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第3話 小さな仕組みと、微かな希望

 朝は、冷えた空気とともに始まった。


 風は夜から朝に移り変わる時間帯特有の湿り気をわずかに残しながらも、空は昨日よりも幾分か高く、雲の切れ間から差し込む光が、荒れた街道の輪郭を淡く浮かび上がらせている。


 だが、それでもなお、この土地の貧しさを覆い隠すには足りなかった。


 ぬかるんだ道は乾ききらず、ところどころに残る水たまりが、歪んだ空を映している。荷車は慎重に進み、人々は足元を確かめるように歩く。


 すべてが遅い。

 すべてが重い。

 それが、この領地の日常だった。


 その一角で、濃い灰色の前髪を時折かきあげながら、レオンは測り続けていた。


 指先が汚れることも厭わずに土をすくい上げ、軽く押し潰し、その粘度と水分量を確かめる。さらに周囲の轍の深さを視線で測り、帳面に記録していく。


 すでに二週間のうち、五日が経っていた。


 観察のみ。

 それが美貌の領主から課せられた条件だった。


 だがレオンにとって、それは制約ではない。

 むしろ必要な時間だった。


(足りない)


 帳面を閉じながら、内心でそう結論づける。

 朝から少しずつ昼へと空気が入れ替わり、さまざまなものが気づかない速度で乾いていく。風がふわりと頬を撫でた。

 この領地に欠けているものは多い。


 人手、物資、時間、整備された道…だがその中で、最も致命的なものは──


(“受け皿”がない)


 一つの損失を吸収する仕組みが存在しない。

 だから、小さな事故がそのまま破綻へと繋がる。失敗が許されない。ゆとりも備えもないのだ。


 それは昨日も見た。

 一昨日も。そして今朝も。


 視線を上げる。

 

 また一台、荷車が立ち往生している。

 荷車が原因ではない。今度は馬だ。


 脚を取られ、滑り、ぬかるみに蹄の上まで埋まってしまったその馬は、荒い息を吐きながら必死に抜け出そうともがくが、抜け出せない。踏ん張りも効かない。


 荷主の男が、馬に声をかけながら必死に引き上げようとしているが、力が足りない。汗が頬を伝う。


 周囲の人間は──


 気づいてはいるのだ。視線の端で捉えてはいるのだ。だが、その瞳にはっきりとは映さない。動かない。


(同じだ)


 レオンは髪色と似た濃い灰色のズボンに着いた、少し乾いた泥をはらいながら立ち上がる。


 そして、歩き出した。


 観察だけ。


 まだ着任の挨拶も正式にはできていない、鋭くでもどこか儚げな蒼瞳の上司には、そう言われている。


 だが──


(十分だ)


 必要な情報は揃っている。

 あとは、試すだけだ。


「……手を貸していただけますか」


 声は大きくない。

 だが、はっきりと届く意思のこもった声色だった。


 荷主の男が億劫そうな表情で視線を上げる。

 疲労と焦燥が滲んだ目。声が少し掠れていた。


「……あんた、誰だ」


「領主の配下です」


 嘘ではない。

 領主への通知が届いているかは知らない。だが、王都では数ヶ月前に辞令が出ている。出されている。


「馬を引き上げます。ただし──」


 一拍、間を置く。

 なぜか、少し音が消えた気がした。

 周囲の視線が、わずかに集まる。耳はそれ以上に集まっている気配がした。


「手伝った方には、後で“返します”」


 ざわり、と空気が揺れた。

 音は聞こえている、でも意味が伝わっていない。そんな揺れ方。

 その言葉は、この土地では異質だった。


「……返す?」

 答えたのは、荷主の男だったか、周囲の声だったか、それとも両方だったか。


「はい。今回の労力を記録し、同様の事態が起きた際に優先的に支援します」


 静かな、でも確かなざわめきが起きる。理解できない、という顔が並ぶ。


 当然だ。

 これは、この領地には存在しない概念だからだ。王都から離れたこの辺境の地だからではなく、この世界では聞いたことのない概念。


 だが──


「記録は私が行います」


 少し泥で汚れた帳面を左手で軽く掲げる。

 使っている紙質は一般的な行商人が使っているものと同じ。ただ、装丁には王都の高級官僚が使用しているような気品があった。


「嘘はつきません。領主にも報告します」


 その一言で、また空気が変わる。周囲の顔つきが、思考が、自分の元に返ってきた。そんな空気。


 “領主”という言葉。


 それは、この土地において絶対に近い重みを持つ。


 連綿と受け継がれてきた善政と、若くして過酷な現実に立ち向かう今代の領主。

 他領のことは、四季に一度しか訪れない行商人の噂話でしか知らない。

 だが、この土地に住まう人々は、魔獣の活動域に近い辺境を統治することの難しさを、日々を生きていく中でわかっている。

 わかっているからこそ、若くして領主になった、ならざるを得なかった令嬢が、領主の顔と瞳になっていく時を共に過ごしてきたのだ。


 完全な信用ではない。

 だが、無視もできない。


 数秒の沈黙。


 そして──


「……俺がやる」


 一人の男が前に出た。

 三十代だろうか。痩せているが、動きは機敏で、服装も質素ながらよく繕われている。


 続いて、もう一人。さらに一人。

 男ばかり三人。


 十分だ。


「ありがとうございます」


 レオンは短く、だが深々と頭を下げる。

 気づけば自然とざわめきが止み、周りの視線が4人の間を遠慮がちに行き来する。


「では、縄をこちらに」


 レオンが指示を出す。指示を出すことに慣れた声。それは穏やかで優しく自信のある音だった。


 三人の動きも素早かった。

 荷車の持ち主から、一人が縄を受け取る。

 まるでこうすれば良いのにと思い描いていたかのように、無駄がなかった。


 馬の脚を傷めないように縄をかける箇所を選び、角度を調整し、三人の力を一点に集中させる。


「……今です」


 レオンの掛け声とともに、引き上げる。

 泥が跳ねる。少し不快な泥が跳ねる音。


 それを掻き消すように馬が大きく鳴き、脚を踏みしめる。筋肉が浮き上がる。


 そして──


 立ち上がった。

 誰とは無しに短い歓声が上がる。


 小さな成功。それは、理想の世界では当たり前の光景に過ぎないのかもしれない。

 だが、この場にいる人間にとっては、確かな違いだった。


「……助かった…ありがとう」


 荷主の男が、深く息を吐く。

 その声には、安堵と同時に、わずかな驚きが混じっていた。


 レオンは、あたかもそれが決まりかのように帳面を開く。


「三名、協力。日時は、名前は、内容は──」


 記録していく。

 正確に。

 淡々と。感情を込めず事実を。


 それを見て、先ほど最初に名乗り出た男が口を開いた。その顔に笑顔はない。


「……本当に、返ってくるのか」


 疑いは消えていない。当然だ。


 だが──


「はい。領主エリザベート様の名に誓って」


 レオンは即答する。領主の名前を出すことが不本意だったのかもしれない。

「返します。仕組みとして」

 言葉をすぐに重ねた。


 男はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。


 完全な納得ではない。

 だが、否定もしない。されない。


 一歩としては、それで十分だった。



「……面白いことをしますね」


 その声は、少し離れた場所から聞こえた。

 レオンと男たちが振り向くと、そこには領主よりも少し若く見える一人の女性が立っていた。




第3話までお読みいただき、本当にありがとうございました!

通勤・通学、お帰りの時間等に楽しんでいただけるよう、【毎日 朝7:00 / 夜18:00】の1日2回更新でどんどんお話をアップしていきます。

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これからもレオンとエリザベートたちの物語を温かく見守っていただけるとありがたいです。

よろしくお願いいたします。

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