再編や、護衛哨戒隊との連携強化も盛り込まれている。
堅実で、無駄がなく、地に足のついた計画。
まさにガレスらしい。
──だが。
視線が、ある一行で止まった。
『北面外壁』
その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
紙の白さが、ふいに雪景色へと変わる。
白い息。
赤い血。
耳を裂く悲鳴。
魔獣の咆哮。
あの頃の自分は、ただ震えることしかできなかった。
その前に立ちはだかるように、父が剣を握っていた。
そして──二度と帰らなかった背中。
エリザベートはそっと目を閉じた。
あれは領地にとっても、自分にとっても、深く刻まれた傷だ。
時間が経っても薄れない、雪の冷たさのような記憶。
「……机の上だけでは駄目だな」
ぽつりと呟いた時には、もう決意していた。
紙の上の計画や報告だけでは足りない。
自分の目で見なければならない。
あの場所を、あの壁を、あの傷を。
──北へ行こう。
⸻
翌朝。
まだ夜明け前の空は群青色で、街の灯りもまばらだった。
北門前に立つレオンは、半分眠ったような目で空を見上げていた。
レオンは目をこすりながら、まるで冬眠から無理やり起こされた熊のような顔をしていた。
「……眠い」
吐き出した言葉は白くはならないが、気持ちは真冬だった。
フィヨル村から戻ってきて数日。
溜まった仕事にも目途がつき、ようやく布団に沈む幸せを味わえると思っていたのに──
「来たか」
その期待を粉々にした張本人が、馬上から声をかけてきた。
エリザベート。
愛馬に跨り、朝の冷気をものともせず、凛とした姿で立っている。
その表情には、悪びれた様子など一欠片もない。
「聞いてませんよ」
「昨日言った」
「昨夜ですよね?」
「言った」
「もっと前に言ってください」
「今言ったら来ないだろう」
「当たり前です」
レオンの即答に、エリザベートはふっと口元を緩めた。
最近、こういうやり取りが増えた。
昔なら、彼女はこんな軽口を返す余裕すらなかった。
今は違う。
自然に言葉が交わせる。
その変化が、レオンには少しだけ嬉しかった。
「行くぞ」
「はいはい、わかりました」
二人は馬を並べて歩き出した。
護衛を連れていては、この静けさも歩調も乱れてしまう。
今の二人には、これくらいの距離感がちょうど良かった。
辺境伯エリザベートは剣の達人で、レオンもまた文武両道、下手な騎士よりよほど頼りになる。
むしろ護衛がいれば、視察というより行軍になってしまう。
今日の目的には、二人だけの方が都合が良かった。
護衛はいない。必要なかった。
北門を抜けると、東の空にはゆっくりと朝焼けが広がっていた──
露をまとった草原が赤く染まり、夜の冷たさを残した風が頬を撫でていく。
馬の蹄がゆったりと土を叩き、二人の影が長く伸びていった。
誰にも邪魔されず、ただ二人だけで。
静かな朝の道を、軽やかに進んでいった。
⸻
露を含んだ草原の匂いが風に乗り、朝の光がゆっくりと広がっていく。
夜の冷たさがまだ残っているのに、どこか柔らかい温度を含んだ風だった。
馬の蹄が、ゆったりとした間を置いて土を叩く。
二人の馬は自然と同じ歩調になり、並んで街道を進んでいく。
誰にも邪魔されず、ただ二人で──
朝の静けさが、まるで二人のために用意された時間のようだった。
「……静かですね」
レオンがぽつりと呟く。
「ああ。そうだな」
「最近ずっと誰かいましたし」
サラ、ジーク、ガレス、オスカー、シエル──
いつも誰かがそばにいた。
賑やかで、忙しくて、慌ただしい日々。
だからこそ、こうして二人きりで馬を進める時間は、どこか新鮮だった。
「嫌か?」
「いや。嫌じゃないです」
あまりにも自然な即答だった。
レオン自身は気づいていない。
けれど、エリザベートはその言葉に一瞬だけ視線を逸らした。
朝の風が少し冷たかった。
耳の色はきっと、そのせいだ──。
⸻
太陽が完全に昇る頃、二人は川辺で休憩を取った。
澄んだ水がさらさらと流れ、木陰には柔らかな風が通り抜ける。
馬たちも静かに草を食み、穏やかな時間が流れていた。
レオンが荷物を開き、干し肉とパン、チーズを取り出す。
近くの枯れ枝を手早く集め、携帯用の火起こし魔道具をひと振りすると、小さな炎がぱっと灯った。
ただ焼いただけなのに、しばらくすると香ばしい匂いが漂い始めた。
「……器用だな」
「旅が長かったので」
レオンは淡々と答えるが、手際は見事だった。
湯気の立ち方ひとつで食欲を誘う。
エリザベートは一口食べて、目を瞬いた。
「美味い」
「それは良かった」
「本当に美味い」
珍しく素直な声だった。
その素直さが、レオンには少し嬉しい。
「お前は……嫁に欲しいな」
思わず口から漏れた言葉に、空気が止まる。
「……え?」
「料理人としてだ!」
慌てて言い直すエリザベートの頬は、ほんのり赤い。
レオンも同じように赤くなっている。
川の流れだけが、変わらず静かに音を立てていた。
⸻
昼前、二人は北の砦へと辿り着いた。
そこに足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
風はひやりと冷たく、山脈が近いせいか、夏の名残を押し返すような鋭さがあった。
砦に近づくほど、空気は澄みすぎて痛いほどだった。
夏の終わりだというのに、ここだけ季節がひとつ早く進んでいるようだった。
砦の土塁は古く、長い年月を耐え抜いてきた重みをまとっている。
砦は土塁と石壁を組み合わせた古い造りで、あちこちに補修の跡が残り、そして──外壁の一角には、今も深々と刻まれた巨大な爪痕があった。
魔獣の痕跡。
ただの傷ではない。
この地が背負ってきた恐怖と犠牲の象徴だった。
エリザベートはその爪痕を、しばらく黙って見つめていた。
父が戦った場所。
守ろうとした場所。
そして命を落とした戦いの延長線上にある場所。
胸の奥が、じんと痛む。
風が吹くたびに、古い記憶が呼び起こされるようだった。
レオンは何も言わず、ただ隣りに立った。
その沈黙は、言葉よりも温かかった。
彼がそこにいる──それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
しばらく沈黙が続いた。
風が石壁を撫でる音だけが響く。
エリザベートは何かを言いかけて、唇を閉じ──
そして、意を決したように口を開いた。
「……怖かったんだ」
声は小さく、風に溶けてしまいそうだった。
「今でも。……また失うのが」
領民。
兵士。
仲間。
家族。
そして──大切なもの。
そのすべてを守れなかったあの日の痛みが、まだ胸に残っている。
レオンは静かに頷いた。
彼の表情は穏やかで、揺るぎがなかった。
「だから守るんですよ」
その声は、砦のひんやりとした空気の中で不思議と温かく響いた。
「街道も、村も、宿場町も、領都も──そして、そこに生きる命も。全部。
今度は守る番です。」
エリザベートは隣りを見る。
いつも通りの笑顔。
だが、今日はそれがなぜか胸の奥まで届いた。
「そうだな」
自然と笑みが浮かぶ。
もう一人ではない。
その事実が、こんなにも心強いとは思わなかった。
⸻
日が暮れる前に、二人はグランディアへ戻ってきた。
夕陽が柵を赤く染め、門前の影を長く伸ばしている。
その影の中に、腕を組んで立つ男がいた。
ガレスである。
まるで帰りを待ち構えていたかのように、微動だにせず立っていた。
本当は付いて行きたかった。
だが、必死に我慢した。
大人だからだ──たぶん。
「お帰りなさい」
深く頭を下げたガレスは、顔を上げた瞬間、わずかに目を細めた。
エリザベートの表情が、いつもより柔らかい。
レオンは自然にその隣りに立ち、二人の距離がいつもよりわずかに近い。
だが、本人たちは気づいていない。
長年エリザベートを見てきたガレスには分かる。
──確実に、前より近づいている。
「ふむ」
思わず漏れた声に、エリザベートが怪訝そうに眉を寄せた。
「どうした?」
「いえ。何でもありません」
ガレスは咳払いし、何事もなかったように表情を整える。
だが、その目は誤魔化せていない。
二人が並んで街へ入っていく背中を見送りながら、護衛騎士隊長は誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「順調だな」
その声音には、長く守ってきた“妹”の幸せを願う静かな安堵が滲んでいた。
そして、表情には、戦場では決して見せない──
どこか兄のような、実に楽しそうな笑みが浮かんでいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今話をもって「第十章:満たされる初秋」は一区切りとなります。
次話からは「第十一章:天高く羊肥える秋」を予定しています。
風鳴りの村──カウム村では、牧畜を中心としたさらなる改革が始まります。
引き続き楽しんでいただければ嬉しいです。
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レオンとエリザベート、そして仲間たちの旅路を、これからも温かく見守っていただければ幸いです。




