第69話 二人の歩幅
夏の名残りを含んだ陽光が、グランディアの石畳を白く照らし返していた。
季節は秋へ向かっているはずなのに、街の熱気は衰えない。
領都グランディア──
フォルスワーグ辺境伯領の中心にして、人と物と金が絶え間なく流れ込む“辺境の要”。
その要は、今日はいつにも増してざわめきを増していた。
月に一度の大市の日。
普段の露店に加え、宿場町レストやカウム村、ザルツ村やフィヨル村から人々が押し寄せ、最近では隣領リールスタットからも商人がやってくる。
大通りは人の波で埋まり、香辛料の匂い、焼き菓子の甘い香り、木工の削り屑の匂い、呼び声、笑い声、値切り交渉の声……
領都そのものが巨大な生き物となり、息づき、脈動しているようだった。
その喧騒を行政府の窓から見下ろしながら、サラは深いため息をついた。
「……どうしてこうなるんでしょう」
机の向かいには領主補佐のレオン。
そしてその隣りには──護衛騎士隊長のガレス。
二人とも、まるで子供が悪戯を見つかった時のような、申し訳なさそうな顔をしていた。
申し訳ないと思うなら依頼しないでほしい。
心の底からそう思う。
「本当は俺が行くべきなんだがな」
ガレスが頭をかきながら言った。
「北方砦の強化対応がずれ込んでてな。報告書が……」
レオンも肩をすくめる。
「私もカウム村の二次改革案について、エリザベート様への報告予定が入っていまして……。どうしても外せません」
サラは冷ややかに言った。
「つまり──二人とも忙しいから私が行けと」
「そうなる」
「そうなります」
声が揃った。
腹が立つ。
とても腹が立つ。
だが、仕事なのだから仕方がない。
それがまた腹立たしい。
「……分かりました」
サラは諦めたように立ち上がった。
「市場の視察ですね」
「頼む」
ガレスが申し訳なさそうに頷く。
その時──
レオンが、まるで何でもないことのように付け加えた。
「一人だと大変ですから、ジークにも同行してもらいます」
サラの動きが止まった。
「……誰が?」
「ジークです」
「なぜ?」
「商人だからです」
「嫌です」
「即答ですね」
レオンが苦笑する。
ガレスも「まあまあ」と手を上げたが、サラの表情は氷点下のままだった。
よりによってあの男。
元神童と呼ばれ、最近では本当に商会まで立ち上げてしまった、あの生意気な商人。
最近ますます調子に乗っている。
そして、彼と一緒に行けば──
絶対に面倒なことになる。
確信できる。
サラは窓の外の喧騒を見つめた。
陽光は眩しく、街は活気に満ちている。
だが彼女の胸の内には、嫌な予感だけがじわりと広がっていた。
⸻
一時間後。
グランディア中央市場。
昼下がりの陽光はまだ強く、露店の布屋根が揺れるたびに光と影が地面を斑に染めていた。
人の波は相変わらず途切れず、香辛料の匂いと焼き肉の香りが混ざり合い、喧騒は耳の奥にまで響く。
「サラさん、その……随分と不機嫌そうに見えますが」
開口一番、ジークが言った。
「あなたがいるからです」
「それは奇遇ですね。私も同じことを思っていました」
お互い、迷いなく即答だった。
近くの商人たちが、また始まったと肩をすくめる。
「仕事です」
サラがきっぱりと言う。
「余計なことはしないでください」
「その言葉は、そのままお返しします」
「私は余計なことをしません」
「……自覚がないのが一番怖いですね」
ジークが肩をすくめた。
「まったく心外です」
その様子に、さっきの商人たちが苦笑する。
「相変わらずですねえ」
「今日はどっちが勝つんだか」
サラは聞こえないふりをして帳簿を抱え直した。
「視察です。遊びではありません」
「もちろんです」
即答。
信用できない即答だった。
サラは小さくため息をついたが、それ以上は何も言わなかった。
仕事は仕事だ。
サラは帳簿を抱え直し、ジークは人混みへと視線を向ける。
視察は始まったばかりだった。
⸻
まず向かったのは中央市場の食材区画だった。
広場には山のように積まれた小麦袋が影を落とし、カウム村の羊肉、隣領リールスタット産の干し肉、さらにはザルツ村の鉱夫たちが好む保存食まで、各地の品が所狭しと並んでいる。
人々の声が飛び交い、木箱を動かす音がガタリと混じる。
その喧騒の中で、サラは帳簿を開き、素早く数字を追った。
「……おかしいですね」
低く落とした声に、ジークがすぐ反応する。
「どこがです?」
「この店。小麦の価格が周辺相場より明らかに高いんです」
ジークは店頭へ視線を向け、客の流れを観察した。
「ですが……売れていますね。むしろ他より客が多い」
「そこが変なんです」
サラの目が細くなる。
数字を読む者特有の、冷たい光が宿った。
「値段が高い店ほど客は離れるはずなのに──逆です」
その一言で、店主の顔色がみるみる青ざめた。
ジークは思わず口元を押さえる。
「……相変わらず鋭い。数字の前では、まるで逃げ場がありませんね」
サラは無言で店主に近づき、袋の一つを持ち上げた。
重さを確かめるように軽く揺らし、次に秤へ乗せる。
針が、微妙に──しかし確実に──軽い方へ傾いた。
「……やっぱり」
ジークが肩をすくめる。
「重量をごまかして、あえて高値で売る……“質が良いように見せる”手口ですね」
サラは淡々と頷いた。
「信用を悪用した典型です。数字を見れば、すぐ分かります」
店主は完全に観念したように肩を落とした。
ジークは横目でサラを見て、苦笑する。
「ほんと、あなたの目は怖いくらい正確だ。でも……頼りになりますね」
サラは少しだけ眉を上げた。
「褒めても何も出ませんよ」
「褒めてません。事実を言っただけです」
二人の視線が一瞬だけ交わり、すぐに離れた。
市場の喧騒の中で、二人のやり取りだけが妙に印象に残った。
その静けさを破るように、店主が地面に額がつきそうなほど深く頭を下げ、必死に弁解した。
サラは容赦なく是正命令を出した。
その声は冷たく、しかし一切の迷いがなかった。
「……怖いな」
ジークが小さく呟く。
「何か言いました?」
「いえ、何でも」
サラの視線が向くと、ジークは即座に笑顔で誤魔化した。
だがその内心では、別の感情が芽生えていた。
自分なら利益率や流通量、客層の変化から異常を探す。
だがサラは“数字の違和感”そのものを嗅ぎ取る。
同じ商売でも、見ている角度がまるで違う。
それが、妙に面白かった。
市場の喧騒の中で、ジークはほんの少しだけ口元を緩めた。
⸻
その後も二人は市場を歩き続けた。
鍛冶屋では、鉄を打つ音が空気を震わせ、
羊毛商では、ふわりとした白い毛が風に舞い、
薬草商では、乾いた草の香りが鼻をくすぐり、
魚屋では、川魚の干物が風に揺れ、細かな鱗が陽光を受けて淡く光っていた。
サラは帳簿を片手に淡々と数字を確認し、
ジークは人の流れや商品の配置を観察する。
そして──
今度はジークが足を止めた。
ある木工品の露店の前だった。
「どうしました?」
サラが問いかける。
ジークは店ではなく、店の前を通る人々を見ていた。
若い夫婦、子供を抱えた母親、木製の玩具を手に取って笑う子供たち。
「この店……半年後には大きくなります」
「ただの木工品店に見えますが?」
サラは素っ気なく言う。
ジークは首を横に振った。
「客層が違います。若い夫婦が多い。子供向けの商品を見ている。
生活が安定してきたフォルスワーグ領の人口増加と合わせれば──」
彼は木材の質や職人の手際、商品の回転率まで一瞬で見抜いていた。
「これは“伸びる商い”の兆しです」
サラは黙った。
そこまでは見ていなかった。
数字は見える。
だが未来の流れは見えない。
「……なるほど」
素直にそう言った。
ジークが少し驚いた顔をする。
「珍しいですね。認めてくださるとは」
「腹は立ちますが、才能は認めています」
サラは淡々と言ったが、ジークは一瞬だけ言葉を失った。
予想外だったのだろう。
そして、ふっと小さく笑った。
「……そう言っていただけると、嬉しいですね」
その笑みは、いつもの皮肉や挑発ではなく、どこか素直で、少しだけ照れたようなものだった。
サラは視線を逸らした。
返す言葉が、なぜかすぐには見つからなかった。
⸻
夕方。
長かった市場の視察がようやく終わった。
西日が街を茜色に染め、露店の布屋根が赤く揺れる。
片付けを始める商人たちの声があちこちで響き、昼間あれほど賑やかだった子供たちの声も、今はもう遠くに消えつつあった。
帰り道。
ふと、香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
焼き菓子の屋台だった。
最近人気の“亜麻仁油の焼き菓子”。
フィヨル村で改良された亜麻仁油を使った、新しい名物だ。
黄金色の油と蜂蜜を生地に練り込むことで、外は香ばしく、中はしっとりと甘い──そんな評判が広まっている。
ジークは迷いなく二つ買った。
「サラさん。どうぞ」
「結構です」
「遠慮なさらず」
「してません」
「では……仕事代ということで」
「いりません」
頑固だった。
いつものことだが、今日は特に頑なだった。
しかし──
ぐうぅ……
小さな音が、夕暮れの静けさに妙に響いた。
沈黙。
サラの顔が、夕日の色よりも赤く染まった。
昼を食べ損ねていたのだ。
ジークは堪えきれず吹き出した。
「……食べてください」
「……」
「サラさん。食べてください」
「……一口だけなら」
サラは観念したように受け取った。
一口。
外は香ばしく、中はほんのり甘い。
亜麻仁油特有の香りがふわりと広がり、舌に優しく溶けていく。
サラは思わず目を見開いた。
「……美味しいですね」
「でしょう。フィヨル村の油は、本当に良い出来ですよね」
まるで自分だけで作ったかのような誇らしげな顔をしている。
……腹が立つ。
でも──
少しだけ。
本当に少しだけ。
今日のジークは嫌いではなかった。
隣りを歩く横顔を見る。
天才。
生意気。
傲慢。
けれど努力家。
そして──
誰よりも真剣に商売を愛している男。
「……」
サラはまた視線を逸らした。
焼き菓子をもう一口だけかじる。
思ったより甘かった。
⸻
一方で、ジークも同じことを考えていた。
面倒な女性だ。
融通が利かない。
金に細かい。
頑固。
でも──
誰よりも誠実で、
誰よりも領地を思い、
誰よりも仕事に真剣だ。
「……悪くないですね」
「何か言いました?」
「いえ、何でもありません」
サラが怪訝そうに眉を寄せ、ジークは軽く笑って誤魔化した。
そして二人はまた歩き出す。
西日に長く伸びた二つの影が、石畳の上で並んでいた。




